2009年05月22日

竹ノ内博明 ピアノ・リサイタル

5月12日(火) 19時 東京オペラシティ・リサイタルホール
B→C 竹ノ内博明 ピアノ
(曲目)
 J.S.バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から6声のリチェルカーレ
 G.クルターク:『遊び』第7巻「深き淵より」(1996)
         第6巻「詩:神はアブラハムを試された(不確かなオルガヌム)」(1990)
         第6巻「全ての肉なるものを終わらせるときが来ている…」(1990)
         第6巻「詩:カインは弟アベルに立ち向かって…」(1990)
         第6巻「ノアの洪水のセイレーン――ノアを待ち受ける」(1990)
 A.シェーンベルク:『組曲』Op.25
 G.クルターク:『遊び』第5巻「プレリュードとコラール」(1962/1979)
         第7巻「悲嘆」(1998)
         第5巻「カプリチョーゾ―リュミノーゾ」(1986)
         第5巻「小さな雷雨」
 C.ナンカロウ:ソナチネ(1941)
   ***
 C.ナンカロウ:アーシュラのための2つのカノン
 M.レーガー:バッハの主題による変奏曲とフーガ Op.81

 オペラシティのB→Cシリーズは、時々、日本人にこんな素晴らしい音楽家がいたのかと気づかせてくれるが、今回がまさにそれ。ピアニスト竹ノ内との出会いには嬉しい驚きがたくさんあった。まず、プログラミングが凄い。難曲ばかりが並んでいるというだけでない。クルタークの『遊び』からの選曲が、コンセプトを読み解くカギではないだろうか。
 バッハの世界から、聖書に題材を摂った『遊び』へ。そして『組曲』という純器楽的な作品を経て、『遊び』でも非キリスト教的な数曲を経て、器楽の可能性を徹底的に極限まで追求したナンカロウに至る。そして最後はレーガー。バッハへの傾倒と器楽の追求という2つの流れが、この巨大な作品で1つに合流する。
 ナンカロウは、複雑なことをあっけらかんと書いてしまう。自動ピアノという機械装置を前提に作曲されたソナチネは、第2楽章で左右の手で違う拍子を弾き分けるなどという難しいことを要求しているが、竹ノ内も、譜めくりの女性と呼吸が合わず、ハラハラしたが、それ以外、本人のピアノは危なげなく、あっけらかんと弾いてしまう。休憩後の「2つのカノン」は、リズムの実験としてとても面白い作品だった。
 プログラムの最後に据えられた、マックス・レーガーの『バッハの主題による変奏曲とフーガ』は圧巻だった。レーガーらしさが、ピアノの鍵盤を縦横無尽に使う場面と、バッハの音楽に対する尊敬の念がシンプルな響きに収束する場面の両方で存分に感じられる好演だった。技術的には、細かい音符で真黒な楽譜を弾きこなすだけの技術に加えて、そこで疲れてしまわない十分な打鍵力があるので、音楽の作りが粗っぽくならないのが素晴らしい。フォルティッシモで弾きまくる第13変奏から収束へ向かう第14変奏、そして新たなスタートを切るフーガ冒頭といった辺りが印象に残った。私は、この作品を生で聴いたのは初めてだったが、レーガーという作曲家に開眼したような気分になった。「変奏曲とフーガ」という形式に多くの作品を残したレーガーだが、どんなにオーケストレーションが上手かったとしても、変奏曲の醍醐味は1人で全ての世界を創り出せるピアノ(もしくは鍵盤楽器)に尽きる。そして、主題の深さが、この作品の面白さに輪をかけているように思われた。
レーガーが31歳の1904年に作曲した作品を、1978年生まれで今年31歳の竹ノ内が見事に弾きこなした。終演後にこの点について本人に訊ねてみたが、特に意識してはおらず偶然の一致とのことだった。
 アンコールにブゾーニ編曲のバッハのコラール前奏曲『来たれ、異教徒の救い主よ』BWV659と、モーツァルトの幼年期の(無題の)ピアノ曲、アンダンテ変ロ長調K15ii。
posted by 英楽館主 at 01:59| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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