2009年06月23日

能「千手」の魅力

 能の話を書こうとすると、クラシック音楽や文楽に比べると知識不足だということもあり、どうも書くのが遅くなりがちです。1か月前の舞台の話を今更という感じですが、幾つかまとめて能の話題を書いておきます。

5月21日(木) 18時30分 国立能楽堂企画公演
 能「千手」郢曲
 シテ(千手の前):大槻文蔵
 ツレ(平重衡):観世銕之丞
 ワキ(狩野介宗茂):森常吉
 笛:一噌隆之
 小鼓:鵜澤洋太郎
 大鼓:守家由訓
 地頭:山本順之
地謡:若松健史・阿部信之・北浪昭雄・武富康之・長山桂三・泉雅一郎・谷本健吾
後見:赤松禎英・清水寛二

 能「千手」を見たのは、初めてではないがかなり久しぶりだ。おそらく15年以上見ていなかったと思う。シテとツレが扇を手に見つめあう型や、後朝の別れで2人がすれ違う型など、舞よりも後の「型の連続」の面白さはわかっていたつもりだが、時間をおいて再見して、この曲の面白さに開眼したような気がした。
 蝋燭能で、脇正面の席から見たのも一因かもしれない。舞台中央にシテが立ち、ワキ柱のそばで床机に腰掛けたツレに向かい合うと、ちょうどシテの背中越しに見るような形になるので、正面から見る場合に比べると、シテの心情に添って作品を鑑賞するという性格が強くなるからだ。
 私が、この日、つくづく魅力的な曲だと感じたのは、クセの部分である。「今は梓弓」以下、平重衡が一ノ谷の合戦で生け捕られてから都、の経緯が語られるのだが、気づいてみれば、このクセはシテ(千手の前)の「語り」なのである。「語り」というものは、普通は、自分自身の直接体験を語ることが多いものだが、ここでは、護送されて下って来た重衡と鎌倉で初めて出会い、逢瀬を重ねた千手の前が、自分が出会う前の重衡の人生を語っていたことに、前回までは気づいていなかった。「語る」というのは、その内容を自分の中にしっかりと取り込まないと出来ない行為である。他人の、それも共有した時間ではなく、出会う以前の人生について「語る」ということは、終わった男女関係を「語る」こととは全く違う。千手の前が、重衡の体験を幾度も聴き、それも厭々聞かされるのではなく、よほどの共感を抱きながら繰り返し聴いていたとしても、誰にでも出来ることではない。こう書いている私には出来ないことだと思うし、英楽館の読者の方の多くもそうだろう。単なる重衡への愛情や共感だけでなく、他の男性から聞かされた戦物語の経験、あるいは自身で東海道を往復した経験などがなければ、とても想像力が及ばないに違いない。千手の前が多感で聡明な女性であることも必要条件だ。また、三河の国の「八橋」の地名は、千手の前が重衡を在原業平に重ねていることを表していて、恋の情緒につながる巧みな表現だ。
 大槻文蔵のシテは、この人の他の舞台と同様に容姿が美しい半面で謡が弱いが、「千手」は舞クセで、長所が活きた舞台だった。また、この能では、シテとツレの相性も大事だと思うが、観世銕之丞とはよく呼吸が合っていると感じられた。山本順之や若松健史らの地謡もしっかりとしていて、囃子方が若い顔ぶれだが全体によくまとまった舞台だったと思う。「郢曲」の小書が付いたので、舞は中之舞だった。
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2009年06月21日

出光美術館「やまと絵の譜」展@

6月21日(日)
 今週は、C大高校の生徒の漢字テストをしなかったから、日曜の朝も採点の仕事をせず、完全にオフ。横浜みなとみらいホールでの読売日響を聴く前に出光美術館に立ち寄る。開催中の「やまと絵の譜」展は、展示されている作品数は30点あまりだが、見応えはずっしり。小1時間では全然見切れず、会期中できるだけ小まめに通おうと思った。
 菱川師宣、岩佐又兵衛など、期待を裏切らない名品揃い。加えて、筆者不詳の「江戸名所図屏風」が、美術品としても風俗史料としても一級品の面白さで、見入ってしまった。この「江戸名所図屏風」には、新吉原に移転する前の元吉原の情景や女歌舞伎、浄瑠璃、軽業の舞台が描かれている。歌舞伎芝居が興行されているのは木挽町で、現在も歌舞伎座があるあたり。絵の中の風景と自分自身が木挽町に時々足を運んでいる体験とが重なると、歌舞伎の歴史は古いという実感になる。神田明神では神楽が行われていて、笛と太鼓の囃子方も描かれている。浅草寺は、仲見世通りがないが、門には現在の雷門に通じる風情が感じられた。解説によれば、この屏風には総勢2000人以上が描かれているのだそうだ(とても自分で数えようとは思わない)が、この八曲一双をじっと見ているだけでも、江戸の昔にタイムスリップが出来る。
 岩佐又兵衛の「野々宮図」は、鳥居にたたずむ光源氏の脇に描かれた女童(めのわらわ)が妙に小さくて、光源氏へのスポットの当て方が独特という印象を受けた。ここのところ、遠近法について講ずる機会があって、遠近法を採用していないという点では共通でも、ヨーロッパ絵画と日本の絵画では視点への感性が違うことが強く意識されるからだろうか。
 英一蝶「凧揚げ図」の奴凧の絵柄がかわいい。この絵の絵葉書がないのは残念。また、「桜花紅葉図」も、桜や紅葉の木に結ばれた、上質の料紙を用いた短冊の紙質など、現実には成立しにくい図柄ながらも、質感の豊かな絵に仕上がっている。
 この続きは、再度見に行ってから、書くことにしよう。
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2009年06月20日

『ズロニツェの鐘』を聴く

ドヴォルザークの『ズロニツェの鐘』
 あっと言う間に2週間が過ぎてしまった。11日(木)まで中間試験の成績処理などに追われ、昨日まで研究授業の準備があり、落ち着いて書く時間が取れなかった。東京交響楽団の定期演奏会(13日夜)のように、予定していたのに行けなかった公演があったが、出来る限り演奏会は聴いている。

6月8日(月) 19時 サントリーホール
6月9日(火) 19時 東京芸術劇場
下野竜也指揮 読売日本交響楽団
クラリネット独奏:ザビーネ・マイヤー
(曲目)
ウェーバー:歌劇『オイリアンテ』序曲
同:クラリネット協奏曲第1番ヘ短調
ドヴォルザーク:交響曲第1番ハ短調『ズロニツェの鐘』

 まず、ウェーバーの『オイリアンテ』序曲が見事。オーケストラのコントロールが自在に出来ていて、下野竜也がオーケストラの操縦法という面で年々腕を上げていることが実感された。そう感じるのは、ウェーバーのオーケストレーションがしっかりしていて、指揮者やオーケストラの状態を映す鏡のような効果を果たしてくれるからかもしれない。クラリネット協奏曲第1番は、ザビーネ・マイヤーのソロがとにかく聴き物。ドヴォルザークの若書きの交響曲には付き合いきれないという人にもお勧めの1曲だった。第1楽章は、短調の曲調の中での劇的でありながら無理な誇張を感じさせない音色作りに感心。第2楽章は、独奏とホルンとの掛け合いというウェーバーならではの趣向が楽しめた。快活という言葉がぴったりの第3楽章は、独奏も、鳴るところはきっちり鳴るオーケストラも小気味よかった。
さて、休憩後のメインはドヴォルザークの交響曲第1番ハ短調『ズロニツェの鐘』。ドヴォルザーク好きの人でも、CDでしか聴けなかった曲が生で聴ける。日本初演はアマチュア・オケで既に行われていて、今回は再演なのだそうだが、限りなく日本初演に近い。
ちょっと乱暴な金管の響きで始まる第1楽章は、第2主題は第4番ニ短調第1楽章第2主題とちょっと似た雰囲気を持っているが、音楽がスムーズに流れて行かないところに、第1番と出世作の第4番との熟練度の差が感じられた。第2楽章は変イ長調。この変イ長調という調整は、ドヴォルザークが好きだった調で、穏やかなメロディーが流れて行く。例えば晩年の弦楽四重奏曲作品105など、この調にはドヴォルザークの個性が良い意味で発揮されている曲が多い。ああ、若い頃からドヴォルザークはこの調が好きだったのだなあと感じる。そして、聴きながらちょっと考えてみると、この調は、ヴァイオリンだとG線で主音のAs(A♭)を弾けても、その下の属音のEs(E♭)が弾けないために落ち着いたメロディーが作れないが、5度低いヴィオラだと主音の下のEsも、そしてもちろん上のEsも弾けるので、メロディーを自在に鳴らせる調であることに気づく。ドヴォルザークがヴィオラを弾いたことと、変イ長調が好きだったこととの間には関係があるように思えてならない。
第3楽章は、知らないで聴くとフィナーレ風に聴こえる箇所が少なくない。その後に本物のフィナーレの第4楽章。スケルツォが苦手なのもドヴォルザークの特徴と言っていいだろう。第6番や第7番では、チェコの民族舞曲の1つ、フリアントを用いて成功しているが、それも、裏を返せばスケルツォが肌に合わなかったからなのかもしれない。第4楽章はやや冗長に感じられるが、2日続けて聴いたら、2日目の東京芸術劇場での演奏は、山登りで山頂が見えたときのような見通しの良さのある好演だったと思う。
2月の第4番の時のように、この曲をおそらく初めて聴いたであろう方々が体や首を思わず揺すりながら聴くほどの耳に残るメロディーはないが、ドヴォルザークの個性をしっかりと知る上ではこの上なく貴重な第1番の生演奏だった。腰を据えて取り組んでくれている下野竜也に拍手。
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樫本大進への期待

6月19日(金)
 朝、大学の授業の準備をしながらネットを見ていたら、樫本大進がベルリン・フィルのコンサートマスターに内定したという素晴らしいニュースが報じられていた。
 私は、一部の指揮者を除けば、特定の演奏家をあまり追いかけない方だけれど、樫本大進は、ここ数年、音だけでなく音楽があると思っていたし、また、舞台上での振る舞いを見ていて、他の日本人の音楽家にはなかなかない風格を感じていた。それは、けっして見た目の良し悪しと言った浅いレベルのものではなく、音楽を掘り下げてしっかり勉強している人が自然と発するオーラのようなものだと私なりに捉えていた。具体的には、協奏曲の舞台で、オーケストラのスコアをよく勉強していると感じることが多かった。東響とのベートーヴェン東京フィルとのチャイコフスキーなどなど。
 これまでソリストとして活動して来た樫本大進だけれど、きっと彼なら勉強して、コンサート・マスターとしてもいい仕事をしてくれるだろう。本当に楽しみだ。日本人の音楽家は、早くから才能を発揮する割には30代後半や40代でなかなか伸びない人が多いけれど、樫本大進は、ヴァイオリニストとしての自分に新たな課題を課しているのに違いない。蛇足だが、ベルリン・フィルの日本公演のチケットがますます手に入らなくなってしまうことだけが心配だ。
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2009年06月07日

能「班女」〜海を渡った能装束@

横浜開港150周年記念能 「班女」

6月6日(土) 14時 横浜能楽堂
講演:山口憲(山口能装束研究所所長)
能「班女」 シテ:山本順之
      ワキ:殿田謙吉 ワキツレ:梅本昌
      アイ:石田幸雄
      笛:一噌仙幸、小鼓:大倉源次郎、大鼓:柿原崇志
地頭:梅若玄祥
地謡:梅若晋也・山本博通・松山隆雄・山崎正道・角当直隆・内藤幸雄・土田英貴

 ドイツ、ミュンヘンのレンバッハ美術館に収蔵されていた18世紀の能装束(厚板唐織)を元に復元された鮮やかな黄色の唐織を用いた舞台。前半は装束の修復・復元作業に関する報告・解説の講演。復元された装束は2階に展示されていて、直接見ることが出来る。黄色の唐織は珍しい。石畳地扇面文様で、文様は紅入り。扇面文様は、扇を取り交わした恋人を思う能「班女」に用いると、曲風に重なり過ぎているくらいだが、今回は、色の襲ね方の目新しさがそれを補って余りあった。
 小柄で、かつ謡の端正な山本順之が「班女」を演ずると、遊女の可愛さが舞台に現出するのが何よりも曲の趣に適っている。後場のサシ・下歌「げにや祈りつつ〜なほ同じ世と祈るなり」とクリ・サシ「月重山に〜独寝になりぬるぞや」をカットしての短縮上演だったので、あっと言う間に「翠帳紅閨に〜」以下のクセに突入。「欄干に立ち尽くし」で一ノ松の前にたたずむ型は上品でいい。ここは喜多流だと振り返るような型で色気があったように記憶しているが、一ノ松の前に立ってたたずむだけの型も、シンプルな分、役者の品が出ると思った。後シテは、擦箔の小袖(新しいもののようで、目映い感じがした)の上に、今回復元された黄色地の縫箔の唐織(黄と金)、そして金地の舞扇と、色のグラデーションが、通常にはない豪華な取り合わせの装束で舞われると、贅沢な時間が、それもただ静止しているのではなく、流れて行くと実感される。
 シテの面は友閑作の孫次郎。江戸時代初期の作。この春に旧金剛宗家蔵(現在は三井記念美術館に収蔵)の名品「孫次郎」を見ていることもあり、表情の違いなども含めて興味深い。左右のバランスの良い顔立ちで、実際の演能には使いやすい品ではないかと感じた。梅若の若手を集めた地謡は、地頭の玄祥にぴったりついて行き、チームワークがよい。地頭だから論評すべきではないかもしれないが、玄祥は以前にも増しての肥満ぶり(館主など比較にならないほどだ)で、最近白髪になったこともあって、まるで鏡餅が裃を着けて座っているかの風情。どうか演能を第一に節制に勤めてほしい。囃子も顔ぶれが揃って、短いながらも充実した演能だった。この装束、今回限りとせずに、ぜひまた舞台で見たいものだ。
(装束は、横浜能楽堂のホームページ
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/
でも、現在、「清経」のシテの写真で紹介されています。)
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2009年06月03日

N響 Music Tomorrow 2009

6月1日(月) 19時 東京オペラシティ・コンサートホール

ジョナサン・ノット指揮 NHK交響楽団
ヴァイオリン:庄司紗矢香
(曲目)
斉木由美:モルフォゲネシス(2009)
藤倉大:secret forest for ensemble(2008)
リゲティ:ヴァイオリン協奏曲(1992)

 久しぶりに生で聴けたリゲティのヴァイオリン協奏曲が素晴らしかった。サシュコ・ガブリーロフの委嘱で作曲されたこの作品は、ガブリーロフ自身が来日してソロを弾いた日本初演(サントリー音楽財団のサマー・フェスティヴァル「海外の潮流」。)で感銘を受けて以来、大好きな作品だ。その後、大野和士指揮東京フィルの定期演奏会(独奏:荒井英治)など、何回か聴く機会があったが、今回の演奏には日本初演を聴いた時に勝るとも劣らない感動があった。1つには、庄司紗矢香のソロが素晴らしかったからであり、もう1つには、ジョナサン・ノットの指揮に、私がこれまで生で聴いたこの曲の演奏には見られなかった柔軟で音楽的な拍節感があったからである。作曲者自身と直接関わりのあったガブリーロフの世代の違う庄司が、独自に完成度の高い演奏を聴かせてくれたことは、既にこの傑作が「現代の古典」となりつつあることを実感させてくれる。
 大気から何かが生じるような生成感のある響きに始まり、多彩な刺激を持つリズムの饗宴に至る第1楽章で、早速に曲に引き込まれてしまう。そして、民謡的なメロディーが何とも言えない人懐こさを持つ第2楽章の魅力的なこと。この第2楽章を聴いていると、リゲティを聴いているのに、私はいつも、バルトークの第2番の第2楽章のほか、ベルクの第2楽章後半やショスタコーヴィチの第1番の第3楽章など、20世紀のヴァイオリン協奏曲の歴史を振り返ってしまう。旋律の繰り返しの中でオカリナが登場し、音程の輪郭にぼかしが入るが、最後はミュート付きのホルンを経てフルートのソロで1本の線に音楽が終結する。スケルツォ的な第3楽章を経て、瞑想的で密度の濃い第4楽章。ホルンの音程に怪しげな箇所があったが、それ以外はNHK交響楽団が健闘していた。そして再び第5楽章でリズムの饗宴。庄司のソロは、技術面で完璧だっただけでなく、この曲のカーニバル的な楽しさを伝えてくれるものだった。
 私は2階R1列61番という、一番遠くからホールのほぼ全体を見渡せる席で聴いていたのだが、第5楽章を聴きながら場内を見渡すと、ほとんど全ての人が、身を乗り出したり、体でリズムを感じたりしてステージ上の演奏に集中していた。作品の持つ力と、この作品を聴きたい人が集まった場の力を感じた瞬間だった。
 リゲティの前に日本の作品が3つ。残念ながら開演に遅れて原田敬子『エコー・モンタージュ――オーケストラのための』(2008)を聴き損ってしまった(事前のチラシでは原田さんの曲が2曲目だったので、私は驚いたし腹を立てた)が、斉木由美の新作『モルフォゲネシス』(N響委嘱作品、初演)は、この人の作品としてはエネルギーのあるものだった。ただし、毎回感じることだが、斉木の作品には、音を紡ぐ持続力、自分の音楽を温め続ける力のようなものが欠けていると思う。
 私にとって収穫だったのは、藤倉大の『secret forest for ensemble』(2008)。ステージ上の弦楽器奏者9名と客席の管楽器奏者8名、計17人の奏者たちが、指揮者を中心に交感し合う15分ほどの作品。冒頭、弦楽器にボウイングの難しいパッセージが続くが、次第に会場内に散った管楽器群との交感をし始める。客席中央のファゴットは、曲の中間部でソロを吹き始めて、そのまま吹き続ける。弦はいつしかピチカートのみを奏でるようになり、ファゴット以外の管楽器奏者は「rainstick」という竹筒の中に砂のようなものを入れた「楽器」に持ち替えて波のような音で弦とファゴットのやり取りを外側から包容して行く。全体の音響設計がしっかり出来ていて、興味深かった。藤倉は、管楽器を「森」としてイメージし、ファゴットを「森を歩く人」だと考えたと言う。私は、ここのところ国語の仕事で接していた国木田独歩『武蔵野』の中の雑木林の描写(聴覚に関して特にこだわった表現が重ねられている)を思い起こしながら聴いた。
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5月28日 ラッヘンマン管弦楽作品展

5月28日(木) 19時 東京オペラシティ・コンサートホール
ヘルムート・ラッヘンマン オーケストラ作品展
(曲目)
『アカント〜オーケストラを伴う独奏クラリネットのための音楽』(1975/76)
『ハルモニカ〜独奏チューバを伴う大オーケストラのための音楽』(1983)
飯森範親指揮 東京交響楽団
クラリネット:岡静代
チューバ:橋本晋也
副指揮:大井剛史、音響:宮沢正光、通訳:蔵原順子

 5月26日(火)にも室内楽作品展があったのだが、その時点ではまだ試験作成に格闘中だったので、残念ながら聴き逃した。それにしても、ラッヘンマンは、現代音楽に関心を持つ人にはやはり聴き逃せない作曲家という感じで、3階席は使用していないとは言うものの、1階席は四隅を除いてしっかり客席が埋まっている。2曲ともラッヘンマンによる実演つきのプレトークがあって、作曲者の意図を理解しながら聴くことが出来た点でも興味深かった。
 1曲目の『アカント』は、ラッヘンマン自身の言葉では「音楽言語の『既視感』」とは対極的な未体験の響きにあふれる「響きのジャングル」だと言う。もっとも「響きのジャングル」という表現は、管弦楽を使ったラッヘンマンの全ての作品にあてはまりそうだが…。モーツァルトのクラリネット協奏曲が、通常の「引用」ではなく、スピーカーから流れて並奏される点に最大の特色がある。一見(一聴)、破壊的に思われるラッヘンマンの、実は古典的なものを規範に据えている一面が見えて来る。とは言え、クラリネット協奏曲の響きは、ほとんどの場合、パルスのような極めて短い断片として響く。全曲の演奏時間は約26分。これは、クラリネット協奏曲の演奏時間と同じということではないかと思う。
 ところどころでイ長調の響きが聴こえて来る。また、それがモーツァルトであるとはっきりとわかる形で聴こえるのは、曲が始まって17分後くらいのオーケストラのフレーズと21分後くらいのクラリネット・ソロのフレーズの2か所だけである。だから、曲は、「モーツァルトの協奏曲との親密さ」を持ちながら進行すると言うよりは、「疎遠さ」を保ちながら進行する感じがするが、距離を保ちながらも、主たる部分を占める生演奏のパートが音楽性を失わずに進行して行くという印象を与えるところがラッヘンマンの音楽の持つ力であり素晴らしさであろう。
 70年代の作品だということを考え合せると、私の頭の中にもたげて来るのは、ひょっとしてジョン・ケージのアイデアに対するアンチ・テーゼとしての意味も込められているのだろうか?ラッヘンマンは、あらかじめクラリネット協奏曲と『アカント』本体が交錯する地点を明確に楽譜で定めており、偶然性に依拠する作曲の仕方ではない。ケージには、オーケストラが、任意のラジオ番組を鳴らしながら演奏するという作品もあったりするが、大ニュースが偶然流れたりすると、聴衆は音楽をそっちのけにラジオの音声に耳をそばだててしまうので、そういう時には演奏の時間が「音楽的な時間」から逸脱してしまうきらいがあった。
 『アカント』は、全体に静謐な語法が積み重ねられる作品だ。パルスの森、クラスター的な響きの森など、様々な音の森を経て、そっと出口にたどり着く。
      *          *          *
 後半の『ハルモニカ』は聴いて圧巻。そして、その響きのバランスの違いが、あらかじめ曲名でも明らかにされていたことに、演奏を聴きながら気づく。『アカント』は基本的にはクラリネット独奏のための音楽であり、『ハルモニカ』は本質的にオーケストラのための作品なのだ。
 全曲は4つの部分から成る。第1部はクレッシェンドする音型の積み重ねから成り、エネルギーに満ちた音楽が続く。途中、バッハの『無伴奏チェロ組曲第1番』冒頭のフレーズが解体・異化された音型が現われ、聴く者に作品の持つ古典志向を感じさせる。
 管楽器全体の「息音」を境に第2部へ。ここでは日本では「蝶々、蝶々、菜の花に止まれ」で親しまれているメロディーが断片に解体されて繰り返し奏でられる。コントラバスのトレモロの持続からを第3部と呼んでおこう。ここでは、目覚まし時計の音や動物や虫の鳴き声の擬音など、様々な雑音が音楽の要素となっている。管の一部を外した独奏チューバは、時々音が響かなくなる感触がプリペアド・ピアノのようだ。バス・ドラムの音が背景で持続して、雑多な音楽に統一を与えていたように思う。
 金管の鋭い和音から、運動的な第4部に入る。変拍子が盛り込まれているが、基本は3拍子にあるようだ。ラッヘンマン自身がトークの中で『ハルモニカ』を「ダンスの連なり」と評していたが、その片鱗がようやく音になって形を現したと感じる。打楽器は複数の音源でリレーして奏でる箇所があり、音源が動くような感触を聴衆に与える(考えてみれば、聴衆は、奏者と違って演奏中に動くことを許されない存在である)。リレーが繰り返される中で音楽は螺旋階段を上るように高揚し、ストラヴィンスキーの『春の祭典』第2部を思わせるようなエネルギッシュなダンスへと突入してクライマックスを築いて行く。チューバのソロには声が含まれていて、逸脱を志向するエネルギーが常に内包されていると感じられる。全曲は、五線譜の中心に記譜されるHの音に収斂して締め括られた。
 橋本晋也のチューバのほか、飯森範親指揮の東京交響楽団が、ラッヘンマンを音楽として自然に演奏していたのが印象的。東響は、楽譜に指示の多いこの作曲家の音符を集中力を失うことなく「音」にし続けていた。
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2009年06月01日

新刊のお知らせ

RIMG0127.JPG『国語力を高める言語活動の新展開』(東洋館出版社刊)
 田中洋一先生(東京女子体育大学教授・光村図書刊中学校『国語』編者)編著の『国語力を高める言語活動の新展開』全4巻が6月5日に東洋館出版社から刊行されます。21世紀国語教育研究会の会員の先生方による分担執筆で、館主も「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項編」で執筆を分担(24〜29ページ、36〜41ページ)しました。いずれも、古典芸能の映像を国語の授業に活用するという趣旨での授業展開例(「沙石集」と狂言「附子」、『平家物語』「扇の的」)です。
 詳しくは東洋館出版社のホームページ
http://www.toyokan.co.jp/
を御覧ください。定価¥2,415です。
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2009センター試験 古文解説(訂正版)

 以前に掲載した今年のセンター試験の古文問題の解説について、京都市の泳法違反先生より2月下旬から誤りの御指摘をいただいていました。すぐに訂正すべきだったのですが、職場が変わるなどの多忙に紛れて怠っていました。誤っていたのは問3の解説です。訂正して再掲します。率直に御指摘くださった泳法違反先生には、心より感謝申し上げます。
[概観]
 問題文は長くなったが、場面は把握しやすく、選択肢も紛らわしいものが少ないので、古文問題全体の難易度はそれほど上がっていないと思います。設問は、内容一致が2題出題された点が今年の特色の1つ。傍線部の前後だけでなく、問題文全体を読ませたいという出題意図が感じられます。
 センター試験の古文は、問題文を「どう分節化して読むか」が一番の課題。それに留意しながら学習を進めることがコツです。過去問に取り組む場合は、年度順でも構いませんが、「段落数の多い問題」を先に勉強して、だんだんと「段落数の少ない問題」(=場面の切り方が上手な人とそうでない人で時間や正答率に差が出やすい)へと進めて行くと、より効果的です。
 ちょっと気になるのは、今回の問題文『一本菊』の主人公兵部卿宮の行動パターンが、現代の視点で言えばストーカー的だということです。出題担当者は問題文探しに四苦八苦していると思いますが、男女関係の扱われ方には、もう少し神経を遣うことが望まれると、私は感じます。
[設問毎の解法]
問1(ア) 希望の終助詞「ばや」が「〜たい」の意味だと理解していればBが選べる。
(イ) 「なべてならず」は「並大抵ではな(くすばらし)い」の意。
「匂ひ」は嗅覚よりも視覚的な意味で用いられることが多い。従って答えは@。
(ウ) 「思し召し寄る」は「思ひ寄る」の尊敬語。ここでは「思い付く」の意ではない。
   文脈から「好意を抱き始める」の意味だと判断する。正解はC。
問2 基本的な問題。傍線部はいずれも紛らわしい語ではない。正解はC。
 敬語の学習は、敬意の方向を確かめるだけでなく、主な敬語の語義の学習とバランス良く進めることが大切です。
問3 まず、「適当でない」ものを選ぶ設問だという点に注意!基本的には「内容一致問題」のヴァリエーションなので、消去法で解く。
 @は適当。男女間の贈答歌の中で、相手を季節の景物になぞらえるのは常套手段。人物を中心にストーリー展開を考えると「君」を「白菊の花」になぞらえていると考えられるが、Aの和歌が詠まれる場面では、兵部卿宮の目の前にあるのは歌に添えて贈る「白菊の花」であって、兵衛佐の娘ではないので、「白菊の花を『君』になぞらえる」という説明は正しい。率直に書けば、私は最初に解いた時に、@の説明が逆転していると思い込み、この選択肢を選んでしまった。それは、「兵部卿宮が歌を詠む場面」に対する想像力が不足していたからである。
Aの「うつろふ」の語義に関する説明、Cの掛詞の説明、Dの「こそ〜已然形」の係り結びの説明が適切なものであることは、比較的見抜きやすい。
 正解はB。後半に誤りがある。「行き通ふ跡は知らねど」は、「あなたに逢う手立てはわからないけれど」の意で、Bの歌の三句目以降「逢坂の関を越えたい=あなたと結ばれたい」と同等に重要な詠み手の状況説明であり、「序詞」ではない。「序詞」は、「枕詞」とは違って訳すことが出来るが、和歌の意味の中核にはならない。序詞を含む和歌の現代語訳に何回か挑戦しておくと、序詞かどうかを見抜く感覚を身につけることが出来る。
問4 常磐の心情は傍線部Xの1行前に「ねたくおぼえて」と説明されている。「ねたし」は「癪にさわる・いまいましい」の意。そこに注目できれば正解のAにたどり着くのは難しくない。
問5 傍線部に関する設問ではなく、設問冒頭に「この文章を通して、」と記されているということは、内容一致問題。だから消去法で考える。正解の@以外は、いずれも明らかな誤りを含む。Aは「ほんの遊び心で」が不適切。Bは「兵衛佐の熱意におされて」が誤り。Cは「垣間見して」が明らかに本文と相違。Dには「意地悪な返事をもらい、」とあるが、宮は本文中では女君から一度も返事をもらえていない。
問6 問5と同様の内容一致問題。@〜Cはいずれも誤りを含む。@は、「入内」の具体的な話があったとは書かれていないので誤り。Aは、「女房たちは〜取り次ごうとしたけれども、」が誤り。Bも、兵部卿宮が危惧した内容であって、実際に噂になったとは書かれていない。Cは「父が、…妻の形見として」が誤り。正しくは「妹が、…父の形見として」である。以上、消去法により正解はD。
(2009年1月20日初稿・6月1日改訂)※改訂箇所は前文と問3の解説
posted by 英楽館主 at 08:46| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月22日

B→C 益田正洋

4月14日(火) 19時 東京オペラシティ・リサイタルホール
B→C 益田正洋 ギター
(曲目)
 J.S.バッハ:リュート組曲ホ長調BWV1006a
  (原曲:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調)
 ヘンデル:ソナタ Op1−15(福田進一編)
 J.S.バッハ:シャコンヌ
  (原曲:無伴奏ヴァイオリン・パルティータBWV1004より)
*      *      *
 ヴィラ=ロボス:5つのプレリュード
 マシュー・ダン:『アパラチアの夏』
 レオ・ブローウェル:ソナタ(1990)

 1か月も前のコンサートだが、プログラムに多少のメモを残しながら聴いたので、それを頼りに備忘録を書いておきたい。
 私にとっては、久しぶりに聴くギターのリサイタル。そして、久しぶりのB→Cだった。この2年間、部活動の顧問の関係で火曜日は身動きが取れなかったのだ。久しぶりに訪れたリサイタル・ホールはほぼ満員の盛況。後方下手側から聴いた。
 前半のバッハ2曲のうちでは、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータを全曲リュート用に編曲した、『組曲ホ長調』が特に面白かった。同じ弦楽器でも、擦弦楽器と撥弦楽器では特性が大きく違うが、通常の楽曲以上に緊張感の維持が不可欠な『シャコンヌ』の場合、ヴァイオリンで弾く方が表現の可能性が深く、ギターだと「敢闘賞」で終わってしまうのに対して、様々な舞曲を束ねた『組曲ホ長調』の場合、重音を鳴らす前に弦を押さえる間を取って鳴らす余裕のある曲だと、原曲のヴァイオリンにはない、穏やかな響きが何とも言えない雰囲気を醸し出すからだ。この日は、人身事故で電車が遅れて、ギリギリにオペラシティに飛び込んだのだけれど、そうした日々の張りつめた生活のストレスを癒してくれる柔らかさがある。私は益田のギターから、音楽をテンポ通り進めるための技巧の完璧さよりも、そうしたギターでないと出せない響きを作る瞬間を大切にしているという印象を受けた。
 後半では、ヴィラ=ロボスがとても面白かった。ショパンのピアノのように、ヴィラ=ロボスにとってギターは親近感のある楽器だったこと、内面を吐露することの出来る楽器だったに違いないことが、曲から伝わって来た。
 譜面を見ていないけれども誤解を恐れずに書くと、1曲目は3拍子で、螺旋状に上って行く音型が印象的。2曲目は2拍子系のリズムで、高音の人懐こさが耳に残った。3曲目は静かな3拍子。それに対して、4曲目はゆっくりだが強弱のメリハリがある。最後の5曲目は、6拍子で他の4曲よりもメロディー性が豊かだった。1曲ごとの楽想の変化と、弾き手の益田の作品への共感で、詩情とヴァラエティーに富んだ音楽を味わえる心地よい時間だった。
 マシュー・ダンの『アパラチアの夏』は、コンクールの課題曲にふさわしい多彩な技巧が要求される曲。プログラム最後のブローウェルのソナタは、3楽章構成。第1楽章にはベートーヴェンの『田園』交響曲からの引用が含まれる。間奏曲風の短い第2楽章の後、第3楽章は第1楽章とは対照的な激しい音楽。ダンもブローウェルも、ギターの可能性を追求している作品だが、印象深さでは、詳述した2曲に尽きるように思われた。
posted by 英楽館主 at 02:04| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする