2009年06月03日

5月28日 ラッヘンマン管弦楽作品展

5月28日(木) 19時 東京オペラシティ・コンサートホール
ヘルムート・ラッヘンマン オーケストラ作品展
(曲目)
『アカント〜オーケストラを伴う独奏クラリネットのための音楽』(1975/76)
『ハルモニカ〜独奏チューバを伴う大オーケストラのための音楽』(1983)
飯森範親指揮 東京交響楽団
クラリネット:岡静代
チューバ:橋本晋也
副指揮:大井剛史、音響:宮沢正光、通訳:蔵原順子

 5月26日(火)にも室内楽作品展があったのだが、その時点ではまだ試験作成に格闘中だったので、残念ながら聴き逃した。それにしても、ラッヘンマンは、現代音楽に関心を持つ人にはやはり聴き逃せない作曲家という感じで、3階席は使用していないとは言うものの、1階席は四隅を除いてしっかり客席が埋まっている。2曲ともラッヘンマンによる実演つきのプレトークがあって、作曲者の意図を理解しながら聴くことが出来た点でも興味深かった。
 1曲目の『アカント』は、ラッヘンマン自身の言葉では「音楽言語の『既視感』」とは対極的な未体験の響きにあふれる「響きのジャングル」だと言う。もっとも「響きのジャングル」という表現は、管弦楽を使ったラッヘンマンの全ての作品にあてはまりそうだが…。モーツァルトのクラリネット協奏曲が、通常の「引用」ではなく、スピーカーから流れて並奏される点に最大の特色がある。一見(一聴)、破壊的に思われるラッヘンマンの、実は古典的なものを規範に据えている一面が見えて来る。とは言え、クラリネット協奏曲の響きは、ほとんどの場合、パルスのような極めて短い断片として響く。全曲の演奏時間は約26分。これは、クラリネット協奏曲の演奏時間と同じということではないかと思う。
 ところどころでイ長調の響きが聴こえて来る。また、それがモーツァルトであるとはっきりとわかる形で聴こえるのは、曲が始まって17分後くらいのオーケストラのフレーズと21分後くらいのクラリネット・ソロのフレーズの2か所だけである。だから、曲は、「モーツァルトの協奏曲との親密さ」を持ちながら進行すると言うよりは、「疎遠さ」を保ちながら進行する感じがするが、距離を保ちながらも、主たる部分を占める生演奏のパートが音楽性を失わずに進行して行くという印象を与えるところがラッヘンマンの音楽の持つ力であり素晴らしさであろう。
 70年代の作品だということを考え合せると、私の頭の中にもたげて来るのは、ひょっとしてジョン・ケージのアイデアに対するアンチ・テーゼとしての意味も込められているのだろうか?ラッヘンマンは、あらかじめクラリネット協奏曲と『アカント』本体が交錯する地点を明確に楽譜で定めており、偶然性に依拠する作曲の仕方ではない。ケージには、オーケストラが、任意のラジオ番組を鳴らしながら演奏するという作品もあったりするが、大ニュースが偶然流れたりすると、聴衆は音楽をそっちのけにラジオの音声に耳をそばだててしまうので、そういう時には演奏の時間が「音楽的な時間」から逸脱してしまうきらいがあった。
 『アカント』は、全体に静謐な語法が積み重ねられる作品だ。パルスの森、クラスター的な響きの森など、様々な音の森を経て、そっと出口にたどり着く。
      *          *          *
 後半の『ハルモニカ』は聴いて圧巻。そして、その響きのバランスの違いが、あらかじめ曲名でも明らかにされていたことに、演奏を聴きながら気づく。『アカント』は基本的にはクラリネット独奏のための音楽であり、『ハルモニカ』は本質的にオーケストラのための作品なのだ。
 全曲は4つの部分から成る。第1部はクレッシェンドする音型の積み重ねから成り、エネルギーに満ちた音楽が続く。途中、バッハの『無伴奏チェロ組曲第1番』冒頭のフレーズが解体・異化された音型が現われ、聴く者に作品の持つ古典志向を感じさせる。
 管楽器全体の「息音」を境に第2部へ。ここでは日本では「蝶々、蝶々、菜の花に止まれ」で親しまれているメロディーが断片に解体されて繰り返し奏でられる。コントラバスのトレモロの持続からを第3部と呼んでおこう。ここでは、目覚まし時計の音や動物や虫の鳴き声の擬音など、様々な雑音が音楽の要素となっている。管の一部を外した独奏チューバは、時々音が響かなくなる感触がプリペアド・ピアノのようだ。バス・ドラムの音が背景で持続して、雑多な音楽に統一を与えていたように思う。
 金管の鋭い和音から、運動的な第4部に入る。変拍子が盛り込まれているが、基本は3拍子にあるようだ。ラッヘンマン自身がトークの中で『ハルモニカ』を「ダンスの連なり」と評していたが、その片鱗がようやく音になって形を現したと感じる。打楽器は複数の音源でリレーして奏でる箇所があり、音源が動くような感触を聴衆に与える(考えてみれば、聴衆は、奏者と違って演奏中に動くことを許されない存在である)。リレーが繰り返される中で音楽は螺旋階段を上るように高揚し、ストラヴィンスキーの『春の祭典』第2部を思わせるようなエネルギッシュなダンスへと突入してクライマックスを築いて行く。チューバのソロには声が含まれていて、逸脱を志向するエネルギーが常に内包されていると感じられる。全曲は、五線譜の中心に記譜されるHの音に収斂して締め括られた。
 橋本晋也のチューバのほか、飯森範親指揮の東京交響楽団が、ラッヘンマンを音楽として自然に演奏していたのが印象的。東響は、楽譜に指示の多いこの作曲家の音符を集中力を失うことなく「音」にし続けていた。
posted by 英楽館主 at 18:35| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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