2016年03月31日

感銘深かったマルティヌーの『ギリシャ受難劇』(2016春ドイツの旅 07)

035a.jpg 『ギリシャ受難劇』は、チェコ出身の作曲家、ボフスラフ・マルティヌー(1890〜1959)がギリシャの作家ニコス・カザンザキス(1897〜1957)の『キリストはふたたび十字架に』(邦題は訳者により様々)を作曲者自身が台本化し、晩年の5年あまりを捧げて作曲した全4幕の歌劇である。難民の問題を扱ったオペラとして、現在のドイツやEU諸国の状況を考える上で多くのものを示唆してくれるのみならず、権力の反動性を抉り出す作品として、現在の日本の状況の中でも考えさせられることが多々ある作品である。日本ではまだ一度も上演されたことのない作品なので、御存知ない方も多いはずだし、物語は複雑なので、まずは第1幕のあらすじをエッセンの劇場のパンフレットの拙訳で紹介しておこう。(Web上では『ギリシャ受難劇』で検索していただくと日本マルティヌー協会のHPが出て来ると思いますので、そちらも併せてお読みいただくとよくわかると思います。)

[第1幕のあらすじ]
 ギリシャの小さな村リコフリッシは、オスマントルコの占領下にある。復活祭の日、グリゴリス神父は、翌年の復活祭に際して受難劇が行われることになると宣言し、役者を決める。コンスタンディスはヤコブを、ヤナコスはペトロを、ミケリスはヨハネを演じることになる。未亡人のカテリーナは娼婦として生きているが、マグダラのマリアの役を与えられる。一方、カテリーナと愛人関係にあるパナイトは彼の意志に反してユダの役を与えられる。キリスト役には羊飼いのマノリオスが決められ、グリゴリス神父から、今から彼の役にふさわしく奉仕しなければならないと訓戒が宣告される。マノリオスはレニオと婚約しているが、間近の結婚が延期される。
フォーティス神父に率いられて、難民たちの大量の流れがリコフリッシに到着する。彼らの住む村はトルコ人に破壊され、彼らは定住できる場所を探そうとしていた。グリゴリス神父は、難民たちの宿泊を認めることに難色を示す。難民の一人が疲れ果てて死ぬと、グリゴリスは彼女はコレラで死んだと主張し、それを口実に難民への援助を拒む。マノリオスは、フォーティす神父に近くに位置するサラキナ山に定住することを提案した。

 その後の物語の展開を手短に書くと、マノリオスは難民たちを救済しようと努め、カテリーナや3人の使徒役の男たちもマノリオスと共に歩もうとするが、村の長老たちは、彼らに食料を与えることを口実に彼らの持つ宝を巻き上げようとしたりする。グリゴリス神父は長老たちと謀ってマノリオスを殺してしまう。原作『キリストはふたたび十字架に』の意味はこれでお分かりいただけるだろう。

 エッセンのアールト劇場での上演は、チェコ人のイルジ・ヘルマンの演出は、20世紀初頭と言う作品の設定を離れ、現代的な舞台作りで作品の問題意識をしっかりと観客に伝えようとしていた。幕開きでマノリオスに背景の岩を登らせて、困難に真摯に立ち向かう彼の性格を分かりやすく示していた。また、開幕前から客席にアコーディオンを弾く俳優(マルティヌーの台本にはない)を登場させたり、第2幕の最後では、当初は長老の難民たちを搾取しようとする企みに加担していて改心したヤナコスが2階の客席からメッセージを撒いたりと、劇場的な楽しさを欠かさない。ドイツ語のメッセージは、開幕前にはスクリーンに映し出されており、ヤナコス役に歌手によって、休憩時にも観客に配布されていた。
 演出のヘルマンは、重いテーマと向き合う観客の心理的負担を程良く緩和する一方で、現実から目を逸らさない。マルティヌーの台本では、難民たちはフォーティス神父に率いられてリコフリッシ村を去って行くことになっているが、エッセンの舞台では、フォーティス神父以外の難民は倒れて死ぬ。行き場のない難民たちを抱える現在のドイツで、他の新天地を探しに旅立つというのは絵空事にしかならないだろう。
 何よりもマルティヌーの音楽が、けっして難解ではなく(部分的に難しい箇所もあるけれど、次々と様式が変化して行くので聴く者を飽きさせない)、祈りに満ちている。ドイツ語字幕付きの英語上演。

 もし、この記事を読んで興味を持たれた方がいらっしゃれば、ぜひマルティヌーの作品やカザンザキスの原作に触れていただきたいと思います。カザンザキスの原作は、図書館にも入っている場合が多い(私の住む千葉県市川市や勤務先の埼玉県さいたま市には複数館に所蔵されている)ようです。マルティヌーの方は、輸入盤で聴いていただくのが手っ取り早いですね。ロンドンでの初演を目指して書かれた初稿と、実際にチューリヒで初演された際の第2稿があり、今回は第2稿への上演でした。
 私は、この作品は10年ほど前にブレーメンで観て以来2度目でしたが、世の中の状況が険しくなっている今、本当に心に染みる作品でしたし、分かりやすく完成度の高い上演に心を打たれました。帰国後の『週刊オン☆ステージ新聞』に拙評を掲載する予定です。
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2016年03月28日

2016年春 ドイツの旅 (4)

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大収穫だったドイツ国民劇場の『薔薇の騎士』再見

〈写真解説〉
上:チケット。一番下に「時間、それは奇妙なもの」という第1幕後半の元帥夫人の歌詞が印字されているのがさりげなくお洒落。下:配役表。Sayaka Shigeshimaが読み取れるようにトリミングしました。

 17時45分頃にドイツ国民劇場に到着。『薔薇の騎士』を当日券で観る。去年はもっとギリギリに到着したけれど、奥さんが来られなくなってチケットを持てあましているという人が前から3列目(1回券の定価は65ユーロ)を30ユーロで買ってほしいというのに乗って、すごく良い席で観ましたが、今年は売りに来ている人は見当たらなかったので、普通にチケットを購入。手頃な価格の3階席へ。下から2番目のランクの28.7ユーロの席、3階5列目のほぼ真ん中にしました。新国立劇場の4階席と違って、ちゃんと舞台は隅々まで見えます。
 去年も買ったけれど今年もプログラム(2ユーロ)を買い、席に着いて去年と同じ演出だし、指揮者も配役も大差ないだろうと思いながら配役表を見てびっくり。なんとオクタヴィアンを歌っているのがSayaka Shigeshimaさんという日本人ではありませんか!『薔薇の騎士』という作品を御存知の方には釈迦に説法ですが、オクタヴィアンはこの作品の主役で婚約の印の「銀の薔薇」をファーニナル家に届けて、結局はファーニナル家の令嬢ゾフィーと結ばれることになる主役です。元帥夫人は第1幕と第3幕だけ、ゾフィーは第2幕から登場しますが、オクタヴィアンは最初から最後まで出ずっぱりの大役です。もう1つ言えば、メゾ・ソプラノというのは、日本人で世界的に通用する人があまり出て来ていない、ドイツと日本でオペラを観ていると落差を感じる声域なので、それを日本人が歌っているなんてすごい!いったいどんな人なのだろうと思いました。時差と闘うヨーロッパ初日の夜ですが、これだけで眠気が吹き飛びました。
 ヴァイマールの『薔薇の騎士』の舞台は、ヴェラ・ミネロヴァという女性の演出家によるもので、第1幕の幕開きが元帥夫人とオクタヴィアンの情事を覗き見する執事の姿から始まる等「覗き」の場面を多用して、この作品のコミカルな側面を強調した演出です。もともと貴族の世界に「覗き見」は付き物です。主人の情事を知っていても口外しないのが家来の役どころ。これはオペラでも日本の古典の『源氏物語』でも変わりません。『薔薇の騎士』の場合、脇役のヴァルザッキやアンニーナも覗き見をして事情通だからこそ暗躍するわけですよね。
 元帥夫人のラリッサ・クロキーナは、この日は第1幕後半の独白の部分で声がしっかりと身体に響いていない感じが今一つでしたが、第3幕はなかなか良い声でした。ゾフィー役のエリザベート・ヴィンマーは第2幕の登場直後が少し不安定でしたが、尻上がりに調子が上がって行きました。対するオクタヴィアンの重島清香さんは、日本人らしい生真面目さで第1幕から第3幕までしっかりと歌っていて安定していました。ズボン役の男の演技や歌い回しの味というのはまだまだこれからだと思いますが、アンサンブルの足を引っ張る瞬間が皆無なのは素晴らしいと思いました。
 稿を改めて書きますが、日本人の音楽家の方の活躍を知って書こうとすると困るのが、お名前の表記です。現地のプログラムにはローマ字表記しかありませんから「しげしま」さんも「さやか」さんもどんな字なのかわかりません。重島さん、ローマ字表記でも同姓の方は少ないと思いますが、「清香」の字でさやかさんは珍しいですよね。終演後に御本人にお会いして確認しないと書けません。最初は終演後に楽屋口でお待ちしようかと思ったのですが、ふと思いついて、3幕の開幕前にピットの上から日本人のオーケストラ団員の方にお声をかけて、終演後にコンタクトをお願いしました。そんなこともあり、第3幕だけは空席の目立っていた1階2列目で図々しく聴かせてもらいました。
 この日の第3幕最後の3重唱は実に心地よい出来栄えで素晴らしい時間でした。オクタヴィアンが「Marie Therese」と歌い始める直前の休符がこの日は特別に長く、その瞬間に歌手もオーケストラも気持ちが1つになったように思います。GMD(音楽総監督)のシュテファン・ゾリョン(Stefan Solyom)、劇場の指揮者として良い仕事をしたと思います。こういう雰囲気で歌手の調子が良いと、ドイツの劇場のオーケストラっていうのは上手いんです。オケのメンバーも全員自分の持っている一番良い音が自然と出て来て、瞬間的にはベルリン・フィルにも負けないくらい上手い。私は、重島さんへの感情移入もあって、元帥夫人が「In Gottes Namen !」と三重唱を歌いきってティンパニーのロールが入る瞬間に思わず落涙してしまいました。後で聞けば、今日はこのプロダクションの最終日(今のところ来シーズン以降の再演の予定はない)だったのだそうで、舞台に上がっていた人たちの特別な思いが結集した瞬間に立ち会えたのは本当に幸せでした。
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2014年03月30日

新刊のお知らせ 『アップデートされる芸術 映画、オペラ、文学』

P1010303a.jpg新刊のお知らせです。

2014年3月20日付けで中央大学出版部から刊行された研究叢書58『アップデートされる芸術 映画、オペラ、文学』に拙稿を掲載していただきました。

まず目次を紹介しておきます。

第一章 百科事典に見る、二つの「啓蒙」――ツェドラー百科事典とフランス百科全書―― 織田晶子
第二章 マウロ・ジュリアーニ 須磨一彦
第三章 台本および最近の上演に見るベルリオーズ《トロイ人》の現代性 森岡実穂
第四章 メトロポリタン・オペラの《パルジファル》 松本道介
第五章 リヒャルト・シュトラウス《影のない女》初演からの百年史――音楽と最新演出を中心に―― 広瀬大介
第六章 大都市・機械・女――映画『メトロポリス』の〈男〉たち 岩本剛
第七章 『イタリア旅行』――ロベルト・ロッセリーニと眼差し 伊藤洋司
第八章 日本オペラにおける台本研究の必要性――團伊玖麿《素戔鳴》を例として―― 山之内英明

拙稿は、巨額の予算を投じて制作された團伊玖麿晩年のオペラ《素戔鳴》や《建 TAKERU》が再演されない原因の一つは作曲家による台本の抱える問題点にあるのではないかということを指摘したものです。
今回のテーマについては、さらに掘り下げて、今後とも、『古事記』や『日本書紀』などの日本の神話を題材としてオペラのあり方について、分析や提言をして行きたいと考えています。

各執筆者がそれぞれの研究テーマで書いた論文を集めた論文集なので、様々なテーマの論稿を含んでいます。御興味のある方は書店でお手に取っていただいたり、お近くの図書館等にリクエストなどをしていただければ幸いです。
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2013年03月31日

最近の舞台から(2)〜ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場の『ルル』

2月27日(水) 19時
3月2日(土)  14時
東京芸術劇場プレイハウス内特設舞台

ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場公演 『ルル』

フランク・ヴェデキント作(『地霊』『パンドラの箱』)
脚色・演出:シルヴィウ・プルカレーテ
ルル:オフェリア・ポピ 他
(ルーマニア語上演)

 かねがね、ドイツの劇場のSpielplanなどで演劇としての『ルル』の上演を見かける度に、オペラ以外の『ルル』を観てみたいと思っていた。東京芸術劇場のリニューアル記念公演の中に『ルル』を見つけた時から、この舞台を本当に楽しみにしていた。そして、ベルクのオペラ『ルル』について考える上でも、得るものが非常に多い舞台だった。オペラの世界は、基本的には音楽をカットしたり途中で止めたり出来ないという制約の厳しい世界で、演劇とは違う構造を持っていることには留意しなければならないけれど、オペラ『ルル』の演出にも相通ずる様々なアイデアが盛り込まれていた。

 冒頭、猛獣使いが紹介する猛獣の一つとして、シゴルヒに担がれてルルが登場する。真っ赤な口紅、黒のブラジャーとパンティーだけという姿のオフェリア・ポピがビニール袋に包まれて観客の前に姿を現すシーンは、とても刺激的で、かつ印象深いものだった。エロティックなことはもちろんだが、ルルが、男性にとって魅惑的な肉体を持つ存在だからこそ、シェーン博士にも愛され、最後は切り裂きジャックに襲われるという作品全体を貫くテーマがわずかな時間で端的に示されていたという点で、興味深い。(この場面自体は、オペラでもルル役の歌手が体当たりで演じてくれるなら可能。)

 演出の詳細については、もし書くとすれば非常に長くなるので項目を改めたいが、前半は『地霊』に相当する部分で、ルルがシェーン博士を撃ち殺すまで。休憩を挟んで後半は『パンドラの箱』で、パリのサロンとロンドンの屋根裏部屋の場面。後半の脚色は、オペラに比べると簡潔で、かつルルがどういう存在なのかが的確に示されていると感じた。端的に述べれば、前半の『地霊』は「ルル 対 男性」という構図の中でルルの自我が成長もしくは拡大して行き、男性がそれを制御できなくなって行く過程を描いたものであるのに対して、後半の『パンドラの箱』から脚色された部分は「ルル 対 社会」という構図が基本で、一旦、セクシャルな「もの」として男性社会に組み込まれてしまったルルは、そこから脱出出来ずに転落し、最も「セクシャルなもの」である女性の局部を切り取るという猟奇的な殺人者切り裂きジャックに殺されて死んで行く。前半の解釈については、私も今回の舞台を見る以前から、オペラの舞台を通じて見通しを持って観ていたが、後半について明確なコンセプトの舞台を見ることが出来たのは、大きな収穫だったと感じている。

 私はここで「ルル 対 男性」「ルル 対 社会」と書いたが、ここで描かれた「社会」は男性中心社会だから大差ないとも言えるかもしれない。だが、前半はシェーン博士や画家(今回の舞台では写真家)など、個としての男性が描かれているのに対して、後半では、不特定の客を相手に売春するルルの背後に(=舞台の外に)、不特定多数の男性社会の存在が感じられる演出になっていた。それは、ベルクも理解していたところなのだろうが、オペラ化当時の台本の中では十分に表現されていたとは言い難い。しかし、プルカレーテの脚色では、例えば「ルルが脱獄する過程」の煩雑な説明や、「ユングフラウ株の暴落」と言った胡散臭い経済の話は完全にカットされていて、売春婦としてのルルに台本の焦点が定まっていた。また、オペラでは台詞の意味が曖昧な存在の「少女」が、母親に売られて、ルルと同じように性的な「商品」にされて行く過程がしっかりと描かれて、ルルの悲劇が今なお世界中で繰り返されていることを告発するメッセージ性を発揮していたことは特に重要だった。母親が少女を置き去りにして去ったことが観客に知らされた後、彼女は別室に連れて行かれ、しばらくして悲壮な表情で再び舞台に出て来る。彼女が初めて性的な「商品」として扱われ、苦痛を伴う「儀式」を強いられたことは観客にもすぐに伝わる。そして、再登場してからの少女は、バスタブの中にいるルルとしばらく向き合う。台本構成の自由さは、オペラには真似の出来ないところだが、未完の2幕版とツェルハ補筆の3幕版がある歌劇『ルル』の場合、演出家にしっかりとしたコンセプトがあって、2幕とアダージョの間に演技が挿入できるならば、2幕版にも「3幕版とは異なる可能性」があるということになるのではなかろうか。
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最近の舞台から(1)〜彩の国さいたま芸術劇場の『オイディプス王』

2月17日(日) 14時 彩の国さいたま芸術劇場

さいたまネクストシアター公演『オイディプス王』(蜷川幸雄演出)

 昨年から、結構演劇を観ている。オペラももっと観たいのだが、第一に普通の高校教師の給料ではそうたくさんはチケットを買えないし、最近はチケット発売時の最安席の争奪戦にもほとんど参加できない(教員は土日が休みとは限らないし…)から、なかなか本数を増やせない。でも、オペラを観なくても、オペラの舞台について考える機会はたくさんある。その1つとして、この『オイディプス王』のことを少し書いておきたい。

 松本のサイトウ記念フェスティバルでストラヴィンスキーの『オイディプス王』を観たのは、もう15年以上前のことだ。あの曲は、演奏会形式やCDも含めていろいろ楽しんで来たけれど、演劇では観ていないなあと言うのが、最初にこの公演に興味を持ったきっかけ。そして、彩の国さいたま芸術劇場の広報誌の記事などで、この公演をさらに楽しみにするきっかけとなったのは、今回の公演がソフォクレスの原作から直接に舞台化するのではなく、ホフマンスタールが翻案した台本の日本語訳に基づくものだと知ったことだった。オペラ好きなら、ホフマンスタールとR.シュトラウスの共作第1作がギリシャ劇『エレクトラ』だということは誰でも御存知のはず。

 劇場に足を運んでみると、演出の蜷川幸雄は入院中ということで助演出の演出家が実際の稽古を取り仕切ったようだが、演出プラン自体は、基本的に蜷川幸雄が立案してあったもののようだ。オーディションを通過した若手俳優たちで構成されるさいたまネクストシアターのメンバーたちは、皆、若くて、そのエネルギーが三味線を持って動き回るコロス役として力強く発散されていた。劇場の舞台上に設けられた特設舞台での上演は、客席と舞台とが身近で、臨場感に溢れていた。額縁舞台の枠を取り払うという試みは、オペラではオーケストラ・ピットの配置の問題も絡むから困難が伴うが、演劇の世界はその点では自由だ。

 蜷川幸雄は、広報誌のインタビューでは、ホフマンスタールの翻案した台本はソフォクレスの原作に比べると一つ一つの台詞が短く、的確にまとめられている点に持ち味があるという趣旨の発言をしていたが、実際に観て、聴いてみると、それでも相当な長台詞がたくさんある。ホフマンスタール翻案台本の日本語訳は小塩節が訳者の1人に入っているので、最近のものではなさそうだ。今、入手できるか等、細かいことは機会を探して調べてみたい。

 それにしても『オイディプス王』という芝居は、ほとんど男性ばかりの舞台で、女性はオイディプスの母にして妻というイオカステだけだ。言わば、男の声のアンサンブルになる。楽劇『エレクトラ』との関係で言えば、ホフマンスタールは『オイディプス王』の翻案台本をいつ書いたのだろうか?(R.シュトラウスが『エレクトラ』を作曲する前なのか、後なのか?)私は、ホフマンスタール翻案の『オイディプス王』は一度耳で聴いただけなわけだけれど、もし『エレクトラ』と比較するならば、『オイディプス王』の方が台本としての完成度は高いように思われた。もし、楽劇『エレクトラ』以前に『オイディプス王』の台本が出来ていたとしたら、R.シュトラウスは、自分のオーケストレーションに女声、特にドラマティック・ソプラノの声を載せることを前提として題材を選定していたということになるのだろうか?

 その後、学年末の繁忙期に突入して、あの時に感じた問題点はまだ何も手付かずのままなのだが、ここでは備忘録程度に記しておく。でも、オペラばかり観ていてもオペラを知ることにはならないと言うのは、強がりでもあろうが、真実でもある。

 ネクストシアターの役者さんたちの中で、一際存在感があったのは、イオカステを演じた土井睦月子。まだ20代前半だが、長身で品のあるたたずまいと台詞の力とを両立させていた点で、今後注目してみたい女優だと感じ、記憶にとどめた。
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2012年08月21日

クラシック・ジャーナル046 『オペラ演出家 ペーター・コンヴィチュニー』

P1000638.JPG この春に刊行された出版物の話題を2つ。いずれも私の原稿を掲載していただいたものなので、これは書評ではなく「宣伝」である。
 『クラシック・ジャーナル』は不定期刊で流通上では「単行本」扱いの「雑誌」。毎回、特色のあるテーマを取り上げている。いつもオペラの客席でお目にかかる山崎太郎氏、旧知の森岡実穂氏から、「山之内さんも書きませんか?」とお誘いを受けたのが去年の秋口、ほぼ1年前のことだ。それ以前からお2人を中心に、東京二期会『サロメ』の上演(2011年2月)やびわこホールでのワーク・ショップなどで丹念な取材が続けられていた。
 私が担当させていただいたのは、DVDの解説。2004年春に教員になるまでは頻繁に渡欧していたので、それ以前に現地での舞台を観たシュトットガルトの『神々の黄昏』を担当させていただいた。私の文章は、日本版のDVDの解説と趣旨が重複しないようにしながら、コンヴィチュニーの手法、特にジークフリートやブリュンヒルデを英雄視しない脱神話化の手法や、登場する女性(ブリュンヒルデとグーツルーネの2人)への共感を忘れない視点について論じたものだ。
 夏休みに、それ以外の様々な記事・文章にじっくり目を通したのだけれど、コンヴィチュニーについて知りたい人にはもちろんのこと、オペラの演出について、あるいはオペラの制作現場について興味を持つ人にとっては実に面白い1冊であり、格好の入門書にもなっていると思う。大きな書店で手に入るので、ぜひ手に取って御覧いただけたらと思います(定価¥1,470)。
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2012年07月12日

一見の価値がある東京二期会の『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』

7月12日(木) 14時 東京文化会館
 東京二期会『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』
 指揮:パオロ・カリニャーニ
 演出:田尾下 哲
 装置:幹子S.マックアダムス
 衣装:小栗 菜代子
 照明:沢田 祐二
 アクション:渥美 博
マスカーニ:歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』
 サントゥッツァ:清水 華澄
 トゥリドゥ:大澤 一彰
 ルチア:池田 香織
 アルフィオ:松本 進
 ローラ・澤村 翔子

レオンカヴァレロ:歌劇『道化師』
 カニオ:片寄 純也
 ネッダ:高橋 絵理
 トニオ:上江 隼人
 ペッペ:与儀 巧
 シルヴィオ:与那城 敬

 明日から始まる東京二期会の『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師』の二本立てのBキャストのゲネプロを拝見。期末試験中で、かつ自分の出題する試験が今朝終わったので、午後は休暇にして上野に参上した。本当は公演そのものを観たいのだか、スケジュールその他の都合があり、今回は残念ながらゲネプロしか観られない。『道化師』と言えばテノールが…という方にはともかく、田尾下哲の演出が面白く、一見の価値がある舞台に仕上がっている。

 明日からの公演で、ネタばれは禁物だろうが、舞台空間の使い方がうまい。前半の『カヴァレリア・ルスティカーナ』では、テーブルや椅子と言った合唱団が出し入れする小道具が巧みに使われて、酒場から教会へ、そしてまた元の酒場へと、大道具の移動なしに舞台が次々と転換して行く。トゥリドゥとアルフィオの決闘も観客から見える形で演じられ、「トゥリドゥが殺された!」という叫び声とともに、トゥリドゥの亡き骸も客席に突き付けられて幕。どう突き付けられるのかは観てのお楽しみだが、関係者から聞くところでは、この最後の場面での道具の移動はピットに入っている東京フィルの理解・協力があって実現したとのことだ。
 『道化師』はさらに面白い。同じシチリアで『カヴァレリア・ルスティカーナ』の百年後という設定なのだそうだ。道化師たちの入場で思いっきり笑わせてくれて、その後、飽きる暇がない。そう言えば、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の舞台もシチリアだったなあなどと思い起こしながら、何度も笑い、設定の面白さを存分に楽しんだ。ネッダも「女優」の端くれ、その浮気相手がテレビの業界人という設定は、実例がどこにでもありそうなリアリティーがある。
二期会合唱団は、歌だけでなく出入りの多い演技でよくぞ頑張ってくれていた。
 シチリアの地域独特の文化ではなく、現代の大衆文化(=アメリカの文化)の取り込み方も上手い。実は、チラシもパンフレットも持たず、いったい誰の演出だろうと思いながらも楽しんでいたのだが、演出家が日本人と知って、日本でもムジーク・テアターの面白さを本当に消化できる演出家が出て来たなあと実感。田尾下の今後の舞台に期待したい。

 時間を見つけて、後日、もう少し感想などを補完したいと思っている。
posted by 英楽館主 at 18:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ雑談集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月30日

「錦の舞衣 上」

TBS落語研究会の「錦の舞衣(上)」

 連休後、中間試験、教育実習など続いて、しばらく更新が滞りました。例年、この時期はなかなか更新が出来ないのですが、先日、コンサート会場でたまたまワルツさんにお目にかかって、「最近、更新してないですね」と言ってもらったのですが、そういうちょっとしたことが、「また書こう…」という気持ちにつながります。ちょうど今朝の通勤時に手が空いているので、今週のことを1つ。旅行記も途中で止まったきりですが、懲りずに書きますね。

6月26日(火) 国立小劇場 第528回落語研究会
柳家喬太郎 「錦の舞衣」(上)

 率直に言って、私は喬太郎は好きではない。彼の高座に対して、演出が上手いと思うよりは、受けを狙った演出が過剰だと常に感じるからだ。久しぶりに熱を出してだるかったこの日、定時を過ぎて学校を出てから薬局に寄り、解熱剤を服用して国立小劇場に向かった。到着は20時30分。聴けるのはトリの喬太郎の一席だけだ。あるいは、知っている咄なら半蔵門に寄らずに帰ってしまったかもしれないが、「錦の舞衣」は聴いたことがなかったので、何の予備知識もなく、重い足取りで有楽町、永田町を回って国立小劇場に向かった。しかし、これが幸いだった。
 「錦の舞衣」は三遊亭圓朝の翻案作品。原作はサルドゥーの戯曲『ラ・トスカ』。「オペラ雑談集」に落語研究会の話題とは、カテゴリーの間違いではないかとお感じになっていた方にも、ここまで読んで少し納得していただけるはずだ。そう、あのプッチーニの『トスカ』と同じ原作を翻案したものなのである。
 田中優子氏の解説の受け売りだが、サルドゥーの原作初演が1887年(明治20年)、プッチーニの『トスカ』初演が1900年と言うから、原作初演のわずか2年後の1889年(明治22年)に圓朝が口演しているというのは、その情報収集力という点で恐れ入る。

 絵師の狩野鞠信は踊りの師匠お菅にぞっこんで、長い恋を実らせて夫婦と成るが、互いに芸に打ち込んで別居生活を送っている。当初、鞠信はお菅を口説き落とすことが出来なかったが、大坂に下って絵の修行を重ね、お菅が踊る姿を描き続けて、ついに彼女の心を射とめることが出来たのだった。鞠信は根津の清水に暮らしており、ある時、谷中の寺の欄間に天人の絵を書く仕事を引き受け、連日画業に専念していた。
 ある日、鞠信が画を描いていると、やたらと人が寺を訪れては堂内を見回して行く。鞠信は妙に思っていたが、実は、大坂の大塩平八郎の乱の残党宮脇和馬が、父の遺言状を持って江戸に逃げ下り、実妹で深川で芸者をしている小菊を訪ねて来たのだった。鞠信は和馬をひとまず自宅へ匿う。その際、和馬は小菊が持たせたという芸者の着物に頭巾で変装して根津へと向かった。折しも入れ替わりにお菅が鞠信を訪ねて来る。気が強く芸道熱心だが嫉妬深いお菅は、寺へ来る時にすれ違った「芸者」と鞠信との関係を疑うが、鞠信に諭されて谷中の座敷へと向かう。その後、同心たちが寺に詮議に入り、小菊の風呂敷と扇を見つけて帰って行く。
 谷中で、お菅は彼女にぞっこんの客某(名前を失念。近日中に圓朝全集等で確認して書き改める予定)の座敷に出る。その座敷には、先ほど寺に詮議に入った同心も同席していた。某は、お菅が鞠信のような貧乏絵描きと所帯を持ったこと、芸道精進のためと称して2人が別居生活をしていることを揶揄し、鞠信と小菊が深い仲であるかのように言う。さらには寺の詮議で出て来た小菊の風呂敷と扇を密通の証拠として見せて、お菅の吝気を炊きつける。
 舞台替わって根津の鞠信宅では、鞠信と宮脇和馬が再会していた。そこに、嫉妬心を募らせたお菅が訪ねて来る。彼女は鞠信から「来るな」と言われていたにもかかわらず、我慢できなくなってしまったのである。家探しをしようとするお菅。鞠信もさすがに隠しきれず女ではなく宮脇和馬を匿っていたことを打ち明けた。そこへ同心たちが詮議に踏み込んで来る。鞠信は和馬を奥の女中部屋に匿い、同心たちに抗うが、同心たちは徹底的に家探しをする。女中部屋を開けてみると、覚悟を極めた宮脇和馬は切腹をして息絶えており、部屋は血の海となっていた。

 トスカ(Tosca)を「おすが」、マリオ・カヴァラドッシを狩野鞠信など、人物設定を日本風にアレンジしているので、「まりのぶ」などという風変わりな名前が出て来る。また、オペラ歌手を踊りの師匠、フランス革命ではなく大塩平八郎の乱を背景にするなど、明治22年当時の日本の寄席客に通じるような設定を工夫しているところも興味深い。今回の「上」は、プッチーニのオペラで言えば第2幕の途中、アンジェロッティの自殺が伝えられる辺りまで。オペラでは、既にこの時点でカヴァラドッシは捕えられているが、「錦の舞衣」では、この後、鞠信が捕えられて連行されることになろう。「歌に生き、恋に生き」や「星は光りぬ」のような名アリアで楽しんでいる場面は、落語ではどうなるのだろうか。興味は尽きない。喬太郎の語り口も、演じる頻度の高い噺ではないので、丁寧に演じていた。彼特有のギャグ満載というわけではなく、私がこれまで聴いた喬太郎の中では、比較的好感の持てるものだった。「下」の日程は未定だが、秋以降の落語研究会で口演する方向で調整中とのことだ。
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2012年05月02日

2012年3月 ドイツ旅の記 その12 ヴォルムス訪問記(5止)

P1000427.JPG3月28日(水) E ニーベルンゲン博物館

 ヴォルムスは小さな町だが、古い町なので、一通り何でもある。シナゴーグも古くて立派なものがあるようだが、今回は時間の関係で割愛して、最後にニーベルンゲン博物館に行く。ところどころに残る古い市壁の1つが博物館になっていて、写真の新しいアルミニウム製の建築物の部分と古い塔の中が展示室で、ジークフリートの生涯について解説されている。オーディオ・ガイドは5.5ユーロだが、全部聴くと2時間かかるそうなので、今回は展示をざっと見て回るだけにした。そうすると入場無料。当地のフェスティヴァルで上演された演劇「ジークフリートの生涯」のDVDを買って、日本に帰ってからゆっくりと見ることにした。
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2012年3月 ドイツ旅の記 その10 ヴォルムス訪問記(3)

P1000421.JPGP1000411a.JPG3月28日(水) B ハーゲン記念碑
 ところで、ヴォルムスに来てから知ったことだが、『ニーベルンゲンの歌』の物語で英雄ジークフリートがラインへの旅に出かける時に、ライン川のどこにたどり着いたのかと言えば、ヴォルムスなのだそうだ。ツーリスト・インフォメイションでもらった案内パンフレットを参照して、ライン河畔のハーゲン記念碑まで行ってみた。街の中心部から1キロ弱あるが、ちょっとした散歩になるし、天気が良かったので苦にならなかった。ハーゲン記念碑は20世紀初めに作られたもので、ハーゲンがニーベルング族から奪った宝を楯の上に乗せて肩にかついでいるというもの。ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』とは違った物語である。
 ヴォルムスの駅に着いたのが12時30分で、14時40分の列車に乗ろうと思って時間を気にしながら歩き回っていたが、記念碑の前には店が並んでいて、みんな、ライン川を眺めながら、食事を楽しんでいる。その光景を見たら、自分もここで昼食を楽しまない手はないと思って、一番南側にあった「ハーゲンブロイ」という地ビールを売り物にしたガストハウスでビールと焼きソーセージを楽しむことにした。今晩宿泊するカールスルーエに直行する次の列車は2時間後。せっかくだから大ジョッキ(1リットル)を注文して、思い切り飲む。昼間に外で直射日光を浴びながら飲むからか、それとも悪漢ハーゲンの名を冠する酒だからか、よく酔いが回った。ソーセージの味は特に良いわけではないが、ビールはとても美味い。ワーグナー好きの方なら、この近辺、例えばフランクフルトやマインツ、マンハイムなどでのオペラの合間に訪ねるには悪くないだろう。また来たいと思いつつ、ライン川を背に街へ戻った。
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2012年05月01日

シェーンベルク『幸福な手』&ヤナーチェク『運命』

2012年3月 ドイツ旅の記 その6

3月27日(火) 19時30分 シュトットガルト州立劇場

シェーンベルク:『幸福な手』
 男:石野繁生
 6人の女と6人の男:シュトットガルト州立歌劇場合唱団員
ヤナーチェク:『運命』
 ジヴニー(作曲家):ジョン・グラハム=ホール
 ミーラ(ジヴニーの恋人):レベッカ・フォン・リピンスキ
 ミーラの母:ロザリンド・プロウライト
 スダ博士:ハインツ・ゲーリッヒ
 画家ルホツキー:カール=フリードリヒ・ディル
マヨロヴァー婦人:シャンシャン・ヴァン
 ドウベク(ジヴニーとミーラの息子):ヴィンセント・フリシュ(第2幕)
                  マルク・シュヴェンライン(第3幕)

指揮:シルヴァン・カンブルラン
演出:ヨッシ・ヴィーラー、セルジオ・モラビト
舞台:ベルト・ノイマン

 今回は、偶然だが珍しい2本立てのプロダクションを2つ見た。シュトットガルトの2本立ては、シェーンベルクとヤナーチェクの上演機会の少ない2つの作品を、「芸術家の妄想を扱った自伝的ドラマ」という1つのテーマで捉え、併せて上演するという性格のもの。私も、『幸福な手』は初めて生で聴いたし、『運命』も演奏会形式(ゲルト・アルブレヒト指揮読売日響の日本初演)でしか聴いていないため、舞台で見るのは初めてだ。

 演出のヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトは、11年前のシュトットガルト・リングで『ジークフリート』の演出を担当して以来、その活躍ぶりを耳にしていたが、私が2004年以降高校教員になって渡欧の機会が減り、なかなか実際の舞台に接する機会が得られずにいた演出家。今回は、奇抜なアイデアで2つの作品を結びつけることに成功していた。『幸福な手』は、もともとオペラとしてではなく、音楽つきの場面として作曲されたもので、作曲者自身は映画とのコラボレーションを念頭に置いていたものだ。上演時間は20分あまりだから、短過ぎてプログラムに組み込みにくいのである。一方、ヤナーチェクの『運命』は彼の出世作と言える『イェヌーファ』の次に手がけられた全3幕のオペラ。作曲家のジヴニーが主人公で、彼には、相思相愛だったにもかかわらず別の男と結婚させられたミーラとの間に、1人の息子がいる。第2幕の後半、狂乱したミーラの母がベランダから転落死する際に、ミーラも巻き添えになって死んでしまうという展開が強引で、音楽にはヤナーチェク特有の強い説得力があるものの、台本に致命的な問題がある作品というのが私の印象だった。

 個々の作品の印象は変わらないが、2つを併演すると、テーマ性によって、特に後半のヤナーチェクの台本の欠陥がさして気にならなくなって来る。ヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトは、『幸福な手』で巨大な女性の裸体の人形のような装置を使い、芸術家の妄想の性的な側面を鮮やかに視覚化して見せた。人形には立派な乳房があるが、顔は「のっぺらぼう」だ。つまり特定の人物としてではなく、一般論として男性の妄想の対象としての女性を表現している。「男」が巨大な布製の人形の腹の上で演技をすると、人形は凹んだり動いたりするが、その動きは、まるで性行為そのもののように見え、客席には失笑が漏れる(シュトットガルト州立劇場のホームページで写真が見られるので参照してもらいたい)。最後には痙攣して倒れる(=死ぬ?)この「男」役は石野繁生が体当たりの熱演をしていた。
 一方、ヤナーチェクの『運命』では、演出は特別に大胆な箇所があるわけではなく、基本的にはリアリズム的。ただ、一部、歌詞は原作のままだが歌う人物を置き替えている箇所があり、第3幕では、息子ドウベクが亡き母の幻影を見るという台本を変更して、息子が亡き母の姿で現れた姿を見て気を失うという設定に変えられていた。前幕『幸福な手』で失笑した感覚(とりわけ舞台との心理的な距離感)が身体の中に残っていると、『運命』第2幕の強引な筋の展開も、ある程度冷静に、距離感を保ちつつ見ることが出来て、「えっ?何だいその展開は?そりゃあ、いくらなんでも無理でしょう?」という心理的な抵抗が薄れる感覚が面白かった。
 また、指揮のシルヴァン・カンブルランも、その個性をよく発揮していたと思う。『幸福な手』では、精緻な演奏を聴かせる一方で、『運命』では、特に6拍子を使っている箇所の音楽の運びの巧みさで、ジヴニーやミッラの情熱的な性格をよく描写していた。前者はカンブルランの現代作品への適性を示していて、これはよく知られているところだと思うが、後者は語法をよく知り尽くした作曲家の作品を指揮する時のカンブルランの一面を示すもので、ヤナーチェクだけでなくカンブルランを知る上でもとりわけ興味深かった。
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2012年04月05日

旅の始まりはカールスルーエ 2012年3月ドイツ旅の記 その2

P1000393b.JPG3月25日(日) その2

3月25日(日) 19時 バーデン州立劇場カールスルーエ
ヴォルフガング・リーム『1つの道、ルチーレ』
ゴットフリート・フォン・アイネム『ダントンの死』

ルチーレ(デムーランの妻):ディアナ・トムシェ※
ジョルジュ・ダントン(代議士):シュテファン・シュトール※
カミーユ・デムーラン(代議士):ベルンハルト・ベルヒトルト※
エロー・ド・セシェル(代議士):セバスチャン・ハーケ※
ロベスピエール:クラウス・シュナイダー
サン・ジュスト:ウルリッヒ・シュナイダー※
ジュリー(ダントンの妻):サラ・アレクサンドラ・ウダリュー
ほか(※はゲスト歌手)
指揮:マルクス・ビーリンガー
演出:アレクサンダー・シューリン
バーデン州立管弦楽団
バーデン州立オペラ合唱団
 
19時から、バーデン州立劇場でオペラを見る。日本から飛んだ日は、夜中にオペラを見ることになって眠くなりがちだから、高い席は買わない。立ち席以外で一番安い11ユーロの席にする。演目はヴォルフガング・リームの『1つの道、ルチーレ』とアイネムの『ダントンの死』の2本立て。2つの作品は休憩なしに続けて上演された。リームが15分、アイネムが1時間半くらい。昨年7月に新制作のプロダクションの再演。当地カールスルーエ出身のリームが60歳を迎える記念に、今月はオペラだけでなく様々な形で彼の作品が取り上げられている。
 リームの作品は、ゲオルク・ビュヒナーの『ダントンの死』第4幕最終場面のテクストから構成された「音楽的場面」。ダントンとともに反革命派への寛容を主張してロベスピエールによって処刑されたカミーユ・デムーランの妻、リシュレ(ドイツ語読みでルチーレ)が主人公。彼女が夫の亡き骸を引き取りに行く際の独白から成り立っている。曲は、他のリームの作品と同様に、調性のある部分と無調の部分とが入り混じっている。元々リームの音楽が持っている重い音色と、テクストの内容から必然的に生まれる暗さとが渾然となった15分くらいの作品。リシュレ(ルチーレ)もまた反革命の罪で逮捕されて断頭台(ギロチン)に命を落とした人物。舞台は、彼女が捕らえられ、頭から袋のようなものをかぶせられて首を絞められるという一瞬だが衝撃的な演出で終り、休憩なしにそのままアイネムの『ダントンの死』が続けて演奏される。
 アイネムの『ダントンの死』は、全4幕の原作を2幕に刈り込んで台本を構成している。リームの後にアイネムを聴くと、音響的にかなり古風な曲という印象が強い。アレクサンダー・シューリンの演出は、廻り舞台を活用した議場のような舞台装置(ベッティーナ・マイヤー)を活用して、舞台転換を円滑に進めていたのが特色。ただ、作曲者アイネムは舞台転換にある程度時間がかかることを前提に(初演はザルツブルク。当時のザルツブルクの劇場を想定して書かれた部分がどこまであるのだろうか?)音楽を書いているので、転換が素早く済んでしまうと間奏の部分を持て余してしまう感もあった。
 ダントンやロベスピエールは、歴史の本などに出て来る肖像画にそっくりなメイクやかつら(衣装:ウルジーナ・ツィルヒャー)。彼らの対決の場面などをもっとよく理解するためには、日本語で『ダントンの死』を読んで来るべきだったが、学期末の忙しさのために叶わなかったことが悔やまれる。

 終演後、当地の劇場のオーケストラで第2ヴァイオリンのトップを長年弾いていらっしゃるHさんと再会。楽屋食堂(写真)に連れて行っていただき、夕食とワインを共にしながら歓談。お互いの近況、原発事故や日独のその報道の違いのこと、もちろん音楽のことなど、話題が尽きない。
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2011年05月15日

二期会の『フィガロの結婚』再演(2日目)

二期会の『フィガロ』再々演

4月29日(祝) 14時 東京文化会館大ホール
モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』
指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
演出;宮本亜門
アルマヴィーヴァ伯爵:与那城敬
伯爵夫人:増田のり子
ケルビーノ:下園理恵
フィガロ:山下浩司
スザンナ:嘉目真木子
バルトロ:三戸大久
マルチェリーナ:諸田広美
ドン・バジリオ:坂本貴輝
ドン・クルツィオ:森田有生
アントニオ:原田圭
バルバリーナ:馬原裕子
花娘:三宅理恵・醍醐園佳
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:二期会合唱団

じっくりと歌を味わえた再演

 もう半月前の話になってしまったけれど、4月末に観た東京二期会の『フィガロ』は、なかなか良かった。週刊オン☆ステージ新聞は連休前後に毎年恒例の休刊があったため、この『フィガロ』の舞台評は来週5月20日(金)発売の「5月27日号」に掲載の予定。既に原稿は送ったのだけれど、週明けの下版に向けて、もう一度見直して手を入れようと思っている次第。今回の『フィガロ』は、どうしても2日目しか見ることが出来ず、初日のキャストは聴けなかったのが残念だが、私には昨年秋の新国立劇場の『フィガロ』再演(音楽的にバラバラだったという印象)に比べると、遥かに充実した舞台だと感じられた。

 既に2度上演されている宮本亜門演出の再々演だから、演出について新しく書くことはほとんどない。宮本亜門演出で東京二期会が制作したダ・ポンテ3部作で面白かったのは、本当は『ドン・ジョヴァンニ』だったのだけれど、あの演出は観客が同時多発テロの記憶を共有していることが一つの前提だったし、最後に星条旗を振り回す演出は、「がんばろう日本!」という3月以降の日本の背負う新たな課題を考えると再演はもうあり得ないだろう。『コジ・ファン・トゥッテ』は集客が大変だし、特別に記憶に残る演出ではなかったから、今後も上演されるのは『フィガロ』だけなのだろうか。

行き届いていたデニス・ラッセル・デイヴィスの指揮

 今回の上演は、何と言ってもデニス・ラッセル・デイヴィスの指揮が面白かった。全体にテンポがゆっくりだったので、最初は驚いた。私はこの指揮者でいろいろなCDを聴いていて、いずれも早めのテンポ選択をしているからだ。リンツのブルックナー管弦楽団を指揮したブルックナーの第8交響曲(初稿)など、日本でも発売されている盤だけでなく、それ以前にサンクト・フローリアン修道院でライヴ収録された盤(サンクト・フローリアンの売店で買った。あの残響の長い聖堂でも早めのテンポは変わらない)も聴いているから、意外に思う一方で、「これは何かやりたいこと、狙っていることがあるな」とピンと来たのだ。
 結局、ラッセル・デイヴィスは、東京二期会の歌手たちに、イタリア語のディクションに常に留意して歌うことを求め、かつ実現していたのだと思う。二期会の歌手の水準も上がっては来たけれど、主催公演以外の舞台への客演だと、首を傾げたくなることも少なくない。最近で記憶しているのは、2月6日(日)シュテファン・ショルテス指揮都響でのロッシーニの『スタバート・マーテル』。ラテン語の歌詞のディクションがバラバラで閉口したが、あの週は入試で忙しかったので書く暇がないままに終わってしまった。フレーズの最後で、いつも歌い遅れて、最後の音が伸びがちになる癖のある歌手、逆に伸びないけれど、フレーズの最後で言葉を押し込むように歌う癖のある歌手などなど。いずれも今回の『フィガロ』のメンバーとは違うけれど、問題山積だった。3日間程度のリハーサルで全てを仕上げなければならないプロオケのコンサートの場合、外来の指揮者が来日してリハーサルが始まってからでは修正する時間がないこともあるのだろう。話題を『フィガロ』に戻すと、適切なディクションで歌おうとすれば、難しいのはアリアではなくレチタティーヴォである。指揮者がそれに真剣に取り組もうという意志を持っているなら、自身でセッコの通奏低音を弾くのが一番だ。今回のラッセル・デイヴィスもフォルテピアノを弾きながらの指揮。これは何よりも評価すべきことだ。
 私がラッセル・デイヴィスの指揮に感心したのは、脇役までどの歌手にも目配りが行き届いていたこと。これはテンポと無関係ではあるまい。例えば第3幕の伯爵のアリア。レチタティーヴォからアリアに入った時には、「与那城敬ならもっと早いテンポで歌えるのでは?」と思ったけれど、通して聴くと、やはり終り近くのバリトンにコロラトゥーラが要求される「e guibilar mi fa」では、ゆっくり目のテンポがちょうど良かった。3連譜が一箇所(6拍)出て来るのだけれど、勢いで歌ってしまうのではなく、細部まで丁寧に歌おうとするとあのテンポがギリギリだった。脇役では音楽教師ドン・バジリオ役を歌った坂本貴輝が秀逸。アンサンブルの中でも常にしっかりとした音程と声量で充実した歌を聴かせていた。

オペラにおける指揮者の役割

 改めて思うことは、オペラの公演での指揮者は、究極の裏方だということだ。日本の聴衆は「巨匠」が好きだけれど、歌手たちを無事に歌わせるための舵取り役が、指揮者に求められる最大の仕事。その結果、テンポが聴衆の好みに合わないと責任を負わされるのもまた歌手ではなく指揮者だ。大阪交響楽団の音楽監督を務めている児玉宏氏からこんな話を聴いたことがある。児玉氏がベルリンに留学してオットマール・ズイトナーの元で勉強していた頃の話で、確か演目は『マイスタージンガー』と言っておられたと記憶しているが、いずれにしてもワーグナーであった。ある日、テノール歌手の調子が上演の途中から悪くなり、カヴァーの歌手もいなかったのでどうなるかと思っていたら、ズイトナーがテンポを上げて、オケに「もっと音を出せ!」と煽り始めた。舞台が終わった後、児玉氏が「先生、今日のテンポはどういう理由で選ばれたのですか?」と訊ねたところ、ズイトナーは「だって、オペラは終わったよ!」と答えたという。要は、一度舞台を始めた以上は、何とかその日の舞台をたとえ不調でも歌手に勤めさせることが指揮者の役割だと言う逸話であろう。児玉氏はそういうやり取りを通じてオペラにおける指揮者の役割を学んだとおっしゃる。(ここで児玉氏の名前を無断で出すのは失礼かとも思うが、情報源を記さずに私が訳知り顔に書くのも失礼な話なので、お名前を入れて紹介させていただいた。)
 ベルリンで長年音楽監督として聴衆からも信頼されていたズイトナーが一晩だけ無茶なテンポや音量でオケを鳴らして「あれじゃあ、今日はテノールの声が聴こえなかったのは仕方がない」と思わせるような演奏をしても、ズイトナーへの信頼はそう簡単には崩れないはずだ。一方、来日して指揮するのは初めてのラッセル・デイヴィスの場合、舞台の制作過程を知らない聴衆や批評家からは「指揮者のテンポが遅い。あんな指揮者は好きじゃない!」と言われてしまう場合も多いだろう。しかし、そうした批判を浴びながらも、東京二期会の歌手たちから得た信頼は、きっと大きなものがあるはずだ。私は、ラッセル・デイヴィスにまた東京二期会を振りに来てほしいと強く希望している。
 歌手のことについては、詳しくは週刊オン☆ステージ新聞を御参照いただきたい。

追記 ピットの深さに関して

 今回の『フィガロ』では、ラッセル・デイヴィスとともにピットに入った東京フィルも好演していた。今回特に私が耳を傾けたのは、ファゴット。ただし、ピットの深さについては、もっと浅めにするという選択もあったのではないか。そう考える理由は2つ。1つにはレチタティーヴォ・セッコに入る時にラッセル・デイヴィスが着席する間が長めになってしまっていたから。もう1つは、オケの音が全体に控えめに聴こえることになってしまい、広い東京文化会館の隅々にまで内声が聴こえたか疑問だから。もっと浅めにすると、オケは歌手の声を聴きながら強弱の差をよりはっきりと付けなければならなくなる(コンサートばかりのオケだと歌手の弱音を掻き消してしまう恐れがある)けれど、オペラの舞台に馴れている東京フィルなら出来ただろう。そうすれば、オケを鳴らして聴かせたいところではもっとはっきりと客席に音を伝えることが出来たはずだ。ピットの深さも指揮者が選択するものだが、ここは東京文化会館を知り尽くした制作担当者の助言もあって良かったところなのではないだろうか。
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2010年12月14日

二期会の60周年記念公演

12月13日(月)
 午後から、都心で東京二期会のプレス発表会があり、2012年の二期会60周年を記念公演のラインナップが発表された。ちょうど勤務校の成績会議が一段落した後で、時間が取れたので、久しぶりにそうした会に足を運んでみた。発表内容については、既に東京二期会のホームページも更新されているので、御興味のある方は、ぜひそちらで御覧いただきたい。
http://www.nikikai.net/index1.html
 早いもので、『マイスタージンガー』や『ばらの騎士』を日本の歌手たちが立派に歌った二期会50周年の記念公演からもう10年近い歳月が経ったことになる。ただ、10年前と少し違うのは、「よくぞ日本人が歌った」という大作ではなく、その分、中身の充実が問われるプロダクションが並んでいると思われるところだ。たとえばヴェルディの『マクベス』など。
 東京二期会と共催になる日生劇場の50周年記念のシリーズのライマンの2作も楽しみだ。残念なのは、個人的に好きなヤナーチェクやブリテンの作品が一つもないことだろうか。

 記者発表の中では、新たに公益財団法人東京二期会の理事長に就任した高丈二氏が音楽、歌は公共的な財産だという趣旨の発言をしておられたことに特に共感を覚えた。
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2010年10月11日

新国立劇場『アラベッラ』初日

新国立劇場の『アラベッラ』初日

10月2日(土) 14時 新国立劇場オペラパラス

R.シュトラウス:歌劇『アラベッラ』
指揮:ウルフ・シルマー
演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
衣装:森英恵
ヴァルトナー伯爵:妻屋秀和
アデライデ:竹本節子
アラベッラ:ミヒャエラ・カウネ
ツデンカ:アグネーテ・ムンク・ラスムッセン
マンドリカ:トーマス・ヨハネス・マイヤー
マッテオ:オリヴァー・リンゲルハーン
エレメル伯爵:望月哲也
ドミニク伯爵:萩原潤
ラモラル伯爵:初鹿野剛
フィアカミッリ:天羽明恵
カルタ占い:与田朝子
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

 土曜日に授業のある私立高校の教員としては、土曜日は14時開演だと基本的には開演時間に間に合わない。かつてのように15時開演にしてもらいたいと切に願う。一応、勤務時間は13時10分までなのだが、実際には授業が終わって30分で学校を出られるなんてことはあり得ない。この日は、好きな作品の初日ということで、仕事の後始末は終演後に学校に戻ってやることにして、タクシーと電車を乗り継いでギリギリに駆け込む。劇場に着いてポケットから携帯電話を取り出そうと思ったら、携帯ではなく、チョーク箱で、走ったせいもあって、チョークは微塵になっていた。でも、間に合ってホッとする。
 この公演の批評は週刊『オン・ステージ新聞』の10月15日号(既に10月8日に発売されている)に書いた。演出については、14日(木)にも観る予定なので、その後に書くことにしたい。
 主役2人の出来には満足。ミヒャエラ・カウネは生で聴いたのは初めてだと思うが、高音の発声がスムーズでいい。単に私の好みというだけでなく、アラベッラ役として実に適役だと思う。相手役のマンドリカは、昨秋の新国立劇場ではヴォツェックを歌ったトーマス・ヨハネス・マイヤー。ロマンティックな歌を朗々と聴かせて、ヴォツェックの時とは別な魅力を示してくれた。
 配役については、制作側に日本人も含めてドイツ語がしっかりと歌える歌手を揃えようという意図があったように思う。その点は評価できるのだが、物足りなかったのは、ツデンカ(新国立劇場はパンフレットや字幕もで「ズデンカ」の表記を使い続けているけれど、違和感を持っているのは私1人ではあるまい)とマッテオ。ツデンカのアグネーテ・ムンク・ラスムッセンは、あるいは14日に観ればもう少し声が出て来るかもしれないが、オリヴァー・リンゲルハーンのマッテオは、元々声がない(声量もないし高音も出ない)タイプの歌手のように聴こえた。この2人が充実しないと、物語に厚みが出て来ないし、リンゲルハーンよりも望月哲也のエレメル伯爵の方が遥かに充実していたので、振られ役の方が存在感があるという変なバランスになってしまった。
 詳細は後日、改めて書くことにしたい。
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2010年09月30日

疑問点の多かった二期会の『魔笛』

9月9日(木) 19時 新国立劇場オペラパラス

モーツァルト:歌劇『魔笛』

雑感掲載予定
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2010年05月30日

『影のない女』3日目

5月26日(水) 18時 新国立劇場

 この日は、4階席から見た。もともと会議で第1幕には間に合わない予定だったが、かなり長引いて、結局第3幕しか見られなかった。だが、1階席からではなく、4階から距離を置いて見ると、心理的にも隔たりがあって、初日、2日目とは違った見方・感じ方もできた。
 まず、ドニ・クリエフの演出について感じたのは、今回の舞台は1階席で正面から舞台を見る客にはクリエフの考えている中身を伝えられるかもしれないが、4階席から見ると、見せるための段取りが目に付き過ぎて煩わしいということだ。7枚の「石」のパネルや5枚の「家」のパネルを大道具のスタッフが手動で動かして行く舞台を4階から見ていて、私はふと、文楽を2階席から見る時の詰まらなさを連想した。文楽の好きな者にとっては、既に知っている作品を繰り返し見るならば、人形遣いが人形だけではなく小道具の出し入れなどに「舟底」と呼ばれる舞台上を腰をかがめて動き回っている様子が見えると、「ああ、なるほど、ここでこういう段取りで演じるのか」と手品の種明かしを見るような面白さがあるのだが、それは、作品もしくは文楽の舞台への共感が既に成立していることが前提で、文楽初心者には向かない席だと思う。同様に、『影のない女』という作品を知り尽くしている人にはいいかもしれないが、私も含めてそうでない観客にとっては、新国立劇場で上演されている舞台についての知識的情報ばかりが増えていって、その情報が作品そのものへの開眼に結びつかないようなもどかしさを感じるのだ。
 もう1点、エーリッヒ・ヴェヒターの指揮について。3日目で歌手も安定して来ているはずなのだけれど、どうも、誰の歌を聴いても印象に残らないような気がする。それは、作品のせい(メロディーが暗誦して反芻しやすいものではない)だけではなく、指揮のヴェヒターが、歌手に練習を付けるのが上手くない指揮者だからなのではないかと感じた。確かにフレーズは覚えにくい曲だけれど、どうメリハリを付けるのか、明確に指示を出せていないのではなかろうか。R.シュトラウスのオペラの演奏体験が豊富とまでは言えない東京交響楽団から、それなりにシュトラウスらしさを楽しませる響きを引き出した点は評価したいけれど、この人の指揮で『ばらの騎士』を聴きたいとは思えない。
 第3幕を聴いてのこの日の歌手についてのコメント。バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデは、バラクとの二重唱の途中で一回落ちていた。おそらく、間違えたのではなく、第2幕(後半をモニターで聴いただけだが)で熱唱し過ぎて高音に上昇する音型をレガートで歌えずに声が詰まってしまったのだと思う。一番聴き応えがあると感じたのはエミリー・マギーの皇后だが、声質など、適材と思わせるものを持っている割には、歌として印象に残らないのは前述の通り。

 今回の『影のない女』は、私にとってはこの日が最終日。29日(土)は勤務校の体育祭、6月1日は昼公演で、どうしても都合がつきそうにない。もう一つ残念なのは、来年2月のゲルギエフ指揮の『影のない女』が勤務校の入試と重なって両日とも絶望的なこと。入試は体育祭と違って、雨天順延にはならないし、絶対に休めない。そういうわけで、個人的には、しばらく『影のない女』の舞台と遠ざかることになってしまうけれど、ぜひ機会を見つけてドイツで見たいと思っている。
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2010年05月25日

新国立劇場『影のない女』〜クリエフ演出への疑問

『影のない女』2日目

5月23日(日) 14時 新国立劇場

 久しぶりの『影のない女』なので、初日に続けて2日目も見た。初日はプログラムを買わずに見たが、この日は公演プログラムを入手したので、それを見て、いろいろと思うところがあった。
 まず、演出家のドニ・クリエフについて。私は、彼の演出した『ラインの黄金』と『ヴァルキューレ』を見ていることに気付いた。私はカールスルーエのバーデン州立劇場で、大野和士の次のGMDだったアンソニー・ブラマルの指揮だったが、演技が平板で退屈したことを思い出した。当時、私はDenisのスペルを「デニス」と読んでいたから、同一人物とは思わなかったのである。
 3公演併せた印象として、ドニ・クリエフは、いろいろなコンセプトは持っているかもしれないが、それを演技で表現できない演出家だと思う。今回の『影のない女』では、第2幕後半で、バラクが妻を殺そうとする場面の演技に、その傾向が典型的に表れている。バラクは刺し殺そうとする妻よりも客席を意識した姿勢で、弟たちが「予定通り」に止めることで、組み体操の一場面のようにピタリと決まる。だが、そこには歌舞伎の絵面のような様式美はなく、ゾーリンゲンの包丁のマーク(2人ではなく、1人だけ)を3人がかりで止めているような、実に緊迫感のない演技になっている。

 公演プログラムを読んでいて気付いたのは、ドニ・クリエフが、演出プランを考える上で、スラヴォイ・ジジェクのオペラ論の影響を受けているのではないかということだ。公演プログラムから引用しよう。彼はバラクの妻についてこう述べている。

  彼女は、自分には違う人生があった筈だと思い続け、夫を愛さず、セクシャリティを拒絶しています。それゆえ、演出では、バラクと妻との間には2年半の結婚生活でただの一度も肉体関係がなかったと設定するべきですね。ヒッチコックの映画『マーニー』も同種のテーマを描いていますが、いわば、肉体的な欲望を感じているにもかかわらず、男性に近づくことを自分で拒み、その欲望が存在しないかのごとく自らを抑圧してしまう女性の話です。

 はたして、『影のない女』の台本は、クリエフが言うような読み方を「するべき」ものなのだろうか。実際に新国立劇場で字幕を見て疑問に思われた方もいらっしゃるだろうが、私の答えは「否」だ。クリエフは誤りを2つ犯している。1つには、バラクと妻の間に夫婦関係がなかったと読み取ること自体に無理があるということ。そしてもう1つは、「〜設定もあり得る」というスタンスを取るべき解釈について、「〜設定するべき」という過剰な自信を持ち、解釈の妥当性の検証を怠っていることである。

 『影のない女』の台本を紐解いてみよう。

 バラクの弟たちは、兄嫁との口論の中で、

 … du Schoene, bist doch Denis unserm Bruder mit Lust zu Willen.
あんたは、きれいだけど、俺たちの兄貴の楽しみとして意に従っているじゃないか。

と言う。バラクの弟たちは、兄バラクと年下の妻との関係がどのようなものか(当然、性的関係が障害はあっても大人の身体を持った弟たちを関心の対象である)を一つ屋根の下で聞き知っているからこそ出て来る言葉だろう。「Lust」には欲望や情欲の語義もある。

 また、バラクの妻は、

 Mein Mann steht vor mir! Ei ja, mein Mann, ich weiss, wes das heisst! Bin bezahlt und gekauft, es zu wissen, und gehalten im Haus und gehegt und gefuettert ,damit ich es weiss, und will es von heut ab nicht wissen.
 私の夫は眼の前にいます!そう、私の夫を、私は知っています。それがどういう意味か知っています!それを知るために私は支払われ、買われ、家に留められて、保護され、餌を与えられていることを、私は知っていますし、今日からは、それを知りたくありません。

と、夫との関係の拒絶を宣言する。

 こうしたことは、演出を考える時には無視できない要素だ。クリエフの解釈は、バラクとバラクの妻との接触を疎遠なものにしてしまうから、台本から劇的な動きに想像力をはばたかせ、舞台上で歌手たちがそれを実現するために動く可能性を、言わば「去勢」してしまっているように思われてならない。

 クリエフ演出には、照明などの技術面では興味深い点もある。その点については、稿を改めたい。なお、この『影のない女』についての拙評は、週刊オン・ステージ新聞の6月4日号にも書いた。新聞評には台本を引用して書く紙面はないが、論旨に重複があることをお断りしておく。
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2010年05月24日

新国立劇場『影のない女』初日

5月20日(木) 17時 新国立劇場
R.シュトラウス作曲 歌劇『影のない女』

指揮:エーリッヒ・ヴェヒター
演出:ドニ・クリエフ
皇帝:ミヒャエル・バーバ
皇后:エミリー・マギー
乳母:ジェーン・ヘンシェル
バラク:ラルフ・ルーカス
バラクの妻:ステファニー・フリーデ
鷹の声:大隈智佳子
使者:平野和
ほか

 日本ではサヴァリッシュ指揮、市川猿之助演出での上演以来18年ぶりの『影のない女』。この日は大野和士指揮都響やトリンクス指揮東京フィルなど、いろいろ重なっていたが、ホフマンスタール&シュトラウスの作品を1度でも多く見たいという気持ちが強く、新国立劇場に足を運んだ。
 一番強く印象に残ったことは、『影のない女』という物語をどう感じるかは、観る人の年齢や人生に応じて様々だということだ。私にとっても、94年にパリのシャトレ座(アンドレアス・ホモキ演出、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮、皇帝や皇后の衣装や住まいは青、バラクとその妻、弟たちは黄色で統一されていて、物語がわかりやすかったのが特色だった)で見て以来16年ぶりの『影のない女』だったが、20代後半や30で観た時と、40代半ばの今、観るのとでは、物語が心に染みる度合いが違う。
この作品では、「影」は生殖能力を暗示しているが、舞台を離れた現実の世界では、経済的に余裕のある人、成功している人を除けば、40代も後半になると、生殖能力はあっても、子どもを育てる責任が負えなくなっているからだ。作曲したR.シュトラウスには、経済的な不安はなかっただろうが、彼も50代になって人生の半ばを過ぎたことを意識しながら、この作曲をしていたに違いない。
 第1幕は、皇帝(ミヒャエル・バーバ)の歌に余裕がなかった点が物足りなかった。バラク(ラルフ・ルーカス)は安定している。役の難易度(要求される声域)が皇帝とバラクで違うし、バイエルン州立歌劇場公演では皇帝役をペーター・ザイフェルトが歌っていて特に強い印象があったから皇帝役には不利な点もあるが、男声2人は、ドイツ語のテクストがよく伝わるという点は評価できる。女声陣は3人とも声がよく出ている。ただ、皇后(エミリー・マギー)やバラクの妻(ステファニー・フリーデ)は、声は十分だがディクションが弱いように感じた。
 「安上がりの舞台に失望」という意見もあったが、ドニ・クリエフの演出は、場面転換の多い作品を処理できているという点で、とりあえず評価してもいいと思った。むしろ問題は、第2幕、第3幕で細々と装置が動く演出が言葉に付き過ぎて煩雑に感じられる時があることではなかろうか。第3幕の大団円で、それまで5枚のパネルだったバラクの家のセットがぴったりと「家」として組みあがるという装置の設計は、わかりやすく、この演出の最大の見どころになっていた。
 ピットに入ったエーリッヒ・ヴェヒターと東京交響楽団が好演。もう少しホルンに豊かに鳴ってほしい箇所はあるが、R.シュトラウスらしい管と弦とが重なりながら溶け合う響きはよく出ていた。第3幕のコンサートマスター(グレブ・ニキティン)のソロは、音程が今ひとつ。もう少し弾き込んでほしい。
posted by 英楽館主 at 01:07| 東京 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | オペラ雑談集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月25日

『ジークフリート』再見

2月14日(日)&20日(土) 14時 新国立劇場オペラパラス

R.ヴァーグナー:楽劇『ジークフリート』
 指揮:ダン・エッティンガー
 演出:キース・ウォーナー
 演出補:マティアス・フォン・シュテークマン
 ジークフリート:クリスチャン・フランツ
 ミーメ:ヴォルフガング・シュミット
 アルベリヒ:ユルゲン・リン
 ファーフナー:妻屋秀和
 ブリュンヒルデ:イレーナ・テオリン
 エルダ:シモーネ・シュレーダー
 森の小鳥:安井陽子
 
 2003年のプレミエ以来7年ぶりの再演。まだ『神々の黄昏』の再演を観ていないが、キース・ウォーナーが来日していない以上、第3幕の最後の演出が変更される可能性は低いから、やはり『ジークフリート』は「トーキョー・リング」の中で最も成功していた演出だと再確認する。「ワルハラ入城」がすっきりしない『ラインの黄金』や第3幕が演出としては筋が通っても雑音で煩わしい『ワルキューレ』と比べても、この『ジークフリート』は、音楽と演出との調和が感じられ、工夫のポイントが作品の本質を突いていると思われるからだ。特に、ジークフリートの精神年齢を現すかのような着ぐるみの森の小鳥の巧みな使い方や、第3幕でドアを使うことによってジークフリートの「成長」が視覚化されていることなど、今でも古びていないと思えるからだ。
 第1幕の冒頭で、さすらい人(=ヴォータン)が舞台下手から、アルベリヒが上手から姿を現す。第2幕前半でも、ファーフナーが眠る森の近くのモーテルで、両者が隣合った部屋に鉢合わせ(ここでもヴォータンは下手、アルベリヒは上手の部屋に登場)する。ヴォータンもアルベリヒも、指環を我が物にしようと狙っているという点では同次元だということを視覚化しているという点で、この演出はわかりやすい。
 実は今、私は個人的な理由からドイツ、ヴァイマール国民劇場の『ニーベルングの指環』のDVDを観ているのだが、このヴァイマールのミヒャエル・シュルツの演出にも、ヴォータンとアルベリヒを同列に捉えようとする傾向がある。ただ、こちらの場合には、それが『ラインの黄金』から提示されてしまうところに抵抗を感じる。ヴォータンとアルベリヒは一貫して欲望から逃れられない存在であることは確かだが、それを最初に提示してしまうと、ヴォータンの世界観、ひいてはそれぞれの『指環』のプロダクションが持っている世界観を提示する機会を失いかねない。物語が進行し、かつ仕切り直しになる『ジークフリート』の冒頭は、改めて登場人物を相対化して捉えるには絶好の場所であり、キース・ウォーナー演出は、『ラインの黄金』の冒頭でも、『ジークフリート』の冒頭でも、ツボを外していないと感じるのだ。
 ジークフリートの成長を描くというプロットは、「ジークフリートの死」から作品の構想を始めたヴァーグナーにとっては、制作途上で発見した、もしくは必然的に行き着いたものだろうが、「英雄の死」だけでなく「英雄の成長」に注目したのはヴァーグナーの天賦の才能のなせる業だろう。ヴァーグナーは、『ジークフリート』の台本執筆と作曲の間に『マイスタージンガー』ではヴァルター・フォン・シュトルツィングの「成長」を描き、『指環』の後にはパルジファルの「成長」を描いた。ドイツ・オペラは、『魔笛』でも『魔弾の射手』でも「試練」を描いているが、ヴァーグナーはさらに一歩進んで「成長」を描いた。
 ヴァグネリアンの方には当たり前のことを長々と書いてしまって恐縮だが、英楽館にはいろいろな読者の方がいらっしゃるので御容赦いただきたい。要は、少年ジークフリートの「成長」をどう描くかは『ジークフリート』の本質的な課題であり、ヴァーグナーは、そのための脇役として森の小鳥や、歌こそ歌わないが熊の着ぐるみを配した。第1幕でミーメが「熊など連れて来るな」と歌うのはそれ故である。(蛇足だが、このヴァーグナーの時代の「熊」の存在には、シュトットガルトの『指環』で『神々の黄昏』を担当したペーター・コンヴィチュニーがキース・ウォーナーに先駆けて注目し、実際に熊の着ぐるみを舞台に登場させ、配役表にも「熊」を載せている。)
 今述べたように考える私の立場からすれば、森の小鳥を徹底的に活用する演出は、やはり歓迎すべきものだ。ただ、安井陽子が、歌でも宙乗りの演技でも、2003年の菊地美奈に及ばなかったのは物足りない点だった。特に、第2幕の最後で森の小鳥が着ぐるみを脱いでしまう演技は、けっして妙な興味本位ではなく、一瞬だけれど感動的だ。「男の子」の成長の過程をこれほど現実的に捉えている舞台は、7年の歳月を経ても少しも古びない。
 ところで、私の手に余るドイツ語の問題で、ちょっと引っかかったのは、「Knabe」を字幕で「若者」と訳している点だ。何か別の訳語を探してほしい。古語ならば前髪の「童」のような、英語の「boy」とは少し違った語感が抜け落ちてしまうような気がする。

 歌手陣は、男声が充実。ヴォルフガング・シュミットがジークフリートではなくミーメを歌うのも贅沢な配役だが、それ以上に堪能したのは、第2幕前半でのさすらい人(ユッカ・ラジライネン)とアルベリヒ(ユルゲン・リン)のやり取り。リンが素晴らしかっただけでなく、ラジライネンとリンの声柄の組み合わせ、ラジライネンの方がやや高く明るい声だという点が非常に良かった。この点については、私はもっと勉強しないといけないが、作曲者自身が考えていたのは、バス・バリトンのさすらい人ではなく、今回のような声のバランスではないかと想像している。妻屋秀和のファーフナーも含めて、男声陣が揃っていたけれど、第3幕の後半、イレーナ・テオリンのブリュンヒルデが歌い始めてからは、大きく落胆。声はよく聴こえるが、男声陣と違ってドイツ語のテクストが全然伝わって来ないからだ。こんなソプラノが『神々の黄昏』でもブリュンヒルデを歌うのかと思うと、今から気が重い。

 ピットの中はダン・エッティンガー指揮の東京フィル。昨年の『ラインの黄金』や『ジークフリート』に比べると荒削りなところが影をひそめ、テンポや強弱の誇張も少なくなっていると思う。初演時には『ジークフリート』と『神々の黄昏』にはNHK交響楽団が起用され、物知り顔に「N響でなければ駄目だった」などと言う人もいて、私はそうした「N響ブランド」に対する信仰や崇拝を疑問に思っていたが、東京フィルも十分にヴァーグナーの響きが証明された。ただ、1つだけ苦言を呈しておけば、第3幕の「ブリュンヒルデの目覚め」で管楽器のアインザッツがしっかり決まらないところだけは、きちんと出来るようにならねばならない。こういう誰でもオーケストラに聴き耳を立てる箇所がしっかりしないと、いつまでも「二流」の烙印を押されてしまうことになる。東京フィルには、『神々の黄昏』でも、さらに頑張ってほしい。
posted by 英楽館主 at 11:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | オペラ雑談集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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