2009年11月05日

11月14日 新日本フィル 定期演奏会

研究発表のため、下記の演奏会に行かれなくなりました。
どなたか、御興味のある方に聴いていただけると幸いです。

11月14日(土) 14時 すみだトリフォニーホール
クリスチャン・アルミンク指揮 新日本フィル
クラリネット:ジャン=リュク・ヴォターノ

シベリウス作曲/組曲『レンミンケイネン』より op.22『トゥオネラの白鳥』
リンドベルイ作曲/クラリネット協奏曲 (2002)
ブラームス作曲/セレナード 第1番ニ長調 op.11

C席(3階11列中央ブロック、2枚連席、1回券価格¥4,500)を1枚¥1,500で譲ります。館主への連絡は
heiemon47★yahoo.co.jp
(★を@に変えて送信してください)
へのメールでお願いいたします。
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研究発表のお知らせ 11月14日(土)

 急な話なのですが、先週末に、来週研究発表をすることに決まりました。準備期間が10日ほどしかありませんが、出来る限りのことをして臨むつもりです。中学の古典の授業に関心をお持ちの先生方には、御来場の上、御意見をいただけるとありがたく思います。

11月14日(土) 14時〜 なかのゼロホール 会議室
21世紀国語教育研究会例会

題目:「新指導要領下での中学古典学習材の開発〜2つの方向性〜」
発表者:山之内英明(文化女子大学附属中学・高等学校ほか講師

 新学習指導要領の下で、小学校から古典指導が行われることになり、中学校での古典指導にも大きな変革が求められている。そこで、中学国語での新たな古典学習材の導入例として、従来から教科書で採り上げられてきた『竹取物語』の別な箇所を用いる事例と、従来は教科書に採択されていなかった井原西鶴『本朝桜陰比事』を古典落語『三方一両損』と併せて用いる事例の2例を提言し、古典学習材の開発に際しての基本的な考え方についての私見を述べることとしたい。

 私の発表は2番目で、14時45分頃からになると思います。
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一山越えて…

11月4日
 C大高校の中間試験を返して成績処理を終えた。これで中間試験に関する仕事は完全に終了。10月初めから、原稿の締め切りや試験など、期限厳守の仕事を抱え続けて来て、本当にブログを更新する余裕がなかったけれど、ちょっと一段落。先月は、「原稿」と呼べるものを全部で23万字くらい書いた。これは自己新記録だ。10月中に見たり聴いたりしたものについては、後から振り返るつもり。コンサートオペラの会場からの帰り道に電車で座れた場合には、途中まで書きかけているものが多数ある。週刊オン・ステージ新聞に批評を掲載したものも、書ききれなかったことがたくさんある。
 今月のステージと並行して書いて行くので、ちょっと見づらいブログになってしまうかもしれませんが、どうぞ懲りずにお付き合いください。
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2009年10月26日

ブックデザインの展覧会

RIMG0288.JPGRIMG0290.JPG10月24日(土)
 中間試験が終わった。まだ 採点や原稿の締め切りが残っているが、少しホッとした。夕刻、神田錦町の「Kandada」に立ち寄り、「高麗隆彦と桂川潤のブックデザイン」展を見る。最終日で、到着した時には既にエンディング・パーティーが始まっていたが、展示されていた本を手にとって1時間あまりの時間を楽しんだ。絵画や彫刻、写真ではなく、本の装丁の展覧会というのは、珍しい企画なのではないだろうか。
 本というものは、書店で手にとって買いたくなっても、懐具合や書棚のスペースの関係で、全部は買えるものではない。それでも、何度も手にとって「やっぱり買おう!」と決心して買ってしまうことがしばしばある。そんな時には、本の装丁に心をひかれるかどうかも決断を左右する要素になると思う。
 高麗隆彦(=長尾信)氏は、歴史や哲学、美学など、人文関係の本を多く手がけておられる。桂川潤氏も幅広く仕事をされているが、キリスト教関係や在日韓国・朝鮮人に関わる書籍を多く手がけておられるのが特色だ。そして、私がこの展覧会にどうしても足を運んでおきたいと思ったのは、自分にとって大きな影響を受けたシリーズである講談社の「現代思想の冒険者たち」の装丁が、このお2人の仕事だったことを今になって知って、とりわけ興味を持ったからであった。「現代思想の冒険者たち」は、かつて、予備校で古文を教えていた私が、高校の非常勤講師として始めて現代文の授業を担当した際に、同僚のSさんに薦められて何冊かを読んだ、もしくはかじったシリーズなのである。
 はたして、会場に足を運んでみると、既に持っている本が何冊かあり、気になっていて買っていない本も何冊かあった。こうした本との出会いは、「積ん読」状態の本に手を出したり、気になっていた本を買おうと決心をしたりする大きなきっかけになることだろう。そして、それは本の装丁に携わっている方々にとっても、本意であるはずだ。
 とは言え、実際の現場で、短期間に、予算の制約もある中で、本の中身をうまく表現するデザインを考えるのは大変なようだ。イラストを描いたり、CGを使いこなしたり…。でも、限られた時間でその本を出来るだけ読み、本質を視覚化するには、技術だけでなく、装丁家の教養が大きくものを言う世界だと思う。高麗隆彦氏に「哲学や美学の本が多いですね」と声をかけたら、氏は「具体的な形のないものに、形を与える仕事に興味がある」とおっしゃっていた。
 展覧会は終了してしまったが、御興味のある方は、図録(¥500)を入手することは可能だと思う。桂川潤氏のホームページを紹介しておこう。
http://www.asahi-net.or.jp/~pd4j-ktrg/
写真説明:左は図録、右はチラシ。図録は、白の表紙(右綴じ)から開くと高麗隆彦氏の作品、反対側の黒の表紙(左綴じ)から開くと桂川潤氏の作品が掲載されている。白地に銀字の高麗氏の表紙は、私の小さなカメラではうまく写らないため、桂川潤氏の表紙のみ紹介した。
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2009年10月17日

能「江口」甲之掛

 ここのところ、大きな締め切りがあって、更新が滞っている。時系列に沿って記事を載せようとすると、ますます溜まってしまうので、手近なものから掲載して行くことにする。昨晩の国立能楽堂定例公演は、帰りと今朝の出勤時の電車で座れたので、書ききってしまうことが出来た。

10月16日(金) 18時30分開演 国立能楽堂

 狂言一番、能一番という番組だが、大学の講義が17時50分までなので、能だけ観る。

能「江口」甲之掛(かんのかかり)
シテ:観世清和
ツレ:坂口貴信・武田宗典
ワキ:森常好
ワキツレ:森常太郎・則久英志
アイ:野村萬
地頭:野村四郎
地謡:岡久広・山階弥右衛門・藤波重彦・藤波重孝・野村昌司・武田友志・角幸二郎
笛:一噌仙幸
小鼓:大倉源次郎
大鼓:亀井忠雄

 近年、序之舞のある能がとみに好きになって来た。「江口」もその一つで、一昨年の銕仙会で「平調返」(ひょうじょうがえし)の小書で観て、ますます好きになった一曲である。今回は、久しぶりに観る観世宗家の演能で、「甲之掛」の小書が付いての上演だった。
 「甲之掛」は、序ノ舞の序の後、舞に入る前に独特の高い調子の笛の節が挿入されるもの。だが、それだけではなく、序も踏む数が多くなる。シテが身体のバランスに細心の注意を払わねばならない序が長く、そして高いテンションで一気に舞に突入するという演じ方は、舞うシテにとっては加減の難しいものであろう。序ノ舞の後にも、「実相無漏の大海に」という仏の有り難さを謡う有名な一節に続いて「波の立ち居も何故ぞ」の後に、短い「イロエ」が入る。
 また、後シテの出も船の作り物を出すタイミングが早くなり、後シテが出る間の囃子の手が複雑になる「沓冠之出」も取り入れられていた。「川舟を泊めて逢瀬の波枕」という出の謡は地謡ではなく後シテとツレが謡い、「よしや吉野の」をシテが独吟する。そして地謡の「よしや吉野の花も雪も波もあはれ、世に逢はばや」の後に、笛に低音での独特のアシライが入る。後で序ノ舞に入る「甲之掛」の高音と対をなすという発想なのであろうか。
 いずれにしても、一噌仙幸の笛は、低音から高音まで冴えた音を聴かせてくれた。「平調返」にしても「甲之掛」にしても囃子方が揃っていないと成り立たない演出だとつくづく実感する。

 小書(=特殊演出)の話が長くなったが、小書が付いたから面白いのではなく、もともと「江口」は味わい深い作品だ。前シテのワキ僧とのやり取りの興趣。後シテの遊女の身に生まれたつらさを嘆く〈サシ〉「前の世の報いまで思ひやるこそ悲しけれ」でシオリをしてから世の無常や愛執に迷う心について説く〈クセ〉へ。クセの冒頭「紅花(こうか)の春の(あした)、紅錦繍(こうきんしゅう)の山粧ひをなすと見えしも」は、七五調から外れていることで、音楽的に変化のある節付けで味がある。序ノ舞を経て、シテの内面世界は迷いの世界から悟りの世界へと変容する。仏の慈悲の広さを謡う「実相無漏の大海に」の一節を経て、舟に乗っていた江口の遊女の霊が白象に乗った普賢菩薩へと転じ、白雲に乗って去って行く。後半の流れの良さは、三番目物の中でも随一だろう。

 当夜の演能は、全体に充実したものだったと思うが、シテの観世清和には、さらさらと流れ過ぎてしまう平坦な部分と気の入った謡や舞に目を見張る部分とが入り混じっていた点に、いくらかの物足りなさを覚えた。具体的には、ワキとやり取りをする前シテの謡(ある意味で、森常好の謡の充実が光っていた)や、中正面からワキまでを見渡す動きが平板に流れていなかっただろうか。後シテの出の謡は深く充実したものだった。続く舞クセの動きは、楷書体でしっかりしているが、私は、一つ一つの挙措、とりわけ扇を扱う手の動きに、もっと丁寧なものを求めたい。序ノ舞以降は再び充実の時間。
 シテの面は増(ぞう)。作者はわからないが上品な一品だった。後シテが、実に豪華な金をたっぷりと使った扇面文様の唐織に、かなり退色して醸し出される古さが味わいを感じる緋と言うよりは柿色に近い大口(おおくち)という装束で、見所があった。後場では、2人のツレのうち後の1人を紅の少ない装束にして、若い遊女とある程度の年功を積んだ遊女を連れて登場した風情だった点も面白かった。
posted by 英楽館主 at 08:09| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月04日

読売日響のアンサンブルについて(続)

アリスさんの批判への回答と反論

 私は、アリスさんが私の記事に「義憤」を感じてコメントの書き込みや御自身のブログでの強い批判をお書きになったということについては、一定の理解を持っているつもりです。アリスさんのブログも全部ではないが拝見させていただきました。最近の読売日響に対して並々ならぬ共感をお持ちになって鑑賞していらっしゃることも伝わって来ます。私も、読売日響を30年以上聴いて来ました。レークナー時代の末期など必ずしも常に共感を持って聴いて来たとは言えない時期もあるけれど、基本的には共感を持って聴き、定期会員を続けて来ました。今回も、ブログのカテゴリを整理して、これまでいかに読売日響を聴き、書いて来たか自分自身でも振り返っているところです。
 実は、そういう基本的な線では、アリスさんも私も共通する部分がかなりあるように思います。彼が書いている、ステージに立つ方々への「敬意」を持つべきだという考えにも、まったく同感です。また、常に自分自身の経験を誇示なさらずに書いているアリスさんの姿勢も、私は理解しているつもりです。ただし、今回の件についての考えは全く異なっています。
 アリスさんの御意見を拝見すると、「義憤」は、私が個人名を出して批判を書いたことのほかに、私が十分な根拠なく批判を書いたと考えておられることに向けられていると思います。私も、前者については迷ったし、それに的を絞った批判には、今回のような批判以上に真摯に受け止めなければならないと思っています。しかし、後者については、アリスさんとは全く見解が違うようです。

 オーケストラというものは、合わせなければならないのに、基本的にはなかなか合わないものです。アマチュアでもブラスバンドやオーケストラ、合唱を経験された方はおわかりになると思いますが、合奏や合唱は全てそういうものだ。弦楽合奏や弦楽器主体の室内楽に比べても、属の違う楽器が集まるオーケストラはとりわけ合いにくいものです。全員で、一生懸命に合わせているのに、それでもなかなか合わないものなのです。たとえプロでも、いや、プロだからこそ、それを合わせるために、メンバー全員で毎日苦労をしているはずです。アリスさんの「常識的にみても、たった数人でセクション全体のアンサンブルをかき乱してしまうなどということがあり得るだろうか。」という御意見は、全面的に否定せざるを得ない。たった1人でも、周囲の努力を無にしてしまうことがあるのが、アンサンブルの怖い点なのである。この点を理解していただく上では、批評経験や演奏会を聴く経験、CDの聴き比べの多寡よりも、プロ・アマの別なく、実際に演奏した経験があるかどうかが重要でしょう。

「この記事はどうやら、先日、スクロヴァチェフスキが振ったブルックナーの9番の演奏をきっかけに書かれたものらしい。とすると、思い当たることがある。それは奇しくも、先日、書き記した私の感想文にも書かれており、『ノーランはときに一人で変化をつけるような瞬間まで』あったとして、この得がたいコンマスの能力を賞賛している部分である。なるほど、あのシーンはノーラン、小森谷、さらに、そのうしろのプルトでボウイングが別々になっており、私も『おや?』と思った部分だったのである。しかし、見かけではなく、実際の響きを思い出してみるならば、ノーランが微妙な変化をつけるなか、周りがベースを守ることによって、味のある響きになっていたという印象に変わりはない。
つまり、私は見かけはともかく、響きとして独特の味が出ていたから褒めた。その同じ部分を、山之内氏は、ダイレクトに批判したというわけだ。」


 デイヴィット・ノーランを「得がたいコンマス」だと考えている点は、アリスさんも私も同じです。ただし、コンマスだけが「微妙な変化」をつけて、「周りがベースを守る」ことによって演奏の表現が広がることはあり得ません。ノーランが得がたいコンマスであっても、周りも合わない限りは、第1ヴァイオリンというパートとして最良の表現とは言えないのです。スコアやパート譜が「第1ヴァイオリン」として一まとまりで書かれている場合、リズムや音程のズレは、あくまでズレであって、基本的にはあるべきではないのです。その点は、地頭が突出することによって「斉唱」とは次元の異なる表現を生み出す可能性を秘めている能の地謡などとは根本的に異なります。
 問題は、ノーランが、周りがついて行けないようなボウイングをしているからズレるのか、それとも周りがノーランに合わせないからズレるのか、そのどちらなのかです。音程についても、「幅があるからよい」ということはあり得ません。何に「独特の味」を感じるかは個人の自由ですが、今回の場合、私が批判した奏者が周囲と違う音程(往々にしてやや高い)で弾いて第1ヴァイオリンの音程に幅が生じたことが「響きとして独特の味が出」るということはあり得ないのです。これは、ヨーロッパ近代の産物であるオーケストラのあり方としては自明のことだと言ってよいでしょう。
 もちろん、ボウイングを意図的に変えることを否定しているわけではありません。有名なのはカルロス・クライバーが父エーリッヒ・クライバー伝来のパート譜を使用したブラームスの第2交響曲の第1楽章で、奇数プルトと偶数プルトに逆のボウイングを要求した例です。弓の元と先で音質が違うことにこだわっての措置ですが、多くの指揮者はこうしたやり方を選びません。音質が揃う効果よりも、オーケストラのメンバーが混乱してズレる弊害の方が大きいと考えるからです。スクロヴァチェフスキも、N響と演奏したベートーヴェンの第7交響曲の第4楽章で、第1ヴァイオリンの表と裏で別のボウイングを要求したことがありました。この場合でも、表は表で、裏は裏で、それぞれ出来る限り合わせることが自明のこととして要求されます。
 また、晩年のカラヤン指揮ベルリン・フィルのチャイコフスキーの『悲愴』の演奏のように、ヴァイオリンとチェロは別のフレージングで明らかに意図的にずれているが、幅のある表現になっているという場合もありますが、これは1つのフレーズの中での拍の感じ方を全パートで揃えずにパートによって違えているケースで、第1ヴァイオリンやチェロというパートの中ではズレを意図的に作り出しているわけではありません。

「大体が、彼のもっとも強く批判している奏者は、既に、読響で20年以上の歳月を過ごしている人物だ。ノーラン氏は1999年に入団しており、それから数えても、既に10年は経過している。なぜ、いまさら、その奏者のせいでアンサンブルが乱れるということになるのだろうか。ばかばかしいにも程があるだろう。」

 私は、読売日響を長年聴き続けて来て、今回批判した奏者の演奏や姿勢には常に疑問を感じて来ました。しばしば冷静さに欠ける弾き方で周囲とズレてしまうし、御自身でそうした問題点に気づいていないと思われるからです。また、彼が、第2プルト表という、コンサートマスターの動きを後ろの奏者に伝達する役割を担う位置に座っているため、読売日響の第1ヴァイオリンというパートが、陸上のリレーに譬えて言えば、いつも「第2奏者がコースアウト」という状況になっていることを苦々しく思って来ました。なお、別項にも書きましたが、私は読売日響の定期演奏会と名曲シリーズを1階前方下手寄りブロックで聴き続けているので、目の前の第1ヴァイオリンについて、とりわけ各プルト表の奏者については、誰がどう違っているか、ボウイングを「見て」わかるだけでなく、音程を「聴いて」わかる位置で聴いています。
 私が察するに、今回批判した奏者は、おそらく私と同様にブルックナーが好きなのだろうと思います。ただ、そうした感情を、好きな作品だからこそパートが一丸となるような細心の注意へと向けて行くのがプロのオケマンの仕事です。私は、先の記事で「メロディーの役が回って来ると陶酔して指揮も楽譜も見ないで弾くことがあり、そんな時には、座席から顔が見える。」のように具体的に指摘をしたつもりです。今回は、スコアを見ながら聴いていたわけではありませんから、今の段階でどの楽章のどの小節でという問いにはお答えできません。ただ、私も、現代作品の批評の場合などを除けば、出来る限りスコアを見ながら演奏を聴くという事態は避けたいのです。特定の奏者の演奏の是非を論評するためにスコアを見るなどというのは本末顛倒もいいところです。
 話は変わりますが、冷静さを保とうと努めておられたアリスさんも、ここでは冷静さを欠いておられるように思います。反語や「ばかばかしいにもほどがある」と言った修辞法を廃して、もう一度お考えいただきたいところです。

「例のブルックナーでのバラバラのボウイングは、私には、あたかも室内楽をやるときのような動きにみえた。それを、あんな巨大な曲のなかでできるということは、驚愕すべきことだと思った。」
「最近の何ヶ月かの記事を読む限りでは、この方が足を運ぶのは、せいぜいギターピアノの独奏ぐらいのもので、あとは規模の大きな作品ばかりに限られいる。『ラ・フォル・ジュルネ』でさえ、室内楽に手を出していないぐらいなのだ。そんな人が、本当にアンサンブルについて語れるのであろうか。」


 残念ながら、これは土俵を踏み外した発言と言わざるを得ません。1人1パートの室内楽では、作曲家が各パートに別々の楽譜を書いていますから、楽譜の指定によっては「バラバラのボウイング」になるかもしれませんが、少なくともブルックナーの交響曲第9番に関する限り、スコアのどこを読んでも、そのようなボウイングを作曲家が指定している箇所も、あるいは作曲家がそう望んでいたと楽譜から読み取れる箇所もありません。
 なお、私は自分の聴いたコンサートの全てをブログに書いているわけではありませんし、室内楽の場合には、自分で演奏する経験も含めて物事をお考えになるべきだと私は思います。友人がチケットを余らせた「平均率」のコンサート以外は宗教的な声楽曲に的を絞って聴いた『熱狂の日』だけを引き合いに出すのは、フェアであることを心がけたはずのアリスさんらしくない発言だと言わざるを得ないでしょう。

 話を戻しましょう。私は、アリスさんの「義憤」について理解しつつも、自分の発言は曲げるつもりはありません。ただし、今後も、スクロヴァチェフスキの指揮であれ、それ以外であれ、読売日響は聴き続けますから、アンサンブルに変化があった時には、このブログにも率直に報告するつもりです。アリスさんも同じ演奏会をお聴きになったようですが、どこのお席かは存じません。残響の豊かなサントリーホールの場合、2階席(センターやRC、LC)では、私の指摘した問題は聴き取りにくいと思います。私自身、PブロックやRAブロックに会員席を持っているオーケストラもありますが、その場合には、視覚的には見えても、第1ヴァイオリンの各メンバーの音程のズレを聴き取るのは、(少なくとも私の耳では)無理です。

 私は、今回非難した第1ヴァイオリン奏者の方にも、今後も頑張っていただきたいと思っております。でも、そのためには、今のように毎回第2プルト表で弾いているのは、楽団全体のためにも、御本人のためにも良くないという考えに変わりはありません。
タグ:読売日響
posted by 英楽館主 at 22:32| 東京 不明| Comment(6) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜ、今、読売日響のアンサンブルを問うのか?

 私が今回、読売日響の特定の奏者を名指しで批判したのには、私なりの理由があります。第1に、名指しした第1ヴァイオリン奏者の合奏に対する態度は、オケマンとして目に余る、もっと言えばオケマンの倫理に反するものだと、この10年ほど、苦々しい思いを抱き続けて来ました。その逸脱ぶりは、今月のスクロヴァチェフスキとの最初の演奏会でも、ラヴェルの『ボレロ』において、1人だけピチカートの弾き方が違うという形で、明らかに見て取ることが出来る状況でした。この演奏会(9月15日、東京芸術劇場)は、NHKが収録しているので、この問題に興味を持たれた方は、視覚的にも確認することが出来ると思います。
 第2に、去る9月24日(木)の名曲シリーズにおけるブルックナーの交響曲第9番での彼の逸脱ぶりは、近くで目の当たりにして、目に余るものでした。その点については、逐一ではありませんが、既に具体的な指摘もしたつもりです。第1ヴァイオリン奏者には、1人1本ずつマイクが立つわけではありませんから、録音・録画で特定の奏者の逸脱した演奏を確認するのは困難です。ただ、この日の演奏会も、日本テレビが収録して来年2月11日未明に放送予定ですので、あるいは、録画でも確認できる場合があるかもしれません。
 しかし、重要なのは、私が書いた第3の理由です。もし、この演奏会が1回きりの客演指揮者の指揮であれば、私は演奏の問題点を「ああ、この指揮者はオーケストラを管理できないのだな」という方向で受け取っていたかもしれません。けれども、この演奏会は、共演を重ねて来た常任指揮者スクロヴァチェフスキとの演奏会でした。
 スクロヴァチェフスキは、10月3日に満86歳の誕生日を迎えました。私は、この尊敬すべき指揮者と読売日響が、今後も最良のパートナーであり続けることを願ってやみません。しかし、東京のほとんどのオーケストラをずっと聴き続けて来た私が思うには、現状のままでは、「最良」のパートナーシップは望めないという危機感を持っています。

 指揮者であれ誰であれ、年齢に伴う身体の変化は避けられません。名指揮者スクロヴァチェフスキといえども、往年と同じ耳の聴こえ方ではなくなって来ているはずです。別な言い方をすれば、スクロヴァチェフスキは、オーケストラに対して、警察官か何かのように「音が違っている」と指摘することを期待すべき年齢ではなくなって来ています。
 指揮者がそういう年齢に達しても、最善のパートナーシップを保ち続けた例も珍しくありません。近年ではジャン・フルネと都響、そして、まだ多くのファンの記憶に残っているのは、最晩年の朝比奈隆と在京のオーケストラ(とりわけ新日本フィルと都響)との関係です(私は、東京では朝比奈隆を聴いていましたが、大阪フィルの演奏会までは追いかけていませんでした。)。
 いずれも場合も、オーケストラが一丸となって、指揮者を支えていました。朝比奈さんの場合で言えば、振り出す棒は「最善」のものではないと理解しつつも、朝比奈さんへの尊敬の念を共有しながら、彼の心に感じている音楽を実現するために、まさに一丸となっていました。その結果、打率は高いとは言えませんでしたが、時に、びっくりするような名演が生まれました。私よりも古くからのオーケストラ・ファンや、私よりも頻繁に海外に渡航されていた方なら、カール・ベームの最晩年やギュンター・ヴァントの晩年について、同じような記憶をお持ちの方もいることでしょう。ギュンター・ヴァントの例で言えば、1990年に北ドイツ放送響と来日した時のブルックナーの交響曲第8番は、けっして彼の最良のものとは言えませんでしたが、それから10年を経て、最晩年に来日した際のブルックナーの交響曲第9番は、多くのファンの心に残る演奏でした。その間には、練習に厳しかったヴァントと北ドイツ放送響のメンバーとの関係に大きな変化があったと聞いています。
 読売日響とスクロヴァチェフスキに敬意を払いつつ最良のパートナーシップを期待するなら、今の読売日響には、どんな理由があろうと、パート内でのアンサンブルの乱れを解消して、一丸となることが望まれるのです。
 プロのオケマンなら、合わせなければならない時に合わせることが出来なければ1人前ではありません。
posted by 英楽館主 at 22:26| 東京 不明| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

英楽館の批評の基準〜個人名の扱いなど〜

 先日の記事、「読売日響のアンサンブルの問題点」に対して、アリスさんから強い批判のコメントをいただいた。
私自身、公表するかどうか「1週間迷った」のも、この記事が異例のものであることを自覚していたからである。こうした批判も想定していた。私には、批判に答える責任がある。通常はコメントへの回答はコメント欄に書いているが、長くなるだろうし、しっかりと書きたいので、新しい記事として書くことにしたい。
 まず、私自身が迷ったのは、記事の内容そのものの妥当性の有無についてではなく、記事でオーケストラの特定の奏者を名指しで批判することの、ネット上のマナーとしての妥当性である。特定の奏者がオーケストラ全体のアンサンブルを大きく乱していることの指摘そのものは、私にとっては些かも揺るぐことのないもので、これについては、改めてアリス氏にも反論するつもりだ。

 英楽館では、音楽だけでなく他の芸術についても幅広く論じるようにしている。批評には、当然、その対象となる作品や公演に関わった人の個人名が欠かせない。クラシック音楽の場合、私は、原則として次のように考えている。
@ リサイタルや室内楽の場合は、個人名をそのまま載せる。
A オーケストラや合唱など、アンサンブルの公演の場合、指揮者やソリストのほか、コンサートマスターや首席奏者の個人名はそのまま載せる。オーケストラの場合、管楽器や打楽器などでソロを演奏した奏者の場合には、首席奏者でなくても個人名を掲載することがある。
B アマチュアの公演の場合、指揮者などでプロとして活動している音楽家の個人名はそのまま掲載する。
 従って、今回の「読売日響のアンサンブルの問題点」は、極めて異例のものである。

 なお、巧拙は、公演の成果を左右するものである以上、論評の対象とするが、単に「下手だ」とあげつらうような書き方はしていない。意図的でないミスについてことさらに書き立てるような書き方はフェアでないことも承知しているし、そのような記事は、これまで書いていないはずである。
 どのような作品や公演でも、それに関わる人々に敬意を持って接することは、当然のことだし、私もそうした敬意を人一倍持っているつもりである。館主を直接知っている皆さんには説明するまでもなく通じていることだが、ネットは、直接には知らない方々にも発信するメディアであるから、その点については、今後も十分に配慮して行かねばならないと感じている。その上で、公演をする分野であれば、公演に臨む心構えなどに問題がある芸人や音楽家には、言うべきことは言う。通常は批評の対象とならないことでも書く。過去の例としては、文楽公演で、白湯汲みで居眠りを繰り返した大夫を名指しで批判したことがある。
 古典芸能の場合とオーケストラの場合とは同じではないことも承知している。古典芸能では竹本○○大夫とか、三遊亭▽△などの芸名が使用される場合が多い(能・狂言は多くが実名)が、オーケストラのメンバーは実名だから、批判された個人に与える影響も大きい。
 原則は以上のように考えているが、先日の「読売日響のアンサンブルの問題点」は、かねがね、10年以上にわたって、ステージ上での演奏や挙動に不満や疑問を持って来た奏者が、これまでに例がないほど逸脱した演奏をしていたので、あえて実名で批判したものである。
 私の場合、音楽評論を書いている立場であるから、書くことのプロとして、責任が大きいことは承知している。、「今回は1会員として書いた」という言い訳は暗いと思っている。しかし、長年、読売日響の会員として自分の席を持って聴き続けている身として、今回批判した特定の奏者の状況は「もはや看過できない、堪え難い」という限界にあるのも偽らざる心境である。私の席は、協奏曲のソリストを味わうには絶好の席なのだが、第1ヴァイオリンについては、良くも悪くも、手に取るように聴こえてしまう席でもある。特定の第1ヴァイオリン奏者の、プロのオケマンとしての自覚にあまりにも欠ける演奏に黙って耐えるべきなのか、それともボウイングのズレは見えても1人1人の音程のズレまでは聴き取れない席に席替えをして、ソリストを楽しむことを諦めるべきなのか、それとも、酷いものは酷いと指摘するのか。毎回違う招待席で聴くだけなら、そんなことで悩む必要はないのだ。
 私は、黙っているよりは批判する道を選んだ。(書くことの問題はさておき)演奏の問題は、私の個人的な問題ではない。また、1回のミスをあげつらうことでもなく、音楽家としての基本的な心構えを問うものだからだ。そしてもう1つ、記事の中でも朝比奈隆の例に少しだけ言及したが、オーケストラが高齢の指揮者の良さを最大限に発揮するという課題のために、読売日響は、この問題を真剣に考えるべき時に来ているという私なりの考えがあるからだ。ステージに立つ方々への敬意という面では、私は、読売日響の大多数のメンバーに対しては十分な敬意を持っているつもりだ。あくまで私の個人的な考えだが、今回私が批判した奏者の演奏や態度を苦々しく思っている読売日響メンバーは相当いるはずである。ただし、数年で卒業する学生オーケストラや体質が合わなければやめるなり他へ移るなりすればよいアマチュア・オーケストラと違って、同じ顔ぶれで演奏を続けて行かねばならないプロ・オーケストラだからこそ、内部では面と向かって批判し合うことが出来ないという事情もあるだろう。
 アリス氏の批判への具体的なコメントや反論は、稿を改めて書く。
posted by 英楽館主 at 22:22| 東京 不明| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月02日

リットン指揮都響の『火の鳥』1945年版

都響第684回定期演奏会 ほか

9月29日(火)
 仕事を終えて、まずは東京會舘での「観世銕之丞さんの芸術院賞を祝う会」へ。乾杯には間に合わなかったが、いろいろな方と歓談。銕之丞さんの交友の広さ、そして先代銕之丞(静雪)氏の交友関係も含めて、多彩な方々が集まっていた。総勢300名くらいだろうか?大鼓の柿原崇志氏や歌舞伎の坂東三津五郎氏と初めて言葉を交わす機会を得た。受付の仕事を終えた銕仙会の若手の能楽師の方々とも、ワインを片手に話す。私が、「能のことはわからないことが多くて、書くのが難しい」と言うと、「でも、内部の人間には書けないし、山之内さんみたいな人にどんどん書いてもらわないと…」と言うれて、気を入れて舞台を見なくてはと思う。
 早めに会場を後にして、サントリーホールでの都響の第684回定期演奏会を後半だけ聴くつもりだったが、予定よりも早く進行しているとのことで、開演前に掲示をもとにメールで知らせてもらった時間に到着すると、後半の1曲目、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『カルタ遊び』が始まっている。事務局に訊くと、ゲネプロ終了後に、1曲目の『サーカス・ポルカ』の前から2曲目のピアノ協奏曲ピアノを出しっ放しにすることになって、セッティングの時間がなくなったため、予定が早まったとのこと。平日のコンサートは事情があって後半を目指す定期会員もいるし、都響の場合には「遅割り」もあるのだから、時程表は見栄えが悪くても手書きで訂正してほしいと要望した。結局、4曲目のストラヴィンスキー『火の鳥』組曲(1945年版)を聴く。指揮は、都響とは初共演のアンドリュー・リットン。
 9月の都響定期は、新しくソロ・コンサートマスターに就任した四方恭子の就任披露を兼ねている。私の都響Bシリーズの会員席は2階RAブロックで、第1ヴァイオリンと正面から向き合う位置で、パートの中で何が起こっているか「よく見える」席だが、都響の弦は、相変わらずよく揃っていて気持ちよく聴ける。コンサートマスターの仕事ぶりを観察するには、このRAのややPブロック寄りは一番よく見える席ではないかと思う(ちなみに、読売日響の定期・名曲の席は、第1ヴァイオリンを側面から見るので、各プルトの裏や折り返しのプルトはよく見えないが、各プルトの表に座る奏者に関しては「よく聴こえる」席である)。
 四方恭子は、ドイツから帰国後、関西を中心に活動しながらも、都響にはソリストとして出演したり、ゲスト・コンマスとして弾いたりして来た。今回も、コンサートマスターの席に座って、違和感なく周囲とコンタクトが取れているように見える。自分だけが指揮者について行くのではなくて、指揮者とオケの間に立って何が出来るのかを考えながら弾いているという風に見えた。
 さて、ストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥』は、1919年版で聴く機会が圧倒的に多いが、今回は珍しい1945年版での演奏。リットンは「彼(=ストラヴィンスキー)の最終版である1945年版でお届けします」と述べており、版の選択には確信がうかがえる。その1945年版は、特に前半に1919年版にはない箇所があり全曲で28分ほど、どちらかと言えば「乾いた響き」が特色だ。別の言い方をすれば、音色に「ロシア的」な要素や「夜の暗さ」が感じられないのが特徴。その代わり、ハープの音などがよく聴こえる。
 欲を言えばリットンの棒にさらに切れ味が欲しかったが、1945年版の価値や位置付けがわかるという意味で興味深い演奏だった。都響は、弦だけでなく木管・打楽器も好演。
posted by 英楽館主 at 22:46| 東京 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プレトニヨフ&東京フィル『死の島』

東京フィルハーモニー交響楽団第777回定期演奏会
指揮:ミハイル・プレトニヨフ  チェロ:趙静

ラフマニノフ:交響詩『死の島』
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲
同:『マンフレッド交響曲

 ラフマニノフを2日続けて聴くことになったが、交響詩『死の島』は、地味だけれど深い魅力のある作品。レーガーも同じベックリンの絵を題材に「音詩」を書いている。交響曲と違って、メロディーにあふれていないところが、この曲を取っ付きにくくしているのだろうけれど、その一因は、絵に描かれた「島」が人を寄せ付けない、取っ付きにくい島だということにもあるのではなかろうか。プレトニヨフと東京フィルは、淡々と演奏しているように見えるが、音色には昨日の東響には聴こえなかった深みがある。私自身、この曲はスコアを見ていないし、「こういう曲だ」という核心がまだ掴めていないが、生の音に触れたことは自分にとって一歩前進、収穫だった。
 2曲目の『ロココ風の主題による変奏曲』は、独奏の趙にも、プレトニヨフ&東京フィルにも旋律の歌わせ方に悪趣味なところがなく、素直な直球勝負に好感が持てた。趙のチェロは、ハイ・ポジションの箇所でもう一歩安定感が増すと、もっと表現力がついて来ると感じた。他の作品も聴いてみたいが、バッハのアンコールを聴きながら、リサイタルよりは協奏曲を聴きたいソリストという印象を抱いた。
 後半の『マンフレッド』交響曲は、何度聴いても私には魅力が実感できない作品。チャイコフスキーは、なんでそこまでバイロンに惚れ込んだのだろうか。演奏のせいではなく作品自体の問題点として、主題が、どうも表面的にしか鳴らないような気がしてならない。とは言え、好きな曲以外の作品を聴く機会が出来るのが定期会員の「役得」だと思ってこの日も聴いた。もう1つ、機会を探して『マンフレッド』を読んで見るべきなのだろうけれど、今はその時間が取れそうにない。東京フィルは、弦楽器だけでなく管楽器も充実。気がついてみると、管は近年、合併後に入団したメンバーが中核になっている。
posted by 英楽館主 at 11:40| 東京 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする