今晩は、7時半過ぎに仕事を切り上げて帰宅。楽しみは、晩酌だけではなく、CSのTBSチャンネルで放映される落語特選会を見ること。6代目三遊亭圓生の「能狂言」が今月のネタ。実際に寄席では聴いたことのない噺だけに、期待して帰って来たのだ。
あらすじは、以下の通り。
ある大名が参勤交代で江戸から帰国し、家臣たちに無礼講で能狂言を見せろと言い出す。江戸で見た能狂言がことのほか面白かったからだ。しかし、田舎の家臣たちは誰も能狂言を見たことがないので、知っている者は届け出るよう高札を立てる。そこに、江戸から旅回りに出て食いっぱぐれた噺家2人組がやって来て、怪しげな狂言を見せようとする。演目は何と『仮名手本忠臣蔵』5段目。これを、「忠の二玉」などという妙な題で上演するが、やってみると椿事が起きて…。
圓生の話しぶりの面白さもさることながら、サゲの部分を見ていて、本物の狂言の本質にハタと行き当たった。落語では、与市兵衛が定九郎に斬られて死んでしまう。しかし、この2人をはじめとする、もともと狂言の知識の不十分な連中は、「狂言は『やるまいぞ。やるまいぞ。』という台詞で終わるものと心得ているから、どうにも続かなくなってしまうのだ。なぜなら、斬られた与市兵衛は、舞台設定で死んだことになっている以上、「やるまいぞ。やるまいぞ。」と声を出すことが出来なくないからである。
さて、「やるまいぞ。やるまいぞ。」と言えなくなってしまった噺家は、困った挙句に「死んでいる」はずなのにムクと起き上がり、場内の爆笑。しかし、本物の狂言では、登場人物は原則として死なないのである。死者の亡霊がこの世に現れる夢幻能の場合と違って、狂言は、「死」という忌まわしいものとは無縁な作品がほとんどだ。
中世と近世では、「死」というものに対する感覚が相当違う。戦乱の続いた中世には、「死」は日常と全くの別世界というわけではなかったからこそ、「死」という語が忌み嫌われた。謡曲250番州で「死」が4例しか見つからないのも、そのためであろう。これが近世になると事情は一変。誰も登場人物の死なない浄瑠璃は(『元日金歳越』など)、ごくごく限られている。日本人の死生観を検討する際に、こうした落語から伝わって来る芸能の本質もまた、興味深い参考となりそうだ。


別に知識がなくても笑えるのが落語の楽しさの1つだと思います。「知識」は、「知る」ことの楽しさを味わった結果ではないかと思います。機会がありましたら、また、お気軽にコメントなさってください。