問題点を包まずに書けば、個人を名指しして批判することになる。書かれた本人は腹を立てるだろう。ネットというメディアだからこそ書ける内容で、通常の新聞・雑誌だったらデスクや編集部に止められる内容だ。それを自分のブログに書くのが適切かどうか、1週間近く考えた。一方で、今回書く問題は、30年余り東京のオーケストラを聴き続けて来た私から見ても、極めて稀なほど目に余る状況である。
結論から言えば、書こうと思う。第1ヴァイオリンのアンサンブルの悪いオーケストラは、たとえて言えばピッチャーが独り相撲で自滅してしまう野球チームのようなもので、聴衆(野球なら観客)だけでなく、おそらく一緒にプレーしている仲間にとっても「やり切れない」という気持ちになるようなものだ。阪神や巨人のファンなら、「いつもエラーをする××」への不満をネット上のブログに書くことも珍しくないだろう。チームとしての読売日響や多くのいいプレーをしているプレイヤーを応援し続けるためにも、今回は名指しで書く。ただし、私も署名入りで書くことにする。
オーケストラはコンサートマスターで音色が変わることがある。読売日響の場合もそうで、コンサートマスターがデイヴィット・ノーランか藤原浜雄かでは見た目にもボウイングが違い、音色が違う。だが、今月はそう簡単ではない。先週、今週と2週続けてノーランがコンマスだったが、今週のブルックナーでの第1ヴァイオリンのアンサンブルの悪さは、書かずにはいられないほど大きな問題だった。
コンサートマスターの周囲が自分勝手に弾き続けていて第1ヴァイオリンとしてまとまらないのである。ここで「周囲」と言うのは第1ヴァイオリン全員ではない。第3プルトよりも後ろは、基本的にはオケのプレイヤーとしての役割を果たしている。問題は第1プルト裏(小森谷巧)と第2プルト表(舘市正克)である。とりわけ第2プルト表の舘市がひどい。常に遅れるし、1列前のノーランに合わせようとせず、右脇からひょいと首を出して直接指揮を見ようとするから絶対に周囲と合わない。メロディーの役が回って来ると陶酔して指揮も楽譜も見ないで弾くことがあり、そんな時には、座席から顔が見える。これは、左顎に楽器を挟んで弾く第1ヴァイオリン奏者には通常はあり得ない光景だ。こんな第1ヴァイオリン奏者は、在京オケ多しと言えども彼1人ではないだろうか。小森谷巧の責任も小さくない。先週のバルトークやラヴェルのプログラムもコンサートマスターはノーランで第2プルト表は舘市だった。違うのは、第1プルト裏が鈴木理恵子から小森谷巧に代わったことだけである。それで、どうしてこんなに第1ヴァイオリンのまとまりが悪くなるのか?
私は、3つの問題を指摘したい。1つにはここで触れている演奏家の音楽家としての資質の問題。もう1つには、読売日響の制度の問題、さらにはプロ・オーケストラにおける研修制度の問題である。
小森谷の場合、既に東京交響楽団時代も含めてコンサートマスターとしての実績を積んでいるが、それでも、ノーランが彼よりもコンサートマスターとして遥かに豊富な経験を有するのは衆目の一致するところだろう。小森谷に、ノーランに合わせよう、ノーランから学ぼうという姿勢に欠けているのが一番の問題だ。別にノーランを凝視しながら弾く必要はないが、ボウイングのずれに彼の姿勢が現れていると思う。同世代の矢部達哉が今は亡きジェラルド・ジャーヴィスの隣で弾いていた時を思い起こすと、特にそう思う。
舘市はたいがい第2プルト表で弾いているが、これは、プログラム等に明示されていなくてもフォアシュピーラー(次席奏者)の制度を読売日響が採用していて、特別契約のコンサートマスターとも一般の楽員とも違う契約になっているためではないかと推測している。状況に応じて舘市をフォアシュピーラーから外せない制度になってしまっているのが、オケ全体のアンサンブルのためにも、音楽家としての舘市のためにも、逆効果になっているのだと思う。舘市にオケマンとして必要な協調性を身につけてもらうためには、彼がどんなに上手かったとしても、一度後ろに下がって弾いてもらうのが一番だ。また、前に座るコンサートマスターよりも舘市の方が技術も音楽性も豊かだと主張したいなら、舘市はリサイタルを開いたり、他のオケのコンサートマスターの募集に挑戦したりすればよいだろう。
もう1つ言えば、今日、100人規模の事業体に勤務している社会人の多くは、新人研修以外にも節目ごとに研修を受ける。その中には、セクハラ防止のための研修のように、本業とは直接は関係のない研修も含まれるが、教員のような専門職でも、その専門分野について様々な研修の機会があるのが普通だ。オケマンにとっても、安定した雇用は欠かせないと思うが、地位に胡坐をかかせず、常に自他のバランスを考えながら演奏できるようにトレーニングする機会を、どう作って行けばよいのだろうか。
私的な話で恐縮だが、教員をやっている私の場合、学会や研究会で発表をし、批判にもさらされることで、自分自身を高めることができる。ただ、全ての教員がそういう機会を作っているわけではない。私は、今回、この件についてどう書こうかと頭を悩ませながらも、首席奏者や次席奏者には、リサイタルなど、楽団主催の演奏会以外でのソロ活動を契約の条件にしてはどうか、などと考えたりした。在京のオーケストラでは、新日本フィルが楽団が関わって室内楽の演奏会シリーズを定期的に行っているが、読売日響もそのような場を作って、そこへの出演を義務づける方法もあろう。その方が、アンサンブルの問題点は浮き彫りになると思う。
9月24日のブルックナーにしても、全てのパートのアンサンブルが悪かったわけではない。ヴィオラなどは、気持ちの良い音のまとまりがあった。この日は、鈴木康浩がトップに座り、ヴェテランの生沼晴嗣が第1プルト裏に回っていたが、2人は窮屈そうにではなく、しっかり合っている。若い鈴木の方が音が大きいのだが、生沼には、鈴木を中心にしたまとまりを盛り立てて行こうという気概があった。その結果、第3楽章など、弦セクションがトレモロでクレッシェンドを支える箇所で、ヴィオラは底力を十分に発揮していた。
こうした問題点の解決は、次期常任指揮者のシルヴァン・カンブルランに引き継がれて行くことになるのだろう。もしかして、カンブルランは、先日の『クープランの墓』のように編成を絞ってオケのメンバーの1人1人に目を行き届かせるような工夫をしてくれないだろうか、などと妙な期待をしてしまったりする。
2009年9月30日 音楽評論家 山之内英明


コメントありがとうございます。トラックバックされた貴殿のブログも拝見しました。
貴殿のような批判が来るであろうことは当然予測していました。それでも書いたのは、批判を受ける覚悟あってのことです。でも、実際に貴殿のブログのように長文のコメントをいただくと、なるほどこの記事に反感を持つ方の具体的な論点がわかって参考になりました。私なりの考えを書くと長くなりますので、コメントとしてではなく、英楽館本体に改めて記事として投稿するつもりです。
的を絞っての御意見ありがとうございます。実際、責任の重いパートの方が、その責任を強く自覚しておられるゆえに悩んでおられたり、時にはそれ以上の深刻な事態に陥る場合もありますから、私自身の問題意識は、それはそれとして、表現の方法には難しいものがあることを理解しています。そういう意味で御意見を真摯に受け止めて参りたいと思っております。
数年前、マンフレート・ホーネックが読響を指揮したモーツァルトの交響曲39番でもかなり積極的な演奏をされておられました。
読響は、アルブレヒト就任前までは、皆さんおとなしい人が多く、一部のお調子者が引っかきまわしていました。定年退職したチューバ奏者、途中でやめたバストロ奏者、その他実名は出せませんが・・・・
勇気を出して書いていただいたコメントだと思います。
読響もこのところ各奏者の演奏の質については厳しくなったのだと思われます。
これからも、いろいろコメントなさってください。