2014年06月22日

住大夫引退公演(大阪千秋楽)

国立文楽劇場開場30周年記念公演『菅原伝授手習鑑』
(第1部)
二段目 杖折檻の段    豊竹呂勢大夫・鶴澤清介
    東天紅の段    豊竹咲圃大夫・竹澤宗助
    丞相名残の段 切 豊竹咲大夫・鶴澤燕三
(第2部)
三段目 車曳の段     大夫掛け合い・鶴澤清治
    茶筅酒の段    竹本千歳大夫・竹澤団七
    喧嘩の段     豊竹咲甫大夫・野澤喜一朗
    訴訟の段     竹本文字久大夫・鶴澤藤蔵
    桜丸切腹の段 切 竹本住大夫・野澤錦糸
四段目 天拝山の段    豊竹英大夫・鶴澤清友

 4月の国立文楽劇場の文楽公演は、開場30周年を記念して『菅原伝授手習鑑』の通し。その千秋楽の昼夜(2段目から4段目「天拝山」まで)を聴いた。この日が4月・5月公演で現役を引退する7代目竹本住大夫の大阪での最後の舞台ということで、特に夜の部は超満員だった。
 4世竹本越路大夫が引退したのが平成元年の国立文楽劇場開場5周年記念公演『菅原伝授手習鑑』だった。越路引退後の文楽を四半世紀にわたって牽引して来た住大夫も、奇しくも同じ『菅原』三段目の「桜丸切腹」が引退披露狂言となった。ただ、今回は急な引退発表で引退の口上がないのが寂しいところだ。文楽の口上は前後に休憩を入れないと実施出来ない(人形を遣う舞台の床面は下げているので「舟底」と呼ばれる。これを上げて、毛繊や金屏風を立てて行うため。)ので、既に天拝山の段を含む狂言立てが発表されていたから口上が入れられなかったのである。
 そういう事情もあって、千秋楽は、床を降りた住大夫が舞台前方に姿を現し、観客に直接挨拶をした。そして分裂時代の三和会以来、舞台で苦楽を共にして来た吉田蓑助が桜丸の人形で花束贈呈を行った。越路大夫の引退時にも東京の千秋楽で文楽としては異例の「カーテンコール」があったが、あの時以上に感動的な光景で、私もぐっと来た。
 越路大夫が76歳で引退した時、一回り年下だった住大夫がここまで頑張ってくれるとは思わなかった。80歳を過ぎても舞台で語った大夫は、豊竹姓の元祖豊竹越前少掾や昭和では豊竹山城少掾、10代目豊竹若大夫などの例があるが、85歳を過ぎて語り続けた例はない。住大夫は本当によくぞここまで頑張ってくれたと思う。病後のリハビリに取り組みながら語る今回の「桜丸切腹」は、巧拙を論じるべき舞台ではない。場内にはすすり泣く観客もいたが、住大夫の語るこの段を毎回聴いて来た者としては、浄瑠璃そのものからは涙は出て来なかったが、自分と闘いながら死力を尽くして語る住大夫の姿は、私の記憶にいつまでもとどまることだろう。

 さて、今回の公演の収穫としてまず指摘しておくべきは、咲大夫の「丞相名残の段」に品格があったことだと思う。平成元年の通し上演の際に、大阪では住大夫・團六(現:寛治)、東京で織大夫(現:源大夫)・團六(現:寛治)が語って以来、前回の玉男一周忌追善興行まで、「丞相名残」は豊竹十九大夫が語り続けていた。本来の芸風や芸歴から言えば、源大夫が綱大夫時代にもっと語って然るべきだったのだが、清二郎(現:藤蔵)と組んでいたために十九大夫・清治、十九大夫・富助などの組み合わせが続いていて、玉男の人形は良くても肝心の床がいただけないことが多かった。咲大夫には「讒者のために罪せられ」など、もう少し丁寧な声の遣い方を望みたい箇所もあるにはあったが、同じ山城少掾系でも締まりのない語り口だった十九大夫とは異なり、品位ある菅丞相が語りによって造形されていたと思う。鶴澤燕三の三味線も、ゆったりとした足取りをよく醸し出していた。
 もう一人、熟年になってから進境著しいと感じたのが吉田玉也の白太夫である。前回は土師兵衛を遣っていても、小悪人ぶりが十分には出せていないもどかしさ、東天紅などで土師兵衛が中心になって進行する場面で「舞台は広い」と感じさせてしまう芸の隙間が残っていたのだが、今回の白太夫は、玉也が、玉男亡き後、人形と同化せずに自分の表情を抑えて人形を活かす術をよく獲得していることがうかがえる「桜丸切腹」だった。
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2011年02月27日

忘れ難い名演 住大夫の「桜丸切腹」

 しばらく更新が途絶えていて失礼しました。まず、今月一番印象に残った公演、入試の代休を利用して見に行った文楽『菅原伝授手習鑑』三段目のことから書いておきます。

2月14日(月) 文楽 第2部 『菅原伝授手習鑑』
道行詞甘替  (桜丸)豊竹呂勢大夫(苅屋姫)豊竹咲甫大夫
(斎世親王)竹本南都大夫 竹本文字栄大夫・竹本小住大夫
豊澤富助・竹澤團吾・鶴澤清馗・鶴澤清丈・鶴澤龍爾
車曳の段   (松王丸)豊竹松香大夫(梅王丸)豊竹芳穂大夫(桜丸)豊竹睦大夫
       (杉王丸)竹本相子大夫(時平)竹本津国大夫
       竹澤宗助
茶筅酒の段  竹本千歳大夫・竹澤團七
喧嘩の段   竹本文字久大夫・鶴澤清志郎
桜丸切腹の段 切 竹本住大夫・野澤錦糸
(人形役割) 親白太夫:桐竹勘十郎
       梅王丸:吉田文司
       松王丸:吉田玉也
       桜丸:吉田蓑助(「車曳」から)
          吉田一輔(道行詞甘替)
       女房春:吉田勘弥
       女房千代:桐竹勘寿
       女房八重:豊松清十郎
       苅屋姫:吉田清五郎
       斎世親王:吉田幸助
       百姓十作:桐竹亀次   ほか

 2月の3部制興行での『菅原伝授手習鑑』三段目に二段目の「道行詞甘替」を加えた上演。こうした試みは初めてかと思いきや、昭和53年に前例があったのですね。国立劇場のホームページでデータベースがいつでも見られるという便利な御時勢、記憶を確かめる上でも大いに助かっています。
 
 さて、今月の『菅原』に話を戻すが、現在の文楽の力を結集した名舞台である。三業それぞれに成果を出している。チケットの入手が困難なようだが、見ておくべき価値のある舞台だ。
 「道行詞甘替」は、近年の通し上演では続く「安井汐待ちの段」とともに省略されているが、それは見どころがないからではなく、あくまで興行時間の関係だ。平成16年の暮れの公演で久しぶりに上演されているが、その時は、残念ながら見逃していた(12月公演って、教員をやっている者にとっては、期末試験とその採点を必死でやっていると終わってしまっていて見損なうことが多い)ので、生では初めて聴いた。吉田一輔が桜丸を真剣に遣っていたのが印象に残った。道行は男女の組み合わせが多いが、この「道行詞甘替」は、苅屋姫と斎世親王も登場するとは言え、桜丸が主役。それを一挙手一投足きっちりと遣っていた。
 続く「車曳」はまずまず。ここでは豊竹松香大夫の松王丸以外は若手主体の床を、竹澤宗助の三味線が緩みなくまとめていたことが印象に残った。桜丸は「車曳」から吉田蓑助。
 休憩を挟んで「茶筅酒」。いわゆるチャリ場の一つだが、他のチャリに比べると品のある笑いが何とも心地よく、また、続く悲劇との対比も鮮やかで、劇作が実に巧みな場面だとつくづく思う。床は竹本千歳大夫・竹澤團七。平成元年の通しの時の竹本伊達大夫・竹澤團七の記憶は今も鮮やかだが、千歳大夫も、白太夫と百姓十作とのテンポの良いやり取りや白太夫と八重との笑いを自然な語り口で語って進境を見せていた。また、八重が白太夫の古稀の祝いに真新しい三方を進呈する場面で白太夫が息を呑む辺りの表現には伊達大夫にはない鋭さがあった。
 今回の『菅原』三段目は、全体に人形陣に緊張感がある。吉田蓑助の桜丸は蓑助の芸暦という面でも、また、この役を幾度も遣っているという点からも別格として、桐竹勘十郎の遣う白太夫が良い。昨今の文楽で勘十郎が優れた技芸を披露するのは毎度のことかもしれないが、白太夫は、勘十郎の芸風にある華やかな役やチャリの役柄ではないので、これほどの出来とは予想していなかった。特に切場の前半、いわゆる「訴訟」の場面で勘当を願い出た松王丸を追い出した白太夫が、筑紫への旅立ちを願う梅王丸を叱りつける場面、「はつたと睨む老いの腹立ち」のところで老人が怒りを顕わにして息子を睨む時の肩や腕の形が実にうまい。拳を握りながらの肩の動きに興奮した息遣いが感じられ、菅丞相を一途に敬愛するからこそ御台・若君への配慮の行き届かない息子に腹を立てる白太夫の、「老いの一徹」という役の性根がよく出ている。それは裏の裏まで物事を読み込む論理性を備えた人物に当てる「孔明」の首とは違った「白太夫」の首にぴたりとはまる遣い様だ。しかもその動きの間合いがフシに合っていて、役者が演じる歌舞伎の白太夫には真似の出来ない劇的なもの、音楽劇としての人形浄瑠璃ならではの面白さが伝わって来る一瞬だった。他に吉田玉也の松王丸が的確。最近、自分ではなく人形を飄々と見せることが上手くなって来たと感じた。豊松清十郎の八重も、特に桜丸の死後に、悲しみだけでなく夫への情がよく出ていた。
 話題を床に戻そう。竹本文字久大夫と鶴澤清志郎の「喧嘩の段」に続いて竹本住大夫と野澤錦糸の「桜丸切腹」。いずれも充実。文字久大夫は、随分よく語れるようになって来た。以前は、住大夫の厳しい指導で何かに注意しようとすると別の何かが欠けてしまうという点で、試験でなかなか合格点に達しない生徒を見るような気分にさせられることが多かったが、最近はこの人なりにまとまった語りを聞かせるようになった。
 住大夫の「桜丸切腹」は、予想以上の聴きものだった。失礼を承知で正直に書けば、私は、住大夫の「桜丸切腹」を初めて聴いた時は、かなりがっかりした。平成8年秋の興行だったが、越路大夫の「桜丸切腹」が耳に残っていたし、語りの完成度に落差があったからだ。その次の平成14年は住大夫が珍しく病気休演で千歳大夫が代役だった。そして平成18年春の大阪も聴いているが、この時の印象はあまり強く残っていない。当時の私の感じたことをまとめておけば、「住大夫が情を語ることに秀でた太夫であることは誰もが認めるところだが、『桜丸切腹』は、特に親白太夫を語るに際して、情だけでなく「非情」も語れないと悲劇が際立たない。」ということであろうか。
 しかし、今月の「桜丸切腹」を聴いて、住大夫は、越路大夫とは別の自らの「桜丸切腹」の世界をしっかりと創り上げていると実感した。私が聴いていない2度の「文楽素浄瑠璃の会」や一昨年暮れの博多公演など、七十を越えてからのこの十五年あまりの間に幾度も語って、この名曲を本当に自分のものとしたと思う。そこに、同じ住大夫の語りでも若い頃から得意としていた「沼津」を聴く時とは一味違う感慨がある。有り余る情があるからこそ桜丸に腹を切らせるという白太夫の人物像が矛盾なく客席に伝わって来た。梅王の述懐「あつたら若者殺せし」(補注)も、かすれようとも真っ直ぐに声を張って語っていた。舞台はその日その日の出来の違いもあろうが、平成8年の時は、ここで裏声を遣っていたのが気になったところだ。時が経ち、歳を重ねて、体力的には毎日の舞台が限界との勝負という住大夫が、以前よりも直球で語っている姿に心を打たれた。大夫がここで裏声に逃げないとなると、私たち観客も否応なく桜丸の死に直面しなければならない。桜丸の死から目を背けることが出来ないから、舞台を見ていて涙がこぼれる。
 もう一つ書いておけば、野澤錦糸の三味線が、実によく住大夫を支えているし、繰り返し弾いて曲の細部まで知り尽くして、さりげない手をその局面を的確に表現しながら弾いているところに進境が感じられた。思えば鶴澤清治の「桜丸切腹」は地から詞にかかるところなど、もっと機械的だった。
 住大夫の体力は落ちているが、三味線も人形も次の世代が力を付けて、三業の総力やバランスでは、極上の『菅原』三段目であった。文楽を見始めて四半世紀あまり、住大夫を幾度聴いて来たか知れないが、この日の「桜丸切腹」を、私はいつまでも忘れ得ないことだろう。

補注)「あつたら若者殺せし」は、「桜丸切腹」の詞章の中でも、桜丸を悼む気持ちを最も強く表現した言葉だと言ってよいだろう。感動詞「あつたら」は「惜しい」の意味の形容詞「あたらし」から派生した語。ただし、「あたらし」は、「口惜し」などとは違って、将来を嘱望される若者が若死にしてしまった時など、「取り返しのつかない事態を嘆く」場合にしか使わない強い感情を表す言葉だった。なお、丸本では「上」という節章が付されていて、高音を張ることが要求されている。
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2010年08月27日

『妹背山婦女庭訓』山の段の放送

 今晩23時からののNHK教育テレビの芸術劇場で、今年の4月に大阪の国立文楽劇場で収録された『妹背山婦女庭訓』三段目「太宰館の段」「妹山背山の段」の放送があります。文楽は、再放送の機会がほとんどないので、お好きな方にも、また劇場には足を運んでいないけれど興味はあるという方にも御覧いただきたい、そしてぜひ録画しておいていただきたい放送です。
 公演のレビューは、英楽館の今年4月の記事を御参照ください。
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2010年05月09日

飛鳥・斑鳩漫歩(4)〜壺阪寺

100506 035a.jpg5月4日(祝) その4
 どこかでコーヒーでも飲もうと思いながら車を走らせていたら、壺阪寺は明日香村のすぐ南の高取町で近いことがわかったので、足を延ばした。こちらは西国三十三所廻りの第6番、文楽『壺阪観音霊験記』は幾度となく見ているが、壺阪寺に参詣したのは初めてだ。
 この寺の光景は、近年あらたに造立されたコンクリート製の仏像が幾つも並んでいて、新しいけれど極彩色ではないので、ちょっと風変わりな印象を持った。折しも風車祭の最中とかで、境内には数えきれないほどの風車(かざぐるま)が回って、カサカサ音を立てていた。本尊は十一面千手観音像。室町時代の作で、類型的な観音像である。三重塔も特別開帳中だった。
 しかし、ちょっと俗っぽい境内の風景にもかかわらず、壺阪寺の印象は悪くない。それは、寺が福祉事業にも精力的に取り組んでいるという姿勢が伝わって来たからだ。目の不自由な方のための老人ホームなどは、観音の利益で「目が開く」という沢市・お里の霊験譚と現実とが異なることを認めた上でなければ出来ない事業だ。この寺の参詣記念の写真としては、三重塔の奥にある沢市・お里の像を掲げておこう。
posted by 英楽館主 at 16:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文楽よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

文楽4月公演〜現有勢力の力を出し切った「山の段」

国立文楽劇場4月公演 通し狂言『妹背山婦女庭訓』第1部
4月18日(日)

猿沢池の段 竹本三輪大夫・野澤喜一朗
太宰館の段 豊竹英大夫・竹澤団七
妹山背山の段
背山 大判事清澄:竹本住大夫 久我之助:竹本文字久大夫
   前:豊澤富助 後:野澤錦糸
妹山 後室定高:竹本綱大夫 雛鳥:豊竹呂勢大夫
   前:鶴澤清治 後:鶴澤清二郎
(人形)
 大判事清澄:吉田玉女
 久我之助:桐竹紋壽
 後室定高:吉田文雀
 雛鳥:吉田蓑助
 腰元小菊:吉田蓑一郎
 腰元桔梗:吉田紋臣
 蘇我入鹿:吉田文司
 天智帝:桐竹勘壽
 官女:大ぜい

 9時羽田発で大阪日本橋の国立文楽劇場に日帰り。今日は第1部だけを見る。伊丹空港からバスでなんばに11時頃着。ちょっと一息入れて、猿沢池の段から席に着いた。三段目「太宰館の段」で、今日は前方の観客の携帯が鳴った。折しも大判事と定高の対話の場面。ここは三味線が入らず大夫が詞だけを語り分ける所で、最悪に近いタイミングだった。この段については、後日改めて評することにしたい。
 眼目の「妹山背山の段」は、聴きたかったけれど、さして期待はしていなかった。しかし、実際に聴くと、感銘の深い演奏だった。
 冒頭、まず背山の久我之助役、文字久大夫が富助の弾く三重で語り出す。低音から高音へと上がる音遣いには、吉野川(紀ノ川)を挟んだ妹山背山の壮大な空間を感じさせてもらいたいものだが、それはない。ただ、住大夫の特訓の成果であろう、文字久大夫の語りに「息」の強さが感じられた。これは進境。及第点まで後一歩だ。文字久大夫に必要なのは技術だけではなく、作品のテクストに対して感じる力、想像力である。
 対する妹山の呂勢大夫・清治は快演。清治はしばしば「切っ先鋭い撥捌き」ということを口にするが、それが、今回は、弾き始めた瞬間に背山と違った流れを作り出す力として、いい方向に作用していると感じられた。呂勢大夫は、詞の多い前半(背山と違って妹山には腰元が2人出るから、背山の染大夫風、妹山の春大夫風といった「風」の問題だけでなく、浄瑠璃の地と詞のバランスも違って来る)を、テンポ良く、かつ伸びのある声を出して語っていた。「谷川の漲る音に紛れてや、聞こえぬ辛さ…」の辺り、華やかなフシと、それに乗って蓑助の遣う雛鳥が下を向く時の可憐な表情とがよく噛み合って、文楽の「山の段」ならではの面白さを感じた。続く「女の念の通ぜよと祈願を込めて打つ礫。浪にせかれて流れ行く。」も見事な節回し。『妹背山婦女庭訓』は、文楽現行曲の中でも『菅原伝授手習鑑』と並ぶ名曲だとしばしば称されるが、今回の呂勢大夫・清治の演奏は、その音曲としての楽しさを改めて味わうことが出来た。
 前半の眼目、雛鳥と久我之助が川を挟んで向かい合う「見合すばかり遠間の心ばかりがいだきあひ」はまずまずの面白さ。「い」(呂勢)「だ」(文字久)「き」(呂勢)「あ」(文字久)「ひ(い)」(呂勢)の掛け合いで、文字久の声の遣い方にもう一工夫欲しかった。「心ばかりがいだきあひ」とは、川が2人の仲を隔てているから「心ばかり」なのであり、雛鳥は、もし川さえなければ久我之助に抱かれたいと思っているということだが、文字久の「だ」と「あ」、とりわけ「だ」に、雛鳥にそう思わせるすっきりとした二枚目の雰囲気が出ないのである。改めて思うのは、一語一語ではなく一音一音の掛け合いは、前後の意味ではなく義太夫節の大夫としての声の出し方、出来上がり方で決まってしまうところが難しいし、ごまかしが利かない。続く雛鳥の台詞「申し清舟様…」の後半は詞ではなくフシになるが、「妹背の山の中を隔つ吉野の川に鵲の渡せる橋はないかと口説き言」の「鵲の渡せる橋は」は実にいいフシが付いていて、それを呂勢が見事な節回しで語るので、それを聴いていて、「鵲」という言葉が古来から詩歌などでイメージを喚起してきた様々な世界に思いを馳せることが出来た。
 大判事と定高の出。ちょうど住大夫が背山で語り出す時に呂勢大夫が立ち上がると拍手が起きた。お客さんも、浄瑠璃の良し悪しはわかっている。昭和の末年以来文楽を見て来た私は、住大夫の定高、綱大夫や十九大夫の大判事を何度も聴いて来たが、今回は役が逆で綱大夫が定高、住大夫が大判事。この配役の妙が功を奏した。住大夫の大判事は、押しのある声で風格があり、一方の綱大夫の定高は、詞にもフシにも品格があった。
 ここのところ精彩を欠く舞台が多かった綱大夫だが、今回は改めてこの人の実力の奥深さに感服させられた。越路大夫の定高を生で聴いていない私にとって、「妹山の春太夫風はこう語ればよい」と納得させてくれる語りだったからだ。一回り体が小さくなったように見える一方で、声はしっかりと出ていた。健康管理面で摂生を重ねた結果ではないかと拝察する。
 ところで、人形陣では桐竹紋壽の久我之助に問題がある。「心ばかりがいだきあひ」のように型になっているところはきっちりと遣っているのだが、そうでない所は精彩を欠いていた。例えば「鶯の声は聞けども籠鳥の…」で背山の舞台を一周するところ。ここは、晩年の吉田玉男が久我之助を一度遣った時の舞台が忘れ難い箇所だが、現代の国立文楽劇場の舞台に「古代の紀伊国」という仮想の空間が現出するかどうかは、こうした人形が浄瑠璃の詞章にベタに付かない動きをする部分で作中の人物が鶯の声にいかに思いを馳せ、川や山々の空間をどう見渡すか、技術面では久我之助の首をどんな角度で遣うか、にかかっていると言っても過言ではない。ついでに言えば、「山の段」は歌舞伎でも「吉野川の場」として上演されるが、現行歌舞伎の演出では、全体は文楽とほぼ同じ段取りでも「鶯の声は聞けども籠鳥の」の部分はカットされる。文楽にしか出来ない表現の可能性を追求出来てこそ名手の域に達することが出来る。そういう意味で紋壽には頑張ってほしい。
 もう一つ、これは致命的なことだが、腹の切り方に品がない。久我之助は、失態を重ねて腹を切るのではなく、覚悟の上で腹を切る(それを父大判事もわかっているからこそ、幕切れの「倅清舟承れ」の名台詞がある)のだから、『忠臣蔵』の勘平のように見える久我之助であってはならない。動きの中にではなく、動かぬ所に品位と色気が見える久我之助でなければならない。紋壽はこの役の性根を掴めていない。特に私が気になるのは、雛飾り一式と雛鳥の首を川に流して妹山から背山に送る場面以降でも、紋壽の遣う久我之助が「腹を切って痛い」という体の動きを続けていることだ。理屈で考えたら、あんなことは出来るはずがないのだが、それを芝居の世界の出来事として成り立たせてしまうのは、琴の音色が加わる音曲のなせる業である。つまり、舞台も観客も、流れ潅頂の場面を経て写実を通り越した世界に入り込んで行くのだが、紋壽の遣う久我之助だけが細かく震えていつまでも元の世界に留まっている。これではいけない。
 両床の掛け合いは、大判事と定高それぞれの長台詞で佳境に入り、「隔つる心、親々の積る思ひの山々は」(両床)「解けて流れて」(背山)「吉野川」(妹山)で大団円となる。この「吉野川」の一言、18日の綱大夫は、声こそ大きくはないものの、逃げずに正攻法で語っていて、感動的だった。終演後、床からの立ち居に時間を要する綱大夫に、場内から惜しみない拍手が送られていた。
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2009年12月07日

竹本越道師の「油屋」

女流義太夫の話題ですが、義太夫ということで、「文楽」コーナーに書いておきます。

12月6日(日)

 友人のTさんから、久しぶりにメールをいただいた。彼は、女流義太夫を数年前から熱心に聴き、また、許可を得て記録を残しておられるのだが、メールは、youtubeに女流義太夫の録音をアップロードしたという話題だった。1973年録音のものだそうで、竹本越道師(1912〜)がお元気な頃の芸を聴くことができるそうです。御興味のある方は、アクセスしてみてください。

 女流義太夫【竹本越道×豊澤仙廣】その1〜4 伊勢音頭恋寝刃・油屋の段
http://www.youtube.com/watch?v=9d2M2ajGlSI
http://www.youtube.com/watch?v=bPuhMOPpUog
http://www.youtube.com/watch?v=WgEUIGcwMlA
http://www.youtube.com/watch?v=vCcJKV1HFIk

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2009年09月19日

9月文楽第2部〜史上最長の「沼津」

 今月の文楽はなぜか3部制。これは実質値上げである。2部に太夫と人形の人間国宝が集まっているので、2部だけは早めにチケットを予約した。現有勢力での「最強の布陣」で臨む2部は、確かに見どころ・聴きどころもいろいろとあるが、全体に浄瑠璃が延びているのは困ったものだ。
 2部は、まず『伊賀越道中双六』から「沼津」。これは、おそらく史上最長の演奏ではないだろうか。タイムテーブルでは「83分」になっているが、私が見た7日(月)、13日(日)、18日(金)は、いずれも87〜88分かかっていた。通常、1人で通したら幕開きの「箱根八里」も含めて75〜76分。2人で語るため、途中に口上やヲクリが入って3分は余分にかかるとしても、残り9〜10分は、演奏が延びている。床は前が竹本綱大夫・鶴澤清二郎、後が竹本住大夫・野澤錦糸。とりわけ前が長い。「お米は一人物思ひ」の前で床が回るのが毎回15時38分から39分頃である。一昨年12月の文字久大夫や呂勢大夫は31分だったのと比べると、はるかに長い。言葉を伴う音楽とそうでないものとでは感じ方が違うとは言え、通常31分程度の交響曲、例えばベートーヴェンの5番を38分、39分かけて演奏ことを想像するとなれば、いかに遅いかがわかる。
 綱大夫の語りは、平作に魅力がある。だが、受け答えをする十兵衛も同じ間になってしまっている。蓑助の十兵衛が玉男のそれに比べて世話に見えると評している友人が私の周りにいるが、それは、人形の遣い方だけでなく、十兵衛の詞のテンポも影響していると思う。いずれにせよ、私は、過去の名人・上手を思い浮かべながらではなく、指揮者の朝比奈隆の晩年、80代の頃の演奏を思い浮かべながら綱大夫の語りを聴いた。
 床が回って住大夫。今回は後半に全力投球できるせいか、あまり衰えは感じない。深夜、十兵衛がお米を取り押さえる場面など、語る人物が次々と変わって行く場面では以前よりも多少長くなっている部分もあるが、住の持ち場で47〜48分だから、こちらは延びても2分ほどである。
 人形は吉田蓑助の呉服屋十兵衛に桐竹勘十郎の親平作。桐竹紋寿のお米。私は勘十郎の平作がいいと思った。特に千本松原での自害に及ぶまでの十兵衛とのやり取り、十兵衛の刀を探る仕種が的確だと感じる。紋寿のお米には、平作を追って池添孫八と千本松原へ向かう場面で、大道具や手拭をもっと丁寧に扱ってもらいたい。
 休憩後は『艶姿女舞衣』「酒屋」。中を豊竹英大夫・竹澤団七、切を豊竹嶋大夫・鶴澤清友。とりわけ清友の三味線がいい。大夫を立てるという三味線弾きの基本的な心構えが自然と客席にも伝わって来る。段切近く、半七の書置きを読んだ一同の大泣きから謡曲「善知鳥」を下敷きにする辺りは、三味線自体も存分に聴かせている。嶋大夫も前回よりも5分長くなった。
 人形は、吉田文雀のお園を見ておくべきだ。「そこにいるのはお園じゃないか」と言われるまで宗岸の後ろにじっとしている時のじっとしているたたずまいがいい。同じ首(かしら)でも紋十郎系とは髪の結い方が違って地味だから、クドキでのネジなどの後ろ姿を見せる型の味わいも、しっとりとしたものになっている。
 私のような公演評を「うるさい」と思う観客もさぞ多いことだろうし、当然のことながら、私も現在舞台に立っている技芸員の皆さんには敬意を持って書いている。だが、古典の伝承ということを考える時、テンポや間合いが違っているという指摘は残しておかねばなるまいと思う。

《注》文楽の過去の上演時間は、日本文化芸術振興会の伝統芸能データベースで簡単に調べられます。平成3年の住大夫・5世燕三が76分、平成17年の住大夫・錦糸が78分です。平成10年の「沼津」は、住大夫が床の上から野澤錦弥改め錦糸の襲名披露口上を上演時間に含んでいるので参考にしていません。
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2009年05月13日

文楽5月公演 初日第1部

 チケット入手を諦めかけていたのですが、直前になってネットで手に入りました。ただ、土曜日は午前中、女子高の授業があるので、『寿式三番叟』には間に合いませんでした。
 『伊勢音頭恋寝刃』は、竹本住大夫・野澤錦糸の床が聴きもの。「油屋の段」が始まってすぐにお紺のクドキになりますが、むしろ今回の聴き所は、料理人喜助と福岡貢のやり取りでしょう。喜助と旧主である貢とのやり取りには、他の場面以上に繊細な手が三味線についています。住大夫との猛稽古があってのことなのでしょうが、錦糸がここをとてもよく弾いています。
 私の隣の席には若いカップルがいたのですが、「十人斬り」を「関係ない6人も殺しちゃうなんて、ひどい話だね」「文楽って、まともな人は出て来ないの?」と語りあっているのが耳に入って来ました。その通りで、文楽や歌舞伎に描かれている出来事は、基本的に非日常の世界なのです。菅丞相の彫った木像の奇瑞を描く『菅原伝授手習鑑』2段目のように、中にはすばらしい非日常もありますが、それも、丞相が無実の罪を着せられて大宰府に流されて行くという悲劇的な全体の中の1コマでしかありません。とは言え、『伊勢音頭恋寝刃』は、描かれた人物像がリアルでこそあれ、感動を誘う人物像が出て来るわけではありませんから、「ひどい話」と感じることは、至極もっともです。
 それでは、この作品の価値はどこにあるかと言えば、情味み溢れる喜助と貢とのやり取りが音楽的に描かれているところに、歌舞伎の『伊勢音頭』には出せない味があるのだと私は思っています。私は、住大夫にはもっといい作品を語ってほしいと思う反面で、文学としては二流でも、文楽として伝承されて来た味わいは素晴らしいという作品こそ、これから先、誰でもは語ることの出来ないものではないかと感じながら、この「油屋の段」を聴きました。三味線が見た目に派手な部分ではなく、語りの裏に回って地合をしっとり弾くところに耳を傾ける方が1人でも増えるといいなあと思いました。
 後半は、『日高川入会花王』「真那古庄司館の段」。いわゆる「渡し場」だけが繰り返し上演されている作品ですが、「渡し場」だけだと、清姫の大車輪になっての奮闘ぶりとガブの人形だけが見どころになってしまいます。「渡し場」への経緯を語る「真那古庄司館の段」は、1980年以来ということで、私も初めて見ました。4月から切場語りに昇格した豊竹咲大夫が鶴澤燕三の三味線で語っていましたが、可もなく不可もなくという出来映え。破綻はないけれど、特に掘り下げて語っていると感心する場所もありませんでしたから。切場と言うのは、語り継がれて行く中で、大夫・三味線が劇的な局面を創り出してゆかないと、伝承が途切れてしまいます。清姫の嫉妬心を焚きつける剛寂法印の詞など、もっと掘り下げて面白みを出してほしいものだと思いました。人形は、桐竹紋寿の清姫、吉田勘弥の安珍(桜木親王)ほか。咲大夫の一番弟子、豊竹咲甫大夫が、白湯汲みでした。
 第2部は千秋楽に見る予定です。
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2009年04月02日

3月の公演から 「義太夫と上方落語の会」

IMG_1361-10per.jpg3月14日(土) 銕仙会能楽研修所
第1部 13時30分開演
 鼎談:豊竹英大夫・桂雀松・長井好弘
 落語「どうらんの幸助」 桂雀松
 義太夫『桂川連理柵』「帯屋の段」(前) 豊竹英大夫・鶴澤清友
第2部 17時開演
 鼎談:豊竹英大夫・桂雀松・長井好弘
 落語「蔵丁稚」 桂雀松
 義太夫『仮名手本忠臣蔵』六段目「勘平腹切の段」 豊竹英大夫・鶴澤清友

 素浄瑠璃と、それに因んだ上方落語を一緒に聞こうという豊竹英大夫主催の会。今回は昼夜2回公演で、とりわけ夜の部はなかなかの盛況でした。中でも聴き応えがあったのは、「勘平腹切」です。ちょうど、この日のNHK-FM「邦楽百番」でも同じお2人による「勘平腹切」の放送があったのですが、収録のためにお稽古をされて、少し間を置いて、それぞれに心に期するものがあったのでしょうか、放送以上にしっかりと物語が聴衆に伝わって来る語りになっていたと思います。特に清友さんの三味線は、御自身の芸風と、地味な節付けの六段目とがよく噛み合って、しみじみ味わい深い演奏でした。
 お気づきでしょうか?いわゆる三大名作の中で、『忠臣蔵』だけは三段目格の切場の節付けが地味なのです。『菅原伝授手習鑑』「桜丸切腹」や『義経千本桜』「鮓屋」は、竹本此太夫の初演ですが、『仮名手本忠臣蔵』では此太夫は九段目を語り、三段目切に当る六段目は竹本島太夫が初演を語っているので曲風が違うのですね。現在残されている初演番付には三味線弾きの名前が載っていません。初演の時、島太夫を弾いた三味線弾きはどんな人だったのかなどと想像を馳せながら、目の前での実演に聴き入っていました。
 銕仙会の能舞台での公演で、第2部は脇正面席で聴いたのですが、これもなかなか面白い体験でした。普段は「白湯汲み」の方しか見られない太夫の脇からの見物が出来たので、息の引き方など、実際に観察できたからです。これは、国立劇場や国立文楽劇場の客席では体験できないことですね。(写真は銕仙会能楽研修所の舞台と豊竹英大夫師の見台TTさん撮影・提供)
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2009年01月11日

木綿でもなく洒落でもなく…

1月11日(日)
 今朝は、コーヒーを飲みながら『義太夫年表』を繰っていた。と言うのは、大阪で見た『新版歌祭文』下の巻「油屋の段」に関して調べておきたいことがあったからだ。
 「油屋の段」には「木綿でもなく絹でもなく…」という一節があり、筋書に、この部分は『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居」の「風雅でもなく洒落でもなく…」のパロディーだという解説が掲載されていたので、「油屋」はいったい誰が初演したのか、調べてみようと思ったのだ。結果は空振り。安永9年9月竹本座初演の『新版歌祭文』は、初演時の番付が残っていないのですね。以下、『義太夫年表』第1巻552頁〜553頁から紹介すると、当時の浄瑠璃評判記『闇の礫(やみのつぶて)』に「竹本咲太夫 お染の下ノ巻は出来ました」という記事があるが、小助が登場する場面の「木綿でもなく絹でもなく…」は、現在では「油屋」の端場の一節で、初演時に咲太夫が1人で通して語ったのか、それとも口・奥に分けたのかがわからないから、初演者を特定することはできない。
 ところで、今月「油屋」を語ったのは豊竹咲大夫、そして、今日の話に登場するのは竹本咲太夫。次回は「竹本咲太夫」について調べてみようと思う。
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2009年01月04日

国立文楽劇場 正月興行初日

第1部
『花競四季寿』「万歳」「海士」「関寺小町」「鷺娘」
『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷の段」
『曲輪文章』「吉田屋の段」
 まず、今月の文楽に苦言を呈しておきたいのは、狂言立てが悪いことだ。時代物が増補物の「本蔵下屋敷」だけで、人形浄瑠璃文楽のドラマとしての魅力を正攻法で伝える作品が1つもない。また、「万歳」と「吉田屋」の端場での権太夫と獅子太夫とのやり取りなど、趣の似通うものが並んでいる点も工夫が足りない。『花競四季寿』は、人形遣いにとっては見せどころが多いかもしれないが、1つ1つの味わいは今1つの作品だ。「関寺小町」も、能とは比べ物にならないし、「海士」に至っては、蛸とのからみなど、バカバカしいの1言に尽きる。「鷺娘」は、豊松清十郎だったが、足遣い(誰なのだろう?)が未熟で、ここで「決まる」という場所以外は膝が下に下がってしまい、全体の形が美しくならなかったのが残念だ。
 「本蔵下屋敷」は千歳大夫・清介と津駒大夫・寛治。玉女の加古川本蔵に紋寿の桃井若狭之助ほかの顔ぶれ。皆、持ち場をしっかりとこなしていると思うが、『仮名手本忠臣蔵』と予定調査する作品自体が面白いと思えない。「吉田屋」は、和生の夕霧に勘十郎の伊左衛門という顔ぶれ。床は咲甫大夫・喜一朗と嶋大夫・富助。嶋大夫は、今年はずっと富助と組むのだろうか?いずれにせよ、これまでの持ち場でなかった場にも挑戦してほしい。床は安定していた。欲を言えば、夕霧にもう一段の存在感が欲しい舞台だった。
第2部
『新版歌祭文』「坐摩社の段」「野崎村の段」「油屋の段」
 「野崎村」以外は上演される機会が以外と少ない『新版歌祭文』をほぼ通しで上演。正月なのでお染・久松が死ぬ「蔵場」は割愛とのことだったが、中途半端の感は拭えない。この作品は、「野崎村」でも「死ぬ」という言葉が乱発されるので、「蔵場」を割愛したところで縁起の良くない点はさして変わらない。時代物なら、もう少し「死」の表現にも語彙の幅があるところだろう。
 第1部終了後にホテルにチェック・インしたため、掛合の「坐摩社の段」はパス。「野崎村」以降を聴いた。「油屋の段」は初めて聴いた。国立劇場のデータベースで確認したが、平成5年の正月以来の上演。この年は、お正月の文楽を見に大阪に来ていなかった。「野崎村」は婆が出て完全な上演。話は重くなるが、作者近松半二が、先行する『染模様妹背門松』にどう新しい趣向を付け加えようとしたのかがよく伝わるので、私は歓迎だ。
 「野崎村」は、英大夫・団七の端場「ア痛し小助」でテンポよく始まった。団七の三味線は、詞の多い曲でのアシライが自然で好演。切場の前半、綱大夫・清二郎は足取りが重過ぎる。清二郎の三味線は、ここのところ衰えの目立つ綱大夫の語りを前進させることが出来ないのが難点だ。心中を決意したお染・久松を久作が止める「その思案悪かろう」の直前で床が回って住大夫・錦糸。浄瑠璃は停滞しなくなり、舞台は生気を取り戻した。蓑助のおみつ以外は、和生の久作、玉女の久松、清十郎のお染という、これからの文楽を担う顔ぶれの人形陣にとって、今後の規範となる舞台となろう。蓑二郎・勘弥の籠かきが御馳走だった。
 「油屋」は、チャリ場としての面白みもあるが、油搾りの勘六という人物自体が、風俗として興味深い。勘六の人物造形には、実際に、力のある人が搾れば油がたくさん搾り取れるので、例えば元相撲取とか、力仕事の得意な人たちが油屋で働いていたのだろうと思わせるリアリティーがある。小助が旦那を装っての遊興から帰って来て着替える件は、落語「百年目」の番頭が駄菓子屋の2階で着替えるという設定にも通じる面白さがある。
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2008年11月18日

国立文楽劇場の25周年記念公演

 いつも拝見しているまこさんのブログ「真名かな日々」に、来年の国立文楽劇場のカレンダーの話題が出ていたので思い出したのですが、来年は開場25周年の記念公演の年ですね。恒例の時代物の通しは何が出るのだろう?
 最近はデータベースで簡単に記録を見られるし、5周年記念公演(越路大夫の引退公演)以来の歴史は自分の記憶にもあるから、振り返ってみると
昭和59年 開場記念  『義経千本桜』
平成元年  5周年記念 『菅原伝授手習鑑』
平成6年  10周年記念 『妹背山婦女庭訓』
平成11年  15周年記念 『妹背山婦女庭訓』
平成16年  20周年記念 『義経千本桜』(4月)
            『仮名手本忠臣蔵』(11月)
 今、『妹背山』の通しは難しいと思う。「山」の顔ぶれが想定できない。『菅原』の通しは平成14年以来出ていないから、可能性があるかなとも思う。綱大夫の「丞相名残」、住大夫の「桜丸切腹」、嶋大夫の「寺子屋」など、配役も収まりそうな感じがするが、どうだろうか。
 個人的には、一番見たいのは『一谷嫩軍記』。朝日座のお名残公演(昭和59年正月)以来通しでは出ていない。従って私も見たことがない。綱大夫の「林住家」、住大夫の「熊谷物語」に嶋大夫か咲大夫で「熊谷陣屋」、「六弥太物語」を誰が語るかが大問題だが…。切場語りにならないうちに咲大夫の「組討」っていうのも魅力だし、英大夫や千歳大夫の「組討」「宝引」なんていうのもあっていいんじゃないだろうか。
 今、出しておかないと、出せなくなってしまう時代物も少なくない。文楽劇場の冒険に期待したい。
(残業の合間の妄想でした…。)
posted by 英楽館主 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 文楽よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

8世竹本綱大夫全集

 昨日、以前から欲しいと思っていた東京レコード(AMONレーベル)の『竹本綱大夫全集』(LPレコード10枚組)を神保町の古本屋で入手した。英大夫師の素人おさらい会の打ち上げで、O氏に御教示いただいたことがきっかけで入手できたので、夏に義太夫をやった「御褒美」もしくは「副産物」という感じだ。内容は以下の通り。演奏は全て8世竹本綱大夫と10世竹澤弥七の名コンビです。
@ 『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」
  A面 冒頭〜篝火が矢を射込む件まで
  B面 首実検〜段切まで
A 『絵本太功記』「尼崎の段」
  冒頭〜中盤まで
B 『祇園祭礼信仰記』「金閣寺(爪先鼠)の段」
C 『敵討襤褸錦』「春藤治郎右衛門出立の段」
D 『敵討襤褸錦』「大安寺堤の段」
E 『伊勢音頭恋寝刃』「油屋の段」ほか
F 『天網島時雨炬燵』「紙治内の段」ほか
G 「義太夫めりやす集」「義太夫の女」
H 『平家女護島』「朱雀御殿の段」
I 折口信夫原作『慿りくる魂』
J 特典盤 義太夫のめりやす 解説 8世竹本綱大夫
LPは、古いプレーヤーを整備しないとすぐには聴けないのですが、とても楽しみな10枚です。発売当時は、売れなかったものだそうですが、それだけにキングレコードの『竹本綱大夫全集』(LP20枚組)よりも入手困難でした。
 先日、お稽古をした『絵本太功記』は、NHKから出ているカセットとは別テイクだと思いますので、聴き比べてみたいですね。「盛綱陣屋」は、途中が欠けるけれども、越路大夫の録音などと聴き比べができます。
 一番楽しみなのがB〜Dの3枚。いわゆる「東風」と「西風」の聴き比べをするには持ってこいの3曲だと思います。特に『敵討襤褸錦』は、現在はほとんど舞台にかからない(平成に入って1回だけ国立劇場で上演されている)作品だけに、貴重な記録です。
 @の「盛綱」の途中が飛ぶ不自然さやGの構成などは、当時の民放ラジオ局での邦楽の放送実態(コマーシャル込みで30分番組?)を反映したものなのではないかと推測しています。
posted by 英楽館主 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 文楽よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月26日

『絵本太功記』「尼崎の段」前:現代語訳

今月はすっかり新規の書き込みが滞ってしまいました。今日は、最近、『絵本太功記』「尼崎の段」の前半の現代語訳を試みたので、それを披露します。
   *     *     *     *     *
絵本太功記 「尼崎の段」前半
《現代語訳》
(皐月と操、初菊の3人は)奥の一間へ入ってしまった。
 後に残ったのは蕾の花のように美しい若武者の十次郎ただ一人であった。十次郎は、水を吸い上げることのできない花のように、思案に暮れ、首を投げ出してうつむいて意気消沈するばかりであるが、やっとのことで涙を押しとどめて、
「母様にも、お祖母さまにも、これがこの世のお別れです。この私の出陣の願いは叶ったので、思い残すことはまったくありません。この世に生を受けてから十八年の間の御恩は、海山にも替えがたいほど深く、大きなものです。けれども、討死するのは武士のさだめと分別なさって、親や祖母に先立つ不孝は許してください。二つ目にはまた、初菊殿のことです。まだ祝言の盃をしていないのがお互いの身の幸運です。私との結婚はきっぱり諦めて、他家へ嫁入りしてください。初菊殿は、私が討死したと聞くならばさぞかし嘆くでしょう。それが気の毒です」と、
親たちへの孝の道と初菊への恋との板挟みで思い悩む十次郎の胸中はまるで海のようにいっぱいになっていた。障子を隔てて隣の一間でそれを立ち聞きしていた初菊が、涙ながらに転がるように出て来て「わっ」と泣き出すので、十次郎ははっと驚いて初菊の口に手を当てて、
「アア、コレコレ、声が大きい、初菊殿。それでは様子を…」と言うと、初菊は
「はい。残らず聞いておりました。夫が討死なさるのを妻が知らないでいてどうしましょう。私はあなたとの仲を来世まで、来世のそのまた次の世までも夫婦だと思っているのに、薄情です。夫婦の盃を交わさないのが幸運とは、あまりに理不尽というものです、光義様。祝言さえも済まないうちに討死というのはつれないことです。私はどんなことがあってもあなたを殺させはしません。討死は思いとどまってください」とすがり付いて嘆くので、
十次郎は「アア、コレコレ、あなたも武士の娘ではありませんか。十次郎の討死は以前から覚悟のことです。お祖母さまに泣き顔を見せて、もし私の討死の覚悟をお祖母さまに気付かれたら、あなたとは来世まで永遠に縁を切りますよ。」
「エッ」
「サア、あれこれ言う内に時刻が遅くなります。その鎧櫃をここへ、ここへ持って来てください。」
「はい、はい。」
「さあ、早く。時間が遅くなればなるほど不覚をとる元です。あなたは聞き分けがない」と叱られて、初菊は「愛しい夫が討死するために出発するための武具を身につけるのに、どうして急ぐことが出来るものでしょうか」と泣きながら取り出す緋威の鎧(赤色の鎧)の袖には、初菊の涙が雨のように降りかかる。そこに母親の操は白木の三宝に素焼きの盃を携えて、白髪の祖母皐月は、長柄の銚子に蝶花形の飾りや出陣を祝う熨斗昆布を持って出て来た。(出陣を祝う)盃を取り交わして親と子が縁を結び、十次郎は小手や脛当て、鎧の一式で身構えて武装して、初菊と三々九度の夫婦の盃を取り交わす。とは言え、来世まで続く夫婦の縁は結んでも、親子一世の縁はこれで切れてしまうのだ。兜を深くかぶり、顔を敵に見せることを恐れない十次郎の、鍬形があたりにまぶしく光る装いには、爽やかだった人柄がよく現れていた。
 祖母は、「オオ、十次郎よ、あっぱれな武者ぶりで、勇ましい。戦場で高名や手柄を立てる様子を目の当たりに見るようだ。祝言と出陣を一緒に祝う盃を、サアサア、早く(済ませなさい)。めでたい。めでたい。お嫁さん」と喜べば喜ぶほどなお、ますます名残惜しくなる。初菊は「こんな立派な夫を持っているのに、これが別れの盃なのか」と思う悲しさを笑い顔で隠し、「できるだけお手柄を立てて高名を立てて、せめて今晩は勝ってお帰りください」と言い、それ以上は言えずに歯を食いしばる。初菊は、『荘子』に言う八千年を一春とする大椿のように末永く夫婦でありたいと思いながら、はかなく戦場に散る十次郎の運命を思うと、悲しさ辛さを堪えきれないのだ。そうした初菊の心情を思いやって察している十次郎も、涙を隠すのだが、それでもあふれる涙で、兜の緒をしぼりきれないぐらいに濡らしている。
 風が運んで来る陣太鼓の音は、人々のこうした悲しみを他所に吹き飛ばしてしまう。十次郎は気を取り直して立ち上がり、「皆さん、さらば」と言い捨てて、鎧の袖を濡らした涙も万感の思いも振り切って出陣し、どこへ行ったかわからなくなってしまった。
 初菊は「ああ、悲しいなあ」と泣きじゃくる。(光秀の)母皐月も(嫁)操も顔を見合わせて、「ばば様。」「お嫁さん。気の毒だなあ。惜しいことに、若者をむざむざ殺させるために戦場に送りました。ねえ、初菊。私の思いは、十次郎が討死する出陣と知りながら、ここで中途半端に出陣を留めて、主君を殺したという辛い死に恥をさらさせるよりも、健気に戦って討死させるためだったのです。祝言にかこつけて盃事をしたのは、第一には別れの挨拶であり、二つ目に、あなたに十次郎と夫婦の固めの盃事をしなかったという心残りを残さないようにとのことで、思い余っての三々九度なのです。この婆の心のせつなさを推量してください」と言って、(主君を殺し、天に背いた武智の一族は潔く滅びるしかないという)老母の義にかなった節操を初めて明かしたののであった。それを聞いた初菊も十次郎の母親操も、一遍にどっと転げ回って前後もわからないほどに泣き叫んだ。
 襖を押し開いて、以前の旅僧が何気なくつかつかと出て来て、「コレコレ、御老女。風呂の湯が沸きました。どうぞお入りください」と言うので、こちらでは皐月が泣き顔を隠して、「ああ、それは御苦労なことですが、年寄りに沸かしたての湯は毒です。残っているのは若い女性ばかり。まあ、お先に御出家からお入りください。」と答える。旅僧も「なるほど。湯は遠慮し合っていると水になってしまうと言います。それならば遠慮なく、お先に入らせていただきます」と言って立ち上がるので、皐月と操・初菊の三人は涙を押し包んで、奥の仏間と湯殿口に別れて入って行った。
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2008年05月28日

伊達大夫を偲ぶ

 今日はまだ残業中。時間割の仕事は時間と根気が要ります。教員は残業代をもらっているわけではありませんから、この辺でちょっと一息入れましょう。
 仕事をしながら、越路大夫と清治の『義経千本桜』「鮓屋の段」を聴いていて、ふと気付いたこと。それは、伊達大夫が亡くなったと聞いて、先日書いた追悼文でまだ書い足りないと感じていた「何か」なのかもしれません。
 昭和末年から文楽を見ている私にとって、4世竹本越路大夫は、もう誰も越えることの出来ない名人なのですが、引退があまりに潔かったこともあり、私は2年間くらいしか聴いていません。その頃は、文楽の東京公演があると、特に昭和63年からは、週末は毎日のように国立小劇場に通って、「封印切」(昭和63年2月)「十種香」(同5月)「神崎揚屋」(同9月)「桜丸切腹」(平成元年9月)はいずれも5回くらいずつ聴きました。それと「妙心寺」(昭和62年5月)、「酒屋」(同9月)、「堀川猿回し」(昭和63年11月京都公演)、「壺坂」(昭和64年正月)、「桜丸切腹」(平成元年4月)のおそらく計25回くらいが私の生での「越路大夫体験」の全てです。もちろん、レコードやテープ、VTRで、幾度となく聴いてきました。私が見た最高の文楽は、今のところ平成元年5月公演の千秋楽で、これは、おそらくそう簡単に越えるものが出ないであろう記念碑的な舞台です。私が生で知る最高の大夫が越路大夫であることは、動きようがありません。
 でも、5代竹本伊達大夫の死は、とても悲しく、ある意味で越路大夫の死以上に名残惜しく残念なのです。越路大夫を聴いた25回のうち、「桜丸切腹」の6回は伊達大夫と団七の「茶筅酒」を聴き、「神崎揚屋」の5回のうちおそらく4回は伊達大夫の「辻法印」を聴きました。また、あの頃は、東京の12月公演の鑑賞教室は伊達大夫と十九大夫の交互出演だったので、伊達大夫で「野崎村」「壺坂」「俊寛」などを聴いて、以来20年以上、彼の語る浄瑠璃を聴き続けて来ました。文楽公演は長いので、昼夜通しで見る時には、途中を抜いたりしたこともありますが、伊達大夫の舞台はほとんど聴いて来たと思います。思い出すものとしては「判官切腹」「芝六忠義」「岡崎」アトなど。
 伊達大夫を惜しむ私の気持ちは、伊達大夫を(伊達路大夫時代から)聴き続けて来た「共感と時間の掛け算」から成り立っているように思います。そして、それは、名人の至芸とは別な意味で、重みのある時間として私の記憶に残っています。
 人間の声というものは、どんな楽器よりも特徴のある音色(=発声)とその人その人の言葉の発音を持っています。人形遣いの方が亡くなっても寂しいのですが、大夫さんが亡くなった時の特別な悲しさというのは、そのあたりに理由があるのでしょう。
 残った大夫の皆さんが、これからの舞台で、心に残る浄瑠璃を語ってくださることを願いつつ、今晩は内子座で語った「太十」を聴いて、伊達大夫を偲びたいと思います。
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2008年05月27日

追悼 5代 竹本伊達大夫

 闘病中だった竹本伊達大夫さんが亡くなった。夏の大阪での文楽公演での舞台復帰を目指しておられただけに、さぞ無念だったと思う。
 私が聴いた舞台で特に印象に残っているのは、まず襲名の際の「吃又」。これは、題材の関係上、襲名興行なのにテレビ放送がなかったのが残念だ。又平が死を覚悟し、思いつめた一心で自画像を描く場面で、技術偏重ではない、けっして起用ではない伊達大夫さんの語り口がぴったりと合っていたことが思い出される。
 時代物のチャリ場に味があった。『ひらかな盛衰記』「辻法印の段」(昭和63年9月)では、国立小劇場の客席で思わず噴き出してしまった。越路大夫引退の時(平成元年4・5月)の『菅原伝授手習鑑』では「茶筅酒」が絶品。笑いだけでなく、ほのぼのとした田舎の家庭の幸せなひと時が点描されていて、後の「桜丸切腹」の悲劇と見事な対照をなしていた。
 最近では7世鶴澤寛治襲名の折の『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷」、そして、昨年秋のNHK芸能花舞台では『仮名手本忠臣蔵』6段目「勘平腹切」と今年2月に放送された『曾根崎心中』「生玉社前」。
 誰もが認める難声で、特に語り出しでは声が滑らかに出なかったのも伊達大夫の「味」の一つだった。脚光を浴びることは多くなかったが、山城少掾系ではない古風な味は、今後誰も真似の出来ないものだった。ぜひ切場語りになって、竹本相生大夫さんが亡くなった後に引き取って育ててきた相子大夫さんが白湯汲みをする舞台を聴きたかった。心から御冥福をお祈りしたい。
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2008年05月14日

4月文楽 『競伊勢物語』

 4月20日、大阪、国立文楽劇場に日帰りで4月文楽を見に行く。東京では見る機会の少ない時代物に集中したかったので、昼の前半『日吉丸稚桜』「駒木山城中の段」を幕見で見て、しばらく市内を散策。その後、夜の部の『競伊勢物語』を床に近い席で十分に堪能した。
 『競伊勢物語』三段目の「玉水淵の段」「春日村の段」は、私が文楽を見始めたばかりの昭和62年に国立劇場で上演(この時は、先代燕三が怪我で休演で、鶴澤燕二郎=現燕三が代役で住大夫を弾いていた)されて以来だから、実に21年ぶりの上演だ。惟喬親王・惟仁親王の御位争いの世界で、紀有常が、実の娘信夫とその夫の豆四郎を井筒姫・在原業平の身替りとして討つ苦衷が主題に据えられている。春日村の段は、約2時間の長丁場だが、立端場の「はったい茶」に独特の世話の味わいがあり、切場の後半、信夫が弾く琴に養母小よしが砧を打って合奏する場面が、見る者の涙を誘う。
 竹本住大夫は、1時間20分の切場を、体力的な破綻を見せずに語り切った。また、田舎住まいの小よしの素朴な人物造形は、住大夫の語り口に合っていると感じた。現役で「春日村」を語っている大夫は住大夫だけだと聞いて、私は、もしやこの作品は先代住大夫から伝承したものかもしれないと思ったほどだ。実際には、戦後、豊竹山城少掾と先代竹本綱大夫が1回ずつ語っており、以後は住大夫が語り伝えているというものだった。
 豊竹咲甫大夫と野澤喜一朗の「袖売り」に続いて千歳大夫・富助の「はったい茶」。今日、はったい粉というのは和菓子の原料などに使われているが、それを湯に混ぜて飲むという習慣はほとんどない。大麦を煎って粉に挽いたはったい粉は、水溶性ではないから、湯に入れて一口すすり、有常と小よしが昔話に興じている間に、湯呑の底に沈殿しているはずだ。それを再びかき混ぜて飲む。そんな様子が「『祥月命日仏果菩提』念仏とともに掻立て掻立て一口飲んで」と、具体的に描かれている。千歳大夫もよく語っていた。今年に入ってから、竹本千歳大夫を豊澤富助が弾くようになったが、この組み合わせは、思いのほかいいように思う。富助は、十九大夫や咲大夫を弾いていた時ほどバリバリとは弾かず、千歳大夫の声を潰さないように立てながら弾いている。音量以上に間合いの面でそれを感じる。その結果、鶴澤清治が千歳大夫を弾いていた時に比べて、余裕をもって語れている分、技巧が前面に出なくなった。
 「いづれ馴染も長袴踏みしだき、奥の」で有常が実の娘信夫を井筒姫の身替りにしようという苦衷を腹に込めながら上手に引っ込み、床が回る。ここで、紀有常が、上手の障子に入る前に首を右に動かして思い入れを見せるのが型だが、吉田玉女の遣う有常は、前を向いて歩いていたのと同じ角度のまま客席の方を一瞥。これでは軽い。首をもっと下に向けるべきである。調べてみると、昭和62年当時は、玉女は鉦の鐃八役を遣っていて、玉男の遣った有常の左は遣っていない。玉男の左を遣った役とそうでない役で出来に差が出るのは当然と言えば当然だろうが、その差を感じさせない玉女であってほしい。
 さて、床が回って「√一間へ入相の鐘は無常を告げ渡る」から切場で竹本住大夫と野澤錦糸。
 『伊勢物語』23段、通称「筒井筒」に描かれる男と女は匿名で、業平の名前すら出て来ない。だが、これが在原業平と紀有常の娘であるという理解は、鎌倉時代の『伊勢物語』古注から能「井筒」を経て、近世では「常識」と化していた。とは言え、下級貴族である紀氏の有常が、登場する際に「さすが雲井に名も高き昔芳し今はまた武家の作法も紀有常」と紹介されるように「元は陸奥の百姓でありながら、出世して、今では大身の武士になっている」という設定されているのは、近世演劇特有の大胆な創作である。
 紀有常は、春日村の小よしが育てた実の娘信夫を「斎宮代」にするためと称して再び自分の手元に引き取るが、実際には井筒姫の身替りにするために首を討つ。信夫は、首を討たれる前に、夫豆四郎に一目会いたいと言い、最後の対面をする。そこに、事情を知らない養母小よしも姿を現す段切近く、「かくとも知らず母小よし、徳利片手にいそいそと『ヤレヤレ待遠にござりましよ、信夫はそこにゐやるか』と立寄る母親。有常が縁の中垣隔つる衝立。『アヽイヤ老母、縁切つたれば地下(ぢげ)の其方、斎宮に備はる信夫、平人は官位の恐れ、直の対面なり難し』」は、先述したように、見る者の涙を誘う。有常は、「官位の恐れ」つまり身分の違いを言い立て、衝立を間に隔て、信夫と小よしを直接に対面させない。多くの観客は、有常のこの言葉を聴いて、男女の別を越えて、身分の低い小よしの側にぐっと共感を寄せる。とりわけ江戸時代の観客は、現代の観客以上にこうした表現に引きつけられたに違いない。こうした筋の展開には、『仮名手本忠臣蔵』七段目の寺岡平右衛門の「小身者の悲しさは…」などと同様に、浄瑠璃や歌舞伎が庶民の娯楽だった近世演劇の独特の味わいがある。そして、住大夫は、こうした庶民的な情感の表現においては、歴代の名人以上に上手い。山城少掾や越路大夫の薫陶を受けた語りの技術と、住大夫自身の持つ庶民性が無理なく一つに融合されているからだ。「春日村」の一段が住大夫によって語り継がれたことの意義がしみじみ実感される瞬間だった。
 『競伊勢物語』は、歌舞伎で初演され、後から人形浄瑠璃にも取り入れられた作品だが、浄瑠璃化に際して、歌舞伎そのままではなく先行作品を下敷きにした表現が取り入れられているのも、当時の作者の工夫である。それは、独創性を旨とする小説ならば一流の工夫とは言えないが、劇場で上演される演劇の場合には首肯されてしかるべきだろう。安永期という浄瑠璃史の後期に位置する作品ならではの妙味と言ってもよい。例えば、「業と業との寄合ひ」という表現は、作者も、節付けをした初演当時の三味線弾きも『仮名手本忠臣蔵』九段目の「鳥類でさへ子を思ふに。科もない子を手にかけるは。因果と因果の寄合ひと…」を下敷きにしている。
 人形陣には、足りない点もあった。例えば吉田玉英の遣う娘信夫に幾分のもどかしさを覚えた。玉英自身が豆四郎を見つめていて、信夫の人形の視線がうまく豆四郎に向かなかったからである。とは言え、多くの人形遣いが「春日村」を体験し、この作品が素浄瑠璃だけではなく文楽で残せることの意義が大きいことをまず第一に喜びたい。
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2008年02月23日

文楽『義経千本桜』四段目

 2月の国立小劇場の文楽公演第3部を16日(土)に見た。ネット上での好評を聞き及んでいたが、予想以上の、近来稀に見る水準の舞台に仕上がっていた。
 なんと言っても、桐竹勘十郎の狐忠信がすばらしい。まず、「道行初音旅」での狐忠信のリズム感の良さが光る。足拍子も爽快。足遣いに踏ませるものとは言え、師匠の主遣いが良くないと活きないものだ。とりわけ「思ひぞ出づる壇ノ浦の…」以下、「錣引」のくだりでの動きが良く、義太夫節の中に取り込まれた謡がかりの曲節が、一種の「ノリ」としての効果を持っていることが人形を通して視覚的にも実感できた。また、狐特有の歩かずに体や足を左右に高く上げる遣い方の時に、忠信の人形の位置が高く、躍動感があるのも勘十郎の忠信の特徴だろう。
 この役は、長い間、先月亡くなった吉田文吾が持ち役にしていたが、勘十郎は、「河連館の段」の演出にも新しい工夫を施している。特に、最後の宙乗りで、舞台をセリ下げて、満開の桜の中を空高く飛ぶ狐忠信を表現した段切りは感動的だ。「河連館」と言えば、歌舞伎で市川猿之助が宙乗りを復活させ、幾度も演じたことを誰もが思い出す。文楽の宙乗りは、歌舞伎に比べると「たいしたことはない」と思われがちだったが、背景を変えて観客の想像力を地上ではなく空高くに導いたことで、文楽の宙乗りにも新しい魅力を創り出すことができた。
 音楽面も水準以上。「道行初音旅」は、静と忠信、豊竹呂勢大夫と豊竹咲甫大夫が、ともに高音を張ることが出来て、一定の範囲内で2人の力量の釣り合いが保てている点が良い。鶴澤清治の三味線はいい音を聴かせてくれるが、大夫の声ではなく三味線の音が前面に聴こえて来る点に違和感がある。ふと気付いたのだが、この違和感は、小澤征爾の指揮するオペラを聴く時の違和感と似ている。小澤の指揮した『コジ・ファン・トゥッテ』などで、歌が終わるとまるで交響曲のように立派にオーケストラが鳴る時に、「指揮者はオペラの主役ではない」と首を傾げる時のそれと同じものだ。
 「河連館」の端場、通称「八幡山崎」は竹本津駒大夫と鶴澤寛治。寛治は、ここのところ道行や景事などでの舞台が多かったので、寛治の三味線で義太夫節をしっかり聴いたのは久しぶりと言う印象。津駒大夫は、静の心情を語るというこの端場での最も大切な役割を十分に果たしていたと思う。奥は豊竹咲大夫と鶴澤燕三。咲大夫の「河連館」は何度か聴いているが、今回が一番よい。狐詞など、この段を語る上でこなさねばならない部分に余裕があり、力づくにならずに語れているからだ。燕三の三味線が、詞の裏でしっかり弾かねばならないところ、例えば「オヽ我とても生類の、恩愛の節義身にせまる。」以下の義経の述懐のくだり(狐忠信が一旦姿を消して鼓が鳴らなくなった場面)で充実していることもあろう。
 文楽について書いていると過去形の記述が多くなりがちだが、現在の舞台に魅力があることが現代に生きる古典芸能にとっては不可欠の条件。今回の勘十郎の舞台には、心から拍手を送りたい。
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2008年02月17日

2月10日(日)文楽『壷坂観音霊験記』

 勤務校の入試も、この日で一段落。この日は昼過ぎに仕事が終わるはずだったけれど、意外に時間がかかり、あらかじめチケットを買っておいた文楽第2部は、「中将姫雪責」を聴き損ない、『壷坂観音霊験記』だけを鑑賞した。
 住大夫・錦糸の沢市内の段は、悪かろうはずもないが、率直に行って、住大夫の語りの力が落ちて来ていることも否めない。単に声量の問題や甲の声が伸びない・出ないということだけでない。竹本住大夫の長所であり、先代6世竹本住大夫(もちろん私は録音でしか聴いたことがないが)から受け継いだ持ち味である詞での「口捌きの良さ」が影を潜めてきている点が気にかかる。
 正月の「新口村」を聴いた時には、こうは感じなかった。あるいは、正月は初日に聴いたから疲れていなかったのだろうか。住大夫には、今後の文楽のためにもどうしても長生きをしていただきたい。それだけに、ファンとしては、舞台で無理をしてほしくないと思うのだ。80代も半ばの住大夫は、毎日舞台で、切場を語るには酷な年代にさしかかっている。歌舞伎の名優や人形遣いの立物なら、脇に回って芝居に花を添えることも出来るだろうが、大夫のシステムはそうはなっていないだけに、自身を大切にしてほしい。
 後半、山の段は、伊達大夫休演で竹本千歳大夫と鶴澤清介。千歳大夫の語りは、身を投げる前の沢市の思い詰めた様子や、観音の利益で生き返り、目が開いた沢市の喜びをよく表現しているが、全体の流れが今一つ。『壷坂』という作品は、ある意味で無駄なく書かれており、出来過ぎた物語であるだけに、部分部分を語り込む真摯さだけではなく、全体のバランス感覚が要求される。それだけに、数少ない「遊び」の部分である参詣途上の沢市が口三味線で歌う場面などで、もう一段しっとりとした味わいが求められるということだと思う。
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2008年01月31日

祝 5代 豊松清十郎襲名

 文楽の人形遣い、吉田清之助さんが、入門当初の師匠の名跡、豊松清十郎を5代目として襲名なさることが発表された。いつかは師の名を継ぐ方だと期待していたので、心からお慶び申し上げたい。
 私は、先代の清十郎の芸には映像を通してしか接していないが、感情をほとばしらせるのではなく、ぐっと溜めて遣うことのできる方だったと思う。そして清之助も、そうした芸風を受け継いでいるように思う。師の名を継いで、ますます立派な人形遣いになっていただきたい。
 一部報道にもあるように、清十郎さんの襲名は、豊松姓の20年ぶりの復活をも意味する。現在ある人形遣いの姓、吉田・桐竹は、いずれも竹本座系の姓。豊竹座には豊松・若竹などの姓があった。大夫で言えば、豊竹姓の大夫が誰もいない状態が20年以上続いていたのだ。竹本座・豊竹座双方の作品や芸脈は、文楽にとって車の両輪のようなもの。豊竹座の人形遣いの姓が復活するという意味でも、とても喜ばしいことだと思う。
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