スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団第485回定期演奏会
モーツァルト:交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調『1905年』
(1) 前回よりも古典的な響きにまとめられた「ジュピター」
この1週間に聴いた演奏会は他にもいくつかあるのだが、まずスクロヴァチェフスキ&読売日響のことを先にまとめて書いてしまおう。
前半、モーツァルトの「ジュピター」は、読響とは2002年の秋(ライヴCD有り)以来7年ぶり。その間にN響とも1度演奏している。テンポは7年前と変わらないという印象を受けるが、2点、大きく違うところがある。1つはオーケストラのバランス、もう1つは第4楽章の繰り返しの扱いである。
この春から、スクロヴァチェフスキは低弦の編成を絞って、低音をブンブン鳴らさない傾向にある。この日も、ヴィオラ6、チェロ4、コントラバス3という編成で、低弦は絞り気味だが、低弦パートの輪郭はしっかりと聴こえていた。その結果、第2楽章の繰り返し直後、後半へと踏み出す小節の1拍目など、これが先週と同じ読売日響かと思うほど美しく弦が響く瞬間があった。前回以上にフレーズの輪郭が見通せる、「古典」のスタイルの明確な演奏だったと思う(1回中央に近い私の席での印象だが、サントリーホールの響きを考えると、2階席正面では、逆に輪郭のぼけた演奏に聴こえた可能性もある。他の批評も参照したいところだ)。
第4楽章は、提示部に繰り返しがあり、展開部・再現部にも繰り返しがあって、三重フーガで締め括られるという構成だが、展開部以降の繰り返しは省略する指揮者が多い。しかし、スクロヴァチェフスキは、これまで第4楽章の繰り返しを楽譜の指示通りに演奏して来た。
楽譜の指示を守るのは演奏の基本だが、「ジュピター」第4楽章の場合、作品が充実していて三重フーガ前の再現部でエネルギーをじっくりと蓄えることが出来るが、そこで繰り返しをすると、蓄積したエネルギーを一度「御破算」にしてやり直す感触になり、理論はともかく現実的にはオーケストラのメンバーの力を結集しづらくなってしまうという一面がある。スクロヴァチェフスキが、どういう判断で繰り返しを省略したかは演奏からは読み取れないが、全体像としてはスムーズに運ぶ第4楽章になっていたと感じた。
(2) ショスタコーヴィチの第11番 あれこれ思い出すこと
後半はショスタコーヴィチの交響曲第11番ト短調『1905年』。「血の日曜日事件」を描いたこの作品は、以前に比べて演奏頻度が上がって来ているように思う。近年では、2006年11月にエリアフ・インバルが東京都交響楽団を指揮した演奏が、集中力に満ちたもので印象に残っている。読売日響は2008年1月にヒュー・ウルフ指揮で演奏しているが、この時は、入試直前の仕事が忙しくて聴き逃してしまった。今年は、12月にもデュトア指揮N響がこの曲を演奏する予定だ。
ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも、この第11番は私にとって好きな1曲、聴きに行きたくなる曲だ。そうなったきっかけは、1990年秋の読売日響の定期演奏会でロジェストヴェンスキーが指揮した演奏を聴いたことだった。ロジェストヴェンスキーのショスタコーヴィチは、読売日響以外のオケも含めていろいろ聴いているが、あの時の11番ほど印象深かったものはない。89年にベルリンの壁が崩れ、当時、ソ連が崩壊の危機に直面していたことがロジェストヴェンスキーに何らかの影響を及ぼしていたのだろうが、とにかく壮絶な演奏だった。あの時、「壮絶」さをとりわけ印象づけたのは、遅めのテンポをしっかりと保持し続けた第3楽章後半、それを支え続けたティンパニ(菅原淳)と指揮者との緊迫感のある音楽作りだった。
以来、いく度かこの第11番を聴いて来たが、あの時の感動は忘れ難い。一方、時が経つにつれて変化して来たこともある。まず、当時から論争があったヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』の真偽について、「偽書」という決着が付いたこと。そして、私自身がこの曲を聴き続けて、随分と消化できていることだ。当時から、私は第11番『1905年』には感銘を受けても、続編とも言える第12番『1917年』に共感を抱くことが出来なかった。そして、今、『1905年』を冷静に聴く時、明解な曲だと思う半面で、第2楽章の「血の日曜日事件」描写などは、明解過ぎて深みに欠けるのではないかとも思っている。
(3) スクロヴァチェフスキのショスタコーヴィチの第11番
さて、本題に戻ろう。昨日のスクロヴァチェフスキ指揮の演奏だが、全体に緊密で、かつ「贅肉」の削ぎ落とされた好演だった。4つの楽章は続けて演奏され、緊張が途切れることがなかった。特に緊張を持続するのが難しいのは譜面の単純な第1楽章だが、スコアを見ながらの指揮でも弛緩はなかった。第2楽章の爆発的な音楽も、精緻に行き届いた演奏。第3楽章は、犠牲者への鎮魂と圧政への抵抗への新たな意志の確認から成る。前者は前半のヴィオラのソリによる革命歌「同志は倒れぬ」によって淡々と歌われ、その後の葬送行進曲のような音楽はティンパニの連打を伴って、大きな渦を創り出して行くという構成だ。読売日響は、まずヴィオラが好演。ヴィヴラートを抑えた歌い方が逆説的に深い悲しみを伝えていた。後半はテンポがかなり上がったのが特徴。ティンパニも懸命に全体の響きを支えた。第4楽章は、冒頭の旋律が鋭くかつ雄渾に鳴らされていた。中盤、コール・アングレのソロ(浦丈彦)は、センチメンタルにならず、低音域から高音域まで正確に吹き続けて持ち味を発揮していた。そしてコーダは、鋭いリズム感を保ちながら、テンポを緩めずに一気に駆け抜けた。
「贅肉が削ぎ落とされた」と評したのは、この曲でも弦の鳴らし方に低音を抑える傾向が見られたからだ。読売日響の低弦は、おそらく弾きづらかっただろうと思うが、指揮者の指示に、それぞれのパートの奏でる音の線を明確にすることで応えていたように思う。大編成の作品だが、野放図に鳴るという瞬間がなく、引き締まって、曲の全体像が聴衆にも掴みやすい演奏だったのが、今回の演奏の特色だろう。
スクロヴァチェフスキは、10月3日で86歳。私が素晴らしいと思うのは、彼が80台後半で、なおも新しい曲を掘り下げていることだ。無論、今回のショスタコーヴィチの第11番も、幾度も演奏して来た作品だろうが、ブルックナーやバルトークほど頻繁に演奏して来たわけではないだろう。近年で長寿だった指揮者は、皆、80代後半ともなると同じ作品の繰り返しだったが、今回のショスタコーヴィチは、作品の選択、解釈の両面で、今なお新しい境地に挑みつつある老巨匠の真骨頂を見せてくれた快挙だった。

