11月22日(日)23日(祝) 14時 日生劇場
R.シュトラウス:『カプリッチョ』
指揮:沼尻竜典
演出・装置:ジョエル・ローウェルス
衣装:小栗菜代子
振付:伊藤範子
22日 / 23日
伯爵令嬢マドレーヌ:佐々木典子/釜洞 祐子
伯爵、マドレーヌの兄:初鹿野剛/成田 博之
作曲家フラマン :望月 哲也/児玉 和弘
詩人オリヴィエ :石崎 秀和/友清 崇
劇場支配人ラ・ロッシュ:米谷毅彦/山下浩司
女優クレロン :加納 悦子/谷口 睦美
ムッシュ・トープ :大川 信之/森田 有生
イタリア人ソプラノ:羽山 弘子/高橋 知子
イタリア人テノール:渡邉 公威/村上 公太
執事長 :佐野 正一/小田川哲也
エトワール :伊藤範子(両日)
管弦楽:
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
R.シュトラウスの最後の
オペラ『カプリッチョ』は、オペラにおいて、
音楽と言葉とどちらが大事かという古来尽きることのない論争を題材とした「音楽のための会話劇」である。東京二期会が新制作した舞台を2日間にわたって観た上で、昨日発売の週刊オン・ステージ新聞(12月4日号)に批評を書いた。重複を避けるため、音楽面については要点だけにとどめて、演出・その他の面を中心に書いておきたい。
今回の演出家ジョエル・ローウェルスは、設定を1944年、大戦末期のパリ郊外に変更して、ナチスの兵士たちを登場させるというプランで舞台を作った。冒頭に内偵に訪れたナチスの兵士たちがマドレーヌ伯爵邸に登場し、後半、第10場の後で再び兵士たちが登場して、詩人オリヴィエと作曲家フラマンを連行するという演技が挿入されている。R.シュトラウスの自作を
話題に登場させる部分はカットされ、「月光の音楽」の後、最終場面の伯爵令嬢マドレーヌのモノローグは、年老いた彼女が若き日の思い出を回想するという設定になっている。
ローウェルスは、今回の舞台を通じて、「戦時下でオペラを作曲したR.シュトラウスの苦労に思いを馳せたい」旨を述べている。
確かに『カプリッチョ』が初演された1942年は、ドイツがナチス政権の下で侵略戦争に明け暮れていて大変な時代だった。初演のポスターには、『カプリッチョ』に限った話ではないお決まりの形式なのだろうが、「帝国大臣ヨゼフ・ゲッベルス博士の後援の下に」と記されていて、宣伝大臣ゲッベルスの名前が、作曲者R.シュトラウスやその他の誰の名前よりも目に付く。そういう時代の苦難、ナチス政権下の報道統制の中で真実を知らされずに、ドイツに残るのが自らの責務だと考えた音楽家たちの苦難に思いを馳せるなら、もっと別な
やり方があったのではなかろうか。
直視したくないような現実を前にした時、ひとはしばしば、過去を振り返る。『カプリッチョ』は、そういう意味で過去への憧憬を描く必然性を持っていた。だから、舞台は古き良き時代として18世紀末の
フランスに設定している。つまり、フランス革命前である。
だが、ローウェルスの今回の演出のように、オリヴィエとフラマンが捕えられてしまえば、ダヴィデの星のマークを付けた外套を着せられて出て行くことから、当然、彼らは収容所に送られたと推測されることになる。つまり、2人は抹殺され、物語は原作のように「音楽と言葉と、どちらが大切か」という問題を先送りして余韻を残して終わるのではなく、過酷に断ち切られて終わる。言うまでもなく、物語を断ち切ることは、「R.シュトラウスの精神」を尊重することと同義ではない。
なお、
プログラムで岩下真好氏が『カプリッチョ』の演出史にも言及しておられるが、ザルツブルク音楽祭のヨハネス・シャーフ演出(筆者は映像で見ている)は、今回のローウェルスと同じプランではない。一部の方がそれを誤解してネット上に見解を発表されているようなので、ここに触れておく。岩下氏もはっきり書いておられるように、シャーフは「シュトラウスが作曲した1940年代前半という時代設定で始める。室内装飾もアールデコ風であり、衣装もその時代を想起させるものだった。ところが、オペラが進むうちに舞台は
オリジナルの設定通りのフランス18世紀末に遡ってゆく。」という方法を取っている。
ところで、ローウェルスの演出が、思い付きの域を大きく越えないと感じてしまう要因の1つに、演技や衣装の不徹底がある。これは私の知人が休憩時に私に真っ先に指摘してくれたことだが、冒頭で「内偵」にやって来る兵士たちの挙措が、ダラダラしていておよそ兵士たちに見えない。Bキャストの谷口睦美が
パンツ・ルックなのは、いかにフランスとは言え、ナチス傀儡のヴィシー政権下にはそぐわない。設定を変える場合には、観客に「そこまで徹底してやるか」と感心させるようでなければ説得力が生まれない。
もう1つ、私が問題視するのは、演出そのものだけでなく、それを観客に見せようとする東京二期会(公演監督:曽我栄子)の姿勢である。些細なことと言われるかもしれないが、プログラムに作品そのものの粗筋を載せていないのは、「情報統制」と非難されても仕方あるまい。繰り返しになるが、ローウェルスの演出の最大のポイントは、詩人オリヴィエと作曲家フラマンが第10場の後でナチスの兵士たちに捕えられる点にある。だが、もともとは、マドレーヌ伯爵令嬢とオリヴィエ、フラマンの3人がオペラの相談のために隣室の音楽室に行くという設定である。また、その後の8重唱も、兵士たち8人ではなく、使用人8人が歌う。御存知の方もあろうが、私は、時代設定などを変える演出を全面的に拒否する立場には立っていない。しかし、設定を変えた演出の意図や意義は、もともとはどういう作品なのか、それをどう変えているのか、双方を理解してこそ、初めて理解できるものだ。『カプリッチョ』は、誰もが周知の作品ではない。プログラムに粗筋を載せず、音楽面の解説だけを載せ、入場者に演出家の意図を伝える文章を1枚配布するだけでは、結局、「これでも舞台は成り立つ」という極端な解釈だけを観客に押し付けることになる。もし、「『本当の粗筋』を載せると観客が混乱する」とでも言い訳をするなら、観客を馬鹿にした話だろう。
音楽的には収穫も多かった。東京二期会の男声若手陣の層が厚くなって来たことが実感できたのが最大の収穫。そして、沼尻竜典の指揮。昨年春の『ばらの騎士』に続いて、R.シュトラウスの響きを東京シティ・フィルからよく引き出していた。東京シティ・フィルは、R.シュトラウスの響きを作る上で必ず芯にならねばならないホルンが健闘していたが、批評記事に「冒頭の六重奏でのヴィオラの連日の拙さなど、問題もある」と書いた通り、個人技の瑕を問題視せざるを得ない。オケ練の後、ゲネプロが2日間、本番が4回あったのに、その最後の2回でいずれも満足に弾けていないのは、単にさらっていないからだ。易しくはないが、超絶技巧が要求される箇所でもない。ごく一部なのだろうが、プロとして持つべき誇りを欠いているメンバーがいると断じざるを得ない。
posted by 英楽館主 at 12:23| 東京

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