アリスさんの批判への回答と反論
私は、アリスさんが私の記事に「義憤」を感じてコメントの書き込みや御自身のブログでの強い批判をお書きになったということについては、一定の理解を持っているつもりです。アリスさんのブログも全部ではないが拝見させていただきました。最近の読売日響に対して並々ならぬ共感をお持ちになって鑑賞していらっしゃることも伝わって来ます。私も、読売日響を30年以上聴いて来ました。レークナー時代の末期など必ずしも常に共感を持って聴いて来たとは言えない時期もあるけれど、基本的には共感を持って聴き、定期会員を続けて来ました。今回も、ブログのカテゴリを整理して、これまでいかに読売日響を聴き、書いて来たか自分自身でも振り返っているところです。
実は、そういう基本的な線では、アリスさんも私も共通する部分がかなりあるように思います。彼が書いている、ステージに立つ方々への「敬意」を持つべきだという考えにも、まったく同感です。また、常に自分自身の経験を誇示なさらずに書いているアリスさんの姿勢も、私は理解しているつもりです。ただし、今回の件についての考えは全く異なっています。
アリスさんの御意見を拝見すると、「義憤」は、私が個人名を出して批判を書いたことのほかに、私が十分な根拠なく批判を書いたと考えておられることに向けられていると思います。私も、前者については迷ったし、それに的を絞った批判には、今回のような批判以上に真摯に受け止めなければならないと思っています。しかし、後者については、アリスさんとは全く見解が違うようです。
オーケストラというものは、合わせなければならないのに、基本的にはなかなか合わないものです。アマチュアでもブラスバンドやオーケストラ、合唱を経験された方はおわかりになると思いますが、合奏や合唱は全てそういうものだ。弦楽合奏や弦楽器主体の室内楽に比べても、属の違う
楽器が集まるオーケストラはとりわけ合いにくいものです。全員で、一生懸命に合わせているのに、それでもなかなか合わないものなのです。たとえプロでも、いや、プロだからこそ、それを合わせるために、メンバー全員で毎日苦労をしているはずです。アリスさんの「常識的にみても、たった数人でセクション全体の
アンサンブルをかき乱してしまうなどということがあり得るだろうか。」という御意見は、全面的に否定せざるを得ない。たった1人でも、周囲の努力を無にしてしまうことがあるのが、アンサンブルの怖い点なのである。この点を理解していただく上では、批評経験や演奏会を聴く経験、CDの聴き比べの多寡よりも、プロ・アマの別なく、実際に演奏した経験があるかどうかが重要でしょう。
「この記事はどうやら、先日、スクロヴァチェフスキが振ったブルックナーの9番の演奏をきっかけに書かれたものらしい。とすると、思い当たることがある。それは奇しくも、先日、書き記した私の感想文にも書かれており、『ノーランはときに一人で変化をつけるような瞬間まで』あったとして、この得がたいコンマスの能力を賞賛している部分である。なるほど、あのシーンはノーラン、小森谷、さらに、そのうしろのプルトでボウイングが別々になっており、私も『おや?』と思った部分だったのである。しかし、見かけではなく、実際の響きを思い出してみるならば、ノーランが微妙な変化をつけるなか、周りがベースを守ることによって、味のある響きになっていたという印象に変わりはない。
つまり、私は見かけはともかく、響きとして独特の味が出ていたから褒めた。その同じ部分を、山之内氏は、ダイレクトに批判したというわけだ。」 デイヴィット・ノーランを「得がたいコンマス」だと考えている点は、アリスさんも私も同じです。ただし、コンマスだけが「微妙な変化」をつけて、「周りがベースを守る」ことによって演奏の表現が広がることはあり得ません。ノーランが得がたいコンマスであっても、周りも合わない限りは、第1ヴァイオリンというパートとして最良の表現とは言えないのです。スコアやパート譜が「第1ヴァイオリン」として一まとまりで書かれている場合、リズムや音程のズレは、あくまでズレであって、基本的にはあるべきではないのです。その点は、地頭が突出することによって「斉唱」とは次元の異なる表現を生み出す可能性を秘めている能の地謡などとは根本的に異なります。
問題は、ノーランが、周りがついて行けないようなボウイングをしているからズレるのか、それとも周りがノーランに合わせないからズレるのか、そのどちらなのかです。音程についても、「幅があるからよい」ということはあり得ません。何に「独特の味」を感じるかは個人の自由ですが、今回の場合、私が批判した奏者が周囲と違う音程(往々にしてやや高い)で弾いて第1ヴァイオリンの音程に幅が生じたことが「響きとして独特の味が出」るということはあり得ないのです。これは、ヨーロッパ近代の産物であるオーケストラのあり方としては自明のことだと言ってよいでしょう。
もちろん、ボウイングを意図的に変えることを否定しているわけではありません。有名なのはカルロス・クライバーが父エーリッヒ・クライバー伝来のパート譜を使用したブラームスの第2交響曲の第1楽章で、奇数プルトと偶数プルトに逆のボウイングを要求した例です。弓の元と先で音質が違うことにこだわっての措置ですが、多くの指揮者はこうした
やり方を選びません。音質が揃う効果よりも、オーケストラのメンバーが混乱してズレる弊害の方が大きいと考えるからです。スクロヴァチェフスキも、N響と演奏した
ベートーヴェンの第7交響曲の第4楽章で、第1ヴァイオリンの表と裏で別のボウイングを要求したことがありました。この場合でも、表は表で、裏は裏で、それぞれ出来る限り合わせることが自明のこととして要求されます。
また、晩年のカラヤン指揮ベルリン・フィルのチャイコフスキーの『悲愴』の演奏のように、ヴァイオリンとチェロは別のフレージングで明らかに意図的にずれているが、幅のある表現になっているという場合もありますが、これは1つのフレーズの中での拍の感じ方を全パートで揃えずにパートによって違えているケースで、第1ヴァイオリンやチェロというパートの中ではズレを意図的に作り出しているわけではありません。
「大体が、彼のもっとも強く批判している奏者は、既に、読響で20年以上の歳月を過ごしている人物だ。ノーラン氏は1999年に入団しており、それから数えても、既に10年は経過している。なぜ、いまさら、その奏者のせいでアンサンブルが乱れるということになるのだろうか。ばかばかしいにも程があるだろう。」 私は、読売日響を長年聴き続けて来て、今回批判した奏者の演奏や姿勢には常に疑問を感じて来ました。しばしば冷静さに欠ける弾き方で周囲とズレてしまうし、御自身でそうした問題点に気づいていないと思われるからです。また、彼が、第2プルト表という、コンサートマスターの動きを後ろの奏者に伝達する役割を担う位置に座っているため、読売日響の第1ヴァイオリンというパートが、陸上のリレーに譬えて言えば、いつも「第2奏者がコースアウト」という状況になっていることを苦々しく思って来ました。なお、別項にも書きましたが、私は読売日響の定期演奏会と名曲シリーズを1階前方下手寄りブロックで聴き続けているので、目の前の第1ヴァイオリンについて、とりわけ各プルト表の奏者については、誰がどう違っているか、ボウイングを「見て」わかるだけでなく、音程を「聴いて」わかる位置で聴いています。
私が察するに、今回批判した奏者は、おそらく私と同様にブルックナーが好きなのだろうと思います。ただ、そうした感情を、好きな作品だからこそパートが一丸となるような細心の注意へと向けて行くのがプロのオケマンの仕事です。私は、先の記事で「
メロディーの役が回って来ると陶酔して指揮も楽譜も見ないで弾くことがあり、そんな時には、座席から顔が見える。」のように具体的に指摘をしたつもりです。今回は、スコアを見ながら聴いていたわけではありませんから、今の段階でどの楽章のどの小節でという問いにはお答えできません。ただ、私も、現代作品の批評の場合などを除けば、出来る限りスコアを見ながら演奏を聴くという事態は避けたいのです。特定の奏者の演奏の是非を論評するためにスコアを見るなどというのは本末顛倒もいいところです。
話は変わりますが、冷静さを保とうと努めておられたアリスさんも、ここでは冷静さを欠いておられるように思います。反語や「ばかばかしいにもほどがある」と言った修辞法を廃して、もう一度お考えいただきたいところです。
「例のブルックナーでのバラバラのボウイングは、私には、あたかも室内楽をやるときのような動きにみえた。それを、あんな巨大な曲のなかでできるということは、驚愕すべきことだと思った。」
「最近の何ヶ月かの記事を読む限りでは、この方が足を運ぶのは、せいぜいギターやピアノの独奏ぐらいのもので、あとは規模の大きな作品ばかりに限られいる。『ラ・フォル・ジュルネ』でさえ、室内楽に手を出していないぐらいなのだ。そんな人が、本当にアンサンブルについて語れるのであろうか。」 残念ながら、これは土俵を踏み外した発言と言わざるを得ません。1人1パートの室内楽では、作曲家が各パートに別々の楽譜を書いていますから、楽譜の指定によっては「バラバラのボウイング」になるかもしれませんが、少なくともブルックナーの交響曲第9番に関する限り、スコアのどこを読んでも、そのようなボウイングを作曲家が指定している箇所も、あるいは作曲家がそう望んでいたと楽譜から読み取れる箇所もありません。
なお、私は自分の聴いた
コンサートの全てをブログに書いているわけではありませんし、室内楽の場合には、自分で演奏する経験も含めて物事をお考えになるべきだと私は思います。友人がチケットを余らせた「平均率」のコンサート以外は宗教的な声楽曲に的を絞って聴いた『熱狂の日』だけを引き合いに出すのは、フェアであることを心がけたはずのアリスさんらしくない発言だと言わざるを得ないでしょう。
話を戻しましょう。私は、アリスさんの「義憤」について理解しつつも、自分の発言は曲げるつもりはありません。ただし、今後も、スクロヴァチェフスキの指揮であれ、それ以外であれ、読売日響は聴き続けますから、アンサンブルに変化があった時には、このブログにも率直に報告するつもりです。アリスさんも同じ演奏会をお聴きになったようですが、どこのお席かは存じません。残響の豊かなサントリーホールの場合、2階席(センターやRC、LC)では、私の指摘した問題は聴き取りにくいと思います。私自身、PブロックやRAブロックに会員席を持っているオーケストラもありますが、その場合には、視覚的には見えても、第1ヴァイオリンの各メンバーの音程のズレを聴き取るのは、(少なくとも私の耳では)無理です。
私は、今回非難した第1ヴァイオリン奏者の方にも、今後も頑張っていただきたいと思っております。でも、そのためには、今のように毎回第2プルト表で弾いているのは、楽団全体のためにも、御本人のためにも良くないという考えに変わりはありません。