2011年10月24日

山本順之の会 特別公演

10月22日(土) 13:30開演 宝生能楽堂

能(観世流)「姥捨」
シテ(老女):山本順之
ワキ:宝生閑
ワキツレ:宝生欣也・大日方寛
アイ:野村万作
笛:一噌仙幸
小鼓:大倉源次郎
大鼓:柿原崇志
太鼓:小寺佐七
地謡:観世銕之丞・浅見真州・浅井文義・清水寛二・西村高夫・柴田稔・馬野正基・浅見慈一
後見:観世清和・野村四郎・山本章弘

 半年ぶりの能。24日から修学旅行の引率を控えていて、授業終了後すぐには学校を出ることが出来なかったため、当初から諦めていた仕舞や狂言(「萩大名」野村萬斎)はおろか、前場も見られなかった。水道橋の能舞台に着いたのが15時15分を過ぎた頃で、ちょうどシテが中入りしていた。程なく囃子方が着座する所で見所に入り、万作のアイ語りから拝見した。

 四半世紀にわたって舞台に接して来た山本順之の「姥捨」の披きだから、何としても見たかったが、上記の事情で前場を見られず、シテとワキの謡に接する場面が極端に少なくなってしまった。だが、

 ちょうど前夜から天候が悪く、湿度が高かったため、大鼓や太鼓は大変だっただろう。柿原崇志の大鼓は、後場が始まる前ではなくクセの直前に後見に替えの鼓を持って来させて鼓を替えていたが、これなども湿度対策の苦労の一つであろう。クセの後半、シテの謡「迦陵頻伽のたぐひなき」の後の地謡「声をたぐへて諸共に。」での大鼓の打ち込みは見事だった。それにしても「姥捨」のクセは、何度聴いてもいい曲だが、何度聴いても捉えどころがない不思議さも感じる。

 左・右・左とゆったりと序を踏んで、序ノ舞は20分ほどだっただろうか。曲を聴きながら、8世銕之丞や宝生の近藤乾之助の「姥捨」などを思い出すが、猫背気味のカマエだった先代銕之丞や、体が左に傾いでしまう傾向のある乾之助と違って、体がぶれず、立ち姿の美しさが鮮やかな印象を与えてくれる。乾之助の場合には辛うじて支えられた身体の絶妙のバランスが記憶に残るが、この端正さは得難いものだと思う。
 
 2段目の途中で大小前に座って、左手に持った扇に映る月に照らされる体の老女の面が実に美しい。左に視線を送って一度は扇を見るが、その後、端座した老女が扇に反射する光に面を照らされている姿が言葉には言い尽くせない趣をたたえていた。脇正面の中正面寄りで拝見していたので、この型の直前の目付け柱のやや脇正面寄りを見込んで歩むハコビと面の美しさも脳裡に刻まれた。
 「姥捨」は幾度か見ているが、今回は、ちょうど午前中の授業で、『徒然草』137段を含む中間試験を高1の生徒に返却した直後だったので、座ったシテの扇を介して月に照らされる姿を見ながら、「月は隈なきをのみ見るものかは。」という兼好の言葉を思い出す。兼好はまた、「よそながら見る」ことの味わいをも説いている。兼好はおそらく能楽を見ていないが、美意識は同じところにあると実感した。

 「我が心慰めかねつ…」以下の和歌の謡の後、留めの直前の「独り捨てられて老女が」のシテの謡は絶品。老女の情感と謡の品格とが高次元で一つに結晶していた。ワキが退場して、1人後に残される老女の孤独感が、この謡でさらに引き立った。

 遅刻者は本来舞台を語る資格がないが、それを承知の上で、書きのこしておきたい。
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2011年05月27日

銕仙会青山能「雲林院」

5月25日 銕仙会青山能

能「雲林院」
シテ(尉・在原業平の霊):山本順之
ワキ(蘆屋公光):森 常好
ワキツレ(従者):舘田善博
同(従者):森常太郎
アイ(北山辺の者):遠藤博義
笛:一噌隆之
小鼓:大倉源次郎
大鼓:柿原弘和
太鼓:観世元伯
地頭:野村四郎、地謡:小早川修・柴田稔・長山桂三・谷本健吾・安藤貴康
後見:西村高夫・浅見慈一

 何でもそうだが、能の舞台は、遠ざかってしまうと見ないままになってしまうが、きっかけがあって見ると、また見たくなるものだ。この日はTBSの落語研究会と銕仙会の青山能が重なっていて、柳家権太楼の「禁酒番屋」や入船亭扇辰の「三方一両損」など、落語にも心を惹かれたのだが、そちらは行ってくださる方が見つかったので、能に出かけた。今月3度目の観能である。とは言え、退勤前にちょっとした問題発生で、青山の銕仙会に到着したのはちょうど19時頃。狂言が終わり、能が始まって、ワキとワキツレが舞台に登場して、まさに第一声を発したところだった。
 個人的に、これまで「雲林院」という能はそれほど重ねては見て来なかった。たぶん現行の「雲林院」を見るのは2度目か3度目だと思う。劇的な作品ではないこともあって、他のジャンルの公演と日程を調整する時には、後回しにしてしまうことが多かったからだと思う。だが、年をとったせいか、「雲林院」のような作品を、そのシンプルな作りゆえに面白いと感じるようになった。前場は大半がシテとワキとの問答、後場は、シテが登場してクリ、サシ、クセ、序ノ舞と、余分なものが全くない。
 結局、「雲林院」を楽しむ上で一番大きいのは、『伊勢物語』に対する思いを舞台上の登場人物たちと共有できるかということではなかろうか。「井筒」や「小塩」など『伊勢物語』の世界の能に親しむのもよいが、もちろん『伊勢物語』そのものを読んでもよいし、『伊勢物語』を題材とした美術を楽しんでもよい。そうした『伊勢物語』体験の総和が、この能を楽しむ想像力となって自分の中に蓄積されていることを感じる。つい最近も、伝俵屋宗達の『伊勢物語』27段の絵をサントリー美術館で見たばかりだったが、そうしたことが、在原業平の霊がこの世に姿を現し、序ノ舞を舞うという「雲林院」の趣向を楽しむ原動力になっている。舞台を見ながら、まず「雲林院」を楽しめる自分が今ここにいて良かったと感じる。
 さて、この日の舞台、謡のしっかりしたシテとワキが噛み合い、前場は申し分ない。前場の面白さの一つは、古歌を散りばめた問答にある。「柳桜をこきまぜて」という素性法師の歌を謡で聴きながら、私は、この春、京都の平安神宮で見た桜を思い起こしていた。舞台上の桜の作り物が、作品の世界と個人の世界とを交錯させる手がかりとして、実に大きな役割を果たしていると実感する。地謡も、地頭の野村四郎のやや高く聴こえる声質が、この日は艶として感じられ、テンションが適切にコントロールされていたように思う。
 後シテ、舞グセの後半で、時計回りに回りながら常座に決まった時の姿の美しさが目に残る。小柄な山本順之の、かつて面が打たれた時代の日本人と共通する体型から生まれるバランスの良さと、強すぎず、弱すぎずの体のひねりが、この世に現れた業平の姿として、濃厚な存在感を感じさせてくれた。序ノ舞も、端正な姿とハコビで見事。しっかりとした足拍子に次いで踏む序や、常座から歩み始める足のハコビで、白い足袋が目に残った。その舞の前半だが、一噌隆之の笛の音には流れが不足しているように思われた。脇正面側の入口近くから見ていた私の印象に残ったのは、三段に舞う二段目、扇を左に持ち右袖を高く掲げて、太鼓の刻みに乗って常座から動くあたりでの姿である。左右非対称の形がかなり長い時間ぴたりと決まっていた。
 面は前シテが笑尉(河内作)、後シテが中将(大和作)。
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2011年05月23日

銕仙会5月例会(善知鳥と杜若)

銕仙会 2011年5月例会

5月13日(金) 18時 宝生能楽堂

能「善知鳥」
シテ(尉・猟師):野村四郎
ツレ(猟師ノ妻):浅見慈一
子方(千代童):長山凛三
ワキ:宝生欣哉
アイ:大蔵千太郎
笛:一噌仙幸
小鼓:観世新九郎
大鼓:柿原崇志
地頭:観世銕之丞
地謡:浅井文義・長山禮三郎・岡田麗史・小早川修・北浪貴裕・野村昌司・安藤貴康

狂言「呂蓮」
シテ(出家):大蔵弥太郎
アド(男):大蔵基誠
アド(妻):榎本 元

能「杜若」
シテ:谷本健吾
ワキ:則久英志
笛:松田弘之
小鼓:古賀裕己
大鼓:原岡一之
太鼓:小寺眞佐人
地頭:清水寛二
地謡:西村高夫・柴田稔・馬野正基・長山桂三・安藤貴康・青木健一・観世淳夫

 この日は、首都圏の各大学の入試説明会が集中。私も某大学の説明会に出張した後、「直帰」扱いで学校に戻らず、そのおかげで、久しぶりに銕仙会の例会を最初から(18時開演)観ることが出来た。
 野村四郎の「善知鳥」は、テンションの高さが生きた劇的な舞台だった。
 前場の舞台は越中立山。前シテの尉は、形見の片袖を僧に託しただけですぐに引っ込んでしまうが、シテの第一声、僧を呼び止める「のうのう御僧」から、どこか奥深い、暗い所から発せられた呼び声という雰囲気が漂う。片袖を引きちぎる瞬間は、音もなく、そこに現世と来世とが接点を持つどこか不思議な空気が感じられた。
 後場は陸奥外が浜(外の浜)。現在の津軽半島東部、陸奥湾に面した地域だという。後シテが現れ、我が子千代童に近寄るが、我が子を抱きしめることは出来ず悲嘆に暮れる場面、「(シテ)千代童が髪を掻き撫でて。あらなつかしやと言はんとすれば(地謡)√横障の。雲の隔てか悲しやな。」ひたひたと子方に近寄るシテの動きに迫力があった。来世の者には現世が見えるけれど、現世の者の目には来世から現れた亡霊が見えない。その悲しみからエキセントリックになるシテの姿が、よく描かれていた。
この能の眼目とも言えるカケリでは、1回目は正面に鳥を追い、惜しい所で逃す体。2回目は一ノ松で、大きな「空振り」と言ったところだろうか。逃げる鳥を脇正面の見所の方へと目で追う。ここで「スイッチが入って」我を忘れて鳥を追いかけ、3回目は目付柱の近くに鳥を追い詰めて仕留める。その3回目の長さ、執拗に鳥を追い詰めてしまう男の執念がひしひしと伝わって来る。8世銕之丞は、「善知鳥」について、「(殺生の罪を)わかっちゃいるけれどやめられない、そういう男の性(さが)が描かれた作品」と語っておられたが、野村四郎のシテで久しぶりに観て、このカケリの後半で、そうした芸談を思い出した。型は違えども、作品の本質は変わらない。
続くノリ地の場面での地獄の苦しみの描写にも説得力を感じた。それは、物真似を基本とするこの場面に至るまでに、後シテの人物像を十分に見せてくれていたからであろう。観世新九郎の小鼓は、音は悪くないが、掛け声にさらに一歩踏み込んだ声と気合を臨みたいと思った。柿原崇志の大鼓が気迫あふれる好演。面は前シテが木賊尉(とくさじょう)、後シテが痩男(近江作)とのこと。

 狂言「呂蓮」も、特段ではないが行き届いた舞台。大蔵流宗家周辺は、人気でちやほやされない分、じっくりと芸を磨いているように思う。

 二曲目の能は「杜若」。シテ谷本健吾ほか、「善知鳥」よりも全てが一世代若い舞台。銕仙会の若手が大勢いる中で、なぜか谷本の舞台には接している。その谷本、構えは全体的には良いのだが、左半身の開きがやや早くなる癖があるようだ。そうした癖を直して、さらに端正な芸を見せられるように成長してほしい。「杜若」は物着(ものぎ)が重要な要素になっている曲。シテにとっても、後見(浅見慈一・鵜澤光)にとっても緊張する場面。これはしっかりとこなしていた。また、「袖を都に返さばや」に続くイロエは、高揚感があった。
 「杜若」という曲の味わいの一つが、漢語をあまり含まない柔らかな文体にあるということも、「善知鳥」との対比から実感させてもらった。面は若女(古元休作。)
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2011年05月05日

能と素浄瑠璃の「俊寛」

第11回 青葉乃会
  能と素浄瑠璃――謡と語りを探る――第2弾
5月4日(祝) 14時 銕仙会能楽研修所
能「俊寛」
シテ(俊寛):柴田稔 
ツレ(平判官入道康頼):長山桂三
ツレ(丹波少将成経):谷本健吾
ワキ(赦免使):工藤和哉
アイ(船頭):野村万蔵
笛:一噌隆之 小鼓:幸正昭 大鼓:国川純
地謡:観世銕之丞・浅井文義・西村高夫・小早川修・浅見慈一・安藤貴康
後見:山本順之・清水寛二
(休憩)
お話し 笠井賢一
義太夫節『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」
浄瑠璃:豊竹英大夫 三味線:鶴澤清介

 銕仙会の柴田稔さんが主催する青葉乃会、今回は柴田さんがシテを演じる「俊寛」と、私もお稽古をつけていただいている英大夫師の語る素浄瑠璃とのジョイント公演。出演者もよく存じ上げている方ばかりで、これは馳せ参じないわけには行かない。連休中日だが、京都から新幹線に乗って、青山の銕仙会に直行する。到着すると銕仙会の舞台は既に超満員。なんとか脇正面にスペースを見つけて座った。

手応えのあった能「俊寛」

 前半は能「俊寛」。赦免使とアイの船頭とのやり取りの後、「次第」の囃子でツレの康頼・成経が登場。長山桂三、谷本健吾、2人とも頑張っていたが、謡は長山の声がしっかりと通り、カマエは谷本が良かった(特に地謡前で静止している時)ように思う。その後、「一声」でシテの俊寛が登場。ツレの2人が「二人が果てにて候ふなり」と謡い、シテが「(シテ)後の世を待たで鬼界が島守りと(地謡)なる身の果ての」と謡う。能「俊寛」の登場人物たちは、「果て」という零落の感覚を強く持っていることが謡を通して響いて来る。
 ここで「(地謡)なる身の果ての暗きより(シテ)暗き道にぞ入りにける」と続き、和泉式部の有名な歌が引かれる。この引用には、ちょっと唐突ではと感じる。能「俊寛」の作者は誰なのだろうか?この時、私が感じたのは、同じ歌を引用する「鵺」よりも「俊寛」の方が後から作られたのではないかということ。直感だけで根拠はないが、「俊寛」の作者は「鵺」を知りつつ同じ歌を引用してみたが、「鵺」ほどに上手い引歌にはならなかったのではないかと思った。
 さて、3人が酒に見立てた水を酌み交わしながら都にいた昔を懐かしんでいると赦免使が再び登場。三人のうち俊寛だけが赦されないという展開になる。通常の能は「クリ」「サシ」「クセ」と続くが、「俊寛」は「クドキグリ」「クドキ」とシテが謡で嘆き続けて、地謡の「クセ」へ。「時を感じては花も涙を☆(そそ)ぎ 別れを恨みては鳥も心を動かせり(☆にはサンズイに「賤」という字。PC上では出てもWeb上では出ないため)」は、俊寛1人を島に残す人間の非情さを浮かび上がらせる。この日の銕仙会の地謡は6人だが、顔ぶれも揃って、全体に深い響きで詞章を客席に伝えてくれていた。欲を言えば、地頭の観世銕之丞の声にさらに包容力と息の豊かさが望まれたが。さらに「もとよりもこの島は 鬼界が島と聞くなれば 鬼ある所にて 今生よりの冥途なり たとひいかなる鬼なりと このあはれなどか知らざらん」と続く。柴田稔のシテも、ここは地謡の声を身に浴びつつ、舞台中央で力を溜めている箇所。さらに進んでシテの謡「せめて思ひのあまりにや」の後、「先に読みたる巻物を また引き開き同じ跡を 繰り返し繰り返し 見れども見れども ただ成経康頼と 書きたるその名ばかりなり もしも礼紙にやあるらんと 巻き返して見れども 僧都とも俊寛とも 書ける文字はさらになし ここは夢かさても夢ならば 覚めよ覚めよと現なき 俊寛が有様を 見ることあはれなりけれ」では、赦免状(実際には白紙)を巻き返すなどの様々な仕種が演ぜられるが、シテの柴田は型に沿って適切に演技し、地謡と囃子方が俊寛の激情を十分に表現していた。特に良かったのは大鼓の国川純。「鬼界が島と聞くなれば」の後など、的確に打ち込んで、地謡と拮抗し、動かない(動けない)シテを支える音楽的な空間を創り出していた。
 赦免使が「かくて時刻移るなり」と康頼と成経を船に乗せ、俊寛を追い払って船を出そうとする。俊寛は康頼の袖にすがり着く。さらには纜に取りつけば、赦免使は纜を押し切って船を出す。この場面は、ワキの謡に手強さが欠かせない箇所。工藤和哉のワキは十分にそれを見せていた。私が思うに、この二つの演技の間の「うたてやな 公の私といふ事のあれば せめては向かひの地までなりとも…」の謡には、もっとシテの感情が籠められても良かったのではないか。クセの前半ではシテが「この島の鳥獣も 鳴くはわれを訪ふやらん」と一人称で嘆いていた。クセの後半は「俊寛が有様を 見ることあはれなりけれ」のように第三者の語り手の視点で俊寛を描く。ところが、この場面では、俊寛は、自分の境遇ではなく赦免使たちの非情な振る舞いを「うたてやな」と非難する。「公の私」というのは、自身の境遇を嘆くだけでは事態が変わらない中で、俊寛が自身から絞り出すことの出来た精一杯の訴えの言葉なのだ。こういう場面の謡に真実味があるかどうか、歴史上の人物に対するシテの想像力がどれだけ働き、どこまで表現できているかが、今回の柴田稔の「俊寛」の課題ではなかっただろうか。もう一点、「もとの渚にひれ伏して 松浦佐用姫も わが身にはよも増さじと 声も惜しまず泣き居たり」でモロジオリ(両手を目の前に持って来て泣く仕種)の後、最後に立ち上がる時にどんな心持ちで立つのか、今度は赦免使ではなく康頼や成経に対してのシテの最後の謡「頼むぞよ頼もしくて」をどんな心持ちで謡うのかが十分に伝わって来なかったように思う。

近松の作劇の特徴が明確になった「鬼界が島の段」 

 後半は義太夫節の「鬼界ヶ島の段」。これは、能「俊寛」のクセの謡から始まる。「もとよりもこの島は」通常、義太夫節の語りは三味線の「三重」または「ヲクリ」から始まるので、大夫は三味線弾きに場の雰囲気を作ってもらってから語り出すが、この「俊寛」は、いきなり大夫1人で始めなければならない。床本からどれだけの世界を思い描き、それをどのような音遣いで表現するか、すべては大夫次第だ。しかし、この日の「俊寛」は、ごくごく日常的な気分のままに始まってしまったような印象を受けたのが残念だった。
 今回は、能を見た直後に聴くからだろう、聴きながら、近松の作劇の巧みさに改めて気付き、納得する点が多い。素浄瑠璃で人形が出ていなくても、つい先ほど、能で沙門姿の平判官康頼やそれよりも若い丹波少将成経を見た後だから、語りを聴いていて姿が目に浮かぶ。ただし、浄瑠璃では、三人が揃って間もなく懐旧ではなく成経と千鳥の祝言になる。その分、千鳥の話題になる前に、俊寛が康頼を見て思わず声をあげる「われもあの姿かや」などの詞章で零落の境遇を印象づけておくことが必要なのだろう。普段、文楽や歌舞伎の舞台では、ボロをまとった三人の姿で零落を意識していたことに気付く。繰り返しになるが、この曲では、冒頭部分は三味線の助けなしに、大夫が世界を創らなければならない。
 近松は、単に千鳥という女性を登場させるだけでなく、彼女をいつ、どのように舞台で動かすか、歌舞伎での経験なども活かして綿密に計算しているように思える。一旦、瀬尾が船出すると言って他の役が皆船に引っ込んだところで千鳥のクドキになる運びは、実に巧妙だ。
加えて、要所要所に印象深い詞章が散りばめられて、印象に残るし、語りも演技も整理されている。例えば、既にこのブログに書いたことがあるかもしれないが、「酒ぞと思ふ心が酒」の名文句。あるいは「思ひ切つても凡夫心」。俊寛役の人形遣いや役者にはいろいろな演技があり得るが、そこまでの絶望と、諦めきれずにもがく気持ちとの移り変わりがこの一言で見事に表現されている。
豊竹英大夫の浄瑠璃は、瀬尾が登場してから人物像が活き活きとして来た。また、千鳥のクドキは、声の良さも加わって良かった。鶴澤清介の三味線が常に的確。

 見て、聴いて、「もう一度、原点の『平家物語』から読み直したい」と思えたのは、会全体が充実していたからだろう。終演後の話題は、別の項に譲りたい。
posted by 英楽館主 at 18:16| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月31日

2010 惜別

 大晦日、テレビでは紅白歌合戦が始まっていて、新年まであと2時間ほど。毎年書いているクラシック音楽の回顧は新年に掲載してもいいと思うが、今年亡くなった方へのお別れは今年のうちに書いておきたい。能狂言の世界からお3方を取り上げる。
 お1人は、狂言方大蔵流の山本則直さん。私が能・狂言に親しみ始めた4半世紀前は、狂言を見ると言えば、和泉流では野村家の万之丞(現 萬)・万作・万之介3兄弟、大蔵流では山本家の東次郎・則直・則俊3兄弟の共演をしょっちゅう見ることが出来た。狂言の大曲には、演者3人のバランスを必要とするものが多い。その典型は「武悪」であろうか。いつしか野村3兄弟の共演は見られなくなり、流派などの好み以前に、3人が均等な力で真剣勝負の出来るのは、山本3兄弟をおいてほかなかった。公演評などでは時に厳しい私だが、それは、自らの芸に厳しい山本3兄弟のような方々の芸に日常的に接していればこそのことである。その一角、山本則直さんが、この4月に亡くなられた。若手が育って来ている山本家だが、もう3兄弟の共演が見られないと思うと寂しい。
 次に、有名な能楽師ではなかったかもしれないが、ここに書き記して記憶に留めておきたいのが、9月に急逝された観世流シテ方の若松健史さんだ。銕仙会でシテ方として活躍、また、近年は主に地謡で出演して来られた。どちらかと言えば理論に走りがちな方の多い銕仙会の中で、型にこだわり、古風なスタイルの能を見せてくださった。一世一代となった「姥捨」が平日昼間の公演で見られなかったのは今でも残念だ。大きく脚光を浴びることは少なかったが、素人の観客以上に、同業の玄人の方々から慕われた能楽師だった。私個人としては、もうだいぶ前のことだが、能「海士」のシテでの玉取りの段の舞台が特に目に焼きついている。
 年末に、狂言方大蔵流の茂山千之丞さんも亡くなられた。千作さんとの兄弟での狂言の味も忘れがたいが、それ以上に忘れられないのは謡での美声だ。能楽座の公演の折だったか、谷崎潤一郎のテクストに節付けした小謡が絶品だった。淡々と謡っておられたが、何とも言えぬ色気があった。謡のように、喜怒哀楽を直接的に表現しない芸でそこまでの境地にたどり着くのは容易なことではないだけに、とりわけ記憶に刻まれている。
 お3方とも直接お話をしたりした経験はないが、その舞台姿からは、能狂言の楽しみだけでなく、作品にどう向き合うかと言った古典文学全般に通じる大切なものを教えていただいたように思う。心から御冥福をお祈りしたい。
posted by 英楽館主 at 22:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月04日

サントリー美術館「能の雅 狂言の妙」

7月3日(土) その2

 池袋の東京芸術劇場での読売日響のコンサートは16時に終演。次の予定まで間があるので、六本木のサントリー美術館に立ち寄って、「能の雅 狂言の妙」展を楽しむ。国立能楽堂の開館25周年記念を銘打ったこの展覧会は、7月5日(月)までの前半と7月7日(水)からの後半でほとんどの作品が展示替えになるので、前半の展示をどうしても見ておきたかった。
 いつも通り、入館してエレベーターで4階の展示室に上がると、まず特別展示「桃山時代の能装束」が並ぶ。いずれも重要文化財に指定された3点。前半は「紺地白鷺模様狩衣」、「白地松藤揚羽蝶模様縫箔」、「茶地紫陽花小花模様縫箔」の3点が展示されている。1つ1つも名品だが、私が思うに、より重要なのは、いずれも段唐織ではないことだと思う。現在の能装束の定型が出来上がる以前の能の舞台が、違う味わいを持っていたことに対する想像力を喚起してくれるからだ。
 4階の展示室は能面と能装束、3階は狂言面と狂言の装束、能楽に関する絵画・文献という配置。4階の展示では、能面の見せ方に工夫が施されていて、一部の能面は裏面を見られるのが興味深い。前半の展示で印象に残ったのは、能面では「大★見」(おおべしみ、「べし」はやまいだれに「悪」)。眉間の彫りが極めて深く、それが何とも人間的な表情を産み出している。能装束では、「紅地火焔太鼓菊蜻蛉模様唐織」を興味深く拝見。今日、「火焔太鼓」と言えば、落語をイメージするが、元来は雅楽で使う楽器で、能装束の意匠にも用いられているのだ。
 3階の展示も興味深い。時間のない方は、3階を見る時間をお忘れなく。まず、狂言面の名品が貴重。前半では「ふくれ」や「尼」といった醜女の面、「空吹(うそふき)」という男性の口をとがらせた顔で「蚊相撲」の蚊の役などに使われる面の滑稽味にあふれる表情が特に印象的。一見しただけで、疲れた脳をなごませてくれる。「空吹」の面は、今回の展覧会のポスター右側にも写真が掲載されている一品だ。
 狂言の装束は、生地が麻なので、皺が付きやすいし退色しやすいのが難点だが、「芭蕉に蝸牛」なんて言う洒落た組み合わせもあって、点数は多くなくても見ていて楽しい。
 3階ではもう1点、「北野演能図屏風」を楽しんだ。北野天満宮での興行の様子が活き活きと描かれている。参道を触れ歩く触れ太鼓、木戸口の前にいる商人。肩に担いだ荷のうち、前の方は茶釜のようである。荷茶屋(にないぢゃや)か煎じ物売りであろうか。少し外れた所には、遊女らしき女性と酒宴をする人たち。現在でも北野は上七軒と目と鼻の先だが、四条河原が繁華の地になる以前から、北野天満宮の周囲に遊女が集まっていた光景が今に伝わる。
 土曜日の夕方だが、場内は混雑していなくて、ゆったりと観覧できた。能を見る時間がないという方にもぜひお勧めの展覧会である。私自身も、5日までにもう一度見たい。
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2010年05月03日

丹波篠山能楽資料館

100503 072a.jpg 亀岡から国道9号を逸れて篠山へ。一度訪ねてみたかった丹波篠山能楽資料館へ。江戸時代に能楽が盛んな地だったことを現在に伝える資料館で、赤鶴作や越智作の「小面」(銕仙会所蔵の名品とは別の物)、江戸時代初期に「敦盛」用にあつらえられた古元休作「十六」など、能面には古いもの、興味深いものがあるので、能のお好きな方には一見の価値があります。ただし、能がお好きな方以外の方に入館料(¥700)を払わせて、かえって能が嫌いになってしまうといけませんから、家族や友人に見学を付き合わせるのは酷でしょう。ざっと見て、能面や装束の絵葉書(1枚¥50でお買い得!)を土産に退散しました。
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老ノ坂峠を訪ねて(2) 首塚大明神

100503 066a.jpg 老ノ坂峠には首塚大明神という社があります。その由来書によれば、その昔、源頼光と四天王が酒呑童子を退治した時に、その首級を持って帰京しようとしたところ、ここから都という老ノ坂峠にさしかかると、怪力の持ち主坂田金時でも酒呑童子の首が急に持ち上げられなくなり、首級をここに埋めて首塚を作ったという。つまり、能「大江山」の世界にまつわる伝承を伝えているわけですね。
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老ノ坂峠を訪ねて(1) 古道の峠

100503 063a.jpg100503 061a.jpg5月2日(日)
 レンタカーで京都を起点にドライブ。まずは、狂言「木六駄」に思いを馳せつつ、老ノ坂峠に向かった。五条西大路から10キロ弱、国道9号線の老ノ坂トンネルのすぐ手前の道を左に上がると、山陰古道の老ノ坂峠に出る。道が細いので、3ナンバーの車の場合は、老ノ坂トンネルを越えてから脇道に入った方がいいかもしれない。道の脇に「是より東山城国」の石碑。山桜が1本、満開に咲いていました。すがすがしい鶯の声に、国道9号線の渋滞の疲れも癒える心地よさ。
 でも、冬の雪道を、牛12頭を追ってこの道を行ったならば、さぞかし大変だったでしょうね。特に峠の亀岡側は車のギアをローに入れて降りるほどの急坂。雪のある時に車で行かない方が無難な場所だと思います。
 狂言「木六駄」を見ていると、別に老ノ坂を実地に訪ねなくても、寒さと疲れを癒やすためには酒樽の封を切って当たり前と思いますが、実際に足を運んでみて、もしここに茶屋が有ったなら、雪の時は麓との往来が出来ずに茶屋が酒を切らしても不思議はないという場所だと感じました。
ラベル:木六駄 老ノ坂峠
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2010年03月20日

国立能楽堂定例公演「土筆」&「西行桜」

最近、書きあがらないままになっているものがたくさんありますが、順不同で書けたものからアップして行きます。少し読みづらいブログになってしまい申し訳ありません。

3月19日(金) 18時30分開演

狂言(大蔵流)「土筆」
 シテ:大蔵吉次郎
 アド:善竹十郎
能(観世流)「西行桜」杖ノ舞
 シテ(老桜の精):片山幽雪
 ワキ(西行上人):宝生閑
 ワキツレ(花見人):森常吉・宝生欣也・則久英志・大日方寛・殿田謙吉
 アイ:山本東次郎
 地頭:観世銕之丞
 地謡:浅井文義・清水寛二・西村高夫・柴田稔・長山桂三・谷本健吾・安藤貴康
 後見:片山清司・味方玄
 笛:藤田六郎兵衛、小鼓:曽和正博、大鼓:柿原崇志、太鼓:三島元太郎

 開演ぎりぎりに能楽堂に到着したが、チケットを忘れて、仮券発行のために狂言「土筆」の冒頭を見損なってしまった。古歌をめぐって2人が珍妙な問答をする「土筆」は、時間の面でも主題の面でも「西行桜」と相性の良い狂言だ。大蔵吉次郎、善竹十郎、ともに無駄な力の入らない飄々とした味。私は、特に善竹十郎が、近年、芸境を深めつつあるように感じる。以前の力みのようなものが抜けて、いつの間にか、亡父善竹圭五郎を髣髴とさせるようになって来た。
 休憩後は、傘寿を機に改名した片山九郎右衛門改め幽雪の「西行桜」。顔ぶれも揃い、良い意味での緊張感が整った。ワキ宝生閑の西行上人が床机に腰をかけるや否や、間髪入れず絶妙の間合いで「いかに誰かある」と謡い出した瞬間に、平安末期の京都という別次元の時間と空間にタイムスリップしたような気分になる。アイの東次郎、森常吉をはじめとする誰が西行を演じてもおかしくない程の、いわば下掛宝生流総出演の花見人も、完璧と言ってよいほどの緊張感の途切れない問答や動きが続いた。
 シテの片山幽雪を、九郎右衛門時代にも観たことがないわけではないが、私は久しぶりに拝見した。率直に行って、年相応の身体的な衰えは隠せない。また、そのせいか、かつて以上に難声になったように感じた。その声は、なぜか晩年の観世栄夫を思い起こさせる。動きは、右足が前に出づらいように見えたが、それでも常に体のバランスが崩れないところはさすがだ。シテが、作り物の中で、次いで外に出てワキと向かい合う形に落ち着いた味わいがある。
 クセは、西行ではなく素性法師の有名な歌を引いて「見渡せば柳桜をこきまぜて都は春の燦爛(さんらん)たり」に始まる。ここでは、柿原崇志の大鼓が実に的確。銕仙会の地謡もしっかりとシテの動きを支えた。私は、今回、この箇所を観ながら、西行ではなく敢えて素性の歌を引用することは、「西行桜」という作品の時空を西行の逸話の周辺にとどめるのではなく、より普遍的な桜咲く都へと広げてくれるように感じた。なるほど、世阿弥の自信作は、1時間半の能の時間の枠の中で、私たち観客を単純ではない世界にいざなってくれる。観客の私たちは、能の世界が広がり、ある意味で西行の個の世界から解放されるにつれて、逆に観客1人1人の人生や観桜体験へと還元されて行くように思う。
 序之舞に入る直前に、シテは後見から杖を受け取り、扇を右、杖を左に持って舞い始める。チラシやプログラムには明記されていなかったが、私が「杖ノ舞」と書いたのもそのためだ。序之舞では、藤田六郎兵衛の笛が、音量ではなく息が豊かで、シテの往年の滑らかさを失いつつある舞を支え、途切れない息長く続く時間へと高めていた。体調不良で休演した一噌仙幸の繊細な味わいとは趣を異にするが、素晴らしい代役である。
 舞い終えた後、通常ならシテ謡、地謡、シテ謡、地謡、シテ謡、地謡で留拍子となるところだが、今回は、2度目のシテの謡「待て暫し待て暫し、夜はまだ深きぞ」をワキが謡っていた。確かに、解釈としては西行が老桜の精を呼び止めようとする方が合理的だ。そういう意味では、こういうやり方もあって良いように思う。作り物の脇にシテが座る型は、昨年1月の梅若玄祥のテレビ放送のように作り物に手をかける型ではなく、作り物の斜め前で少しワキの方を向いて、美しい形に決まっていた。
 役者にとって、年齢に伴う身体の変化は当然のことだが、能の世界では、世阿弥の『風姿花伝』「年来稽古条々」以来、老いはけっして負の面だけで捉えられているわけではない。この日の「西行桜」はシテ1人が奮闘するのではなく、周囲にシテを支える輪が完全な形で出来ていて、その土台の上でシテが現在の境地を余さずに見せてくれたという意味で感銘の深い舞台だった。
 なお、シテの面は伝福来作の「皺尉(しわじょう)」。銕仙会所蔵の名品。幽雪の萌黄の大口に赤銅色(あるいは樺色?)の狩衣という上品な色目の装束と合わせて、深い味わいを醸し出していたことも付け加えておきたい。
(3月20日記、3月30日一部改稿・追記)
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2010年01月23日

国立能楽堂新春公演 「邯鄲」「餅酒」

1月6日(水) 13時 国立能楽堂

能(喜多流)「邯鄲」置鼓・働
 シテ(蘆生):粟谷明生
 子方(舞童):内田貴成
 ワキ(勅使):森 常好
 ワキツレ(大臣):殿田謙吉・森常太郎・大日方寛
 ワキツレ(輿舁):舘田善博・則久英志
 アイ(宿の女主人):野村萬斎
 笛:松田弘之
 小鼓:曽和正博
 大鼓:白坂信行
 太鼓:観世元伯
 後見:中村邦生・狩野了一
 地頭:友枝昭世
 地謡:粟谷能夫・出雲康雅・長島茂・内田成信・金子敬一郎・大島輝久・粟谷充雄

狂言(和泉流)「餅酒」
 シテ(越前のお百姓):野村万之介
 アド(加賀のお百姓):石田幸雄
 小アド(奏者):野村万作

 日が経ってしまったが、国立能楽堂の新春の公演についても、少し書いておこう。

能「邯鄲」置鼓・働
 通常は、狂言と能という組み合わせだが、この日は能が先に上演された。それは、今回の上演が「置鼓」という「邯鄲」を「翁」に続く脇能の格で演じる場合の演出によるものだったから。村上湛氏のプログラム解説によれば、冒頭でアイが登場する際の「正面近くまで進み出て常座に退る足づかいが秘事とされ」るとのことで、私にはよくわからないが、通常の演出とは囃子の手組も違うように思われた。
 「邯鄲」の眼目は、なんと言ってもシテ蘆生の夢の中の場面で舞われる「楽(がく)」であろう。唐団扇(からうちわ)を手に一畳台(畳一畳分の大きさの作り物)の上で舞うには、様々な技術がシテに求められる。全部で5段に舞うのだが、
 @ 唐団扇を右手に持って舞う
 A 右手の唐団扇を逆向きに持って舞う
 B 右手の唐団扇を左手に持って舞う
 C 再び唐団扇を右手に持って舞う
 D 一畳台を降りて舞う
という構成のBの部分で、右手を作り物にかけて左足を台から「思わず踏み外した」かのように落とす型などが見どころだ。粟谷明生のシテは、キビキビと動く体で、見応えのある「楽」の舞を見せてくれた。その後、「月人男の舞なれば」と「雲の羽袖を重ねつつ」の間に「働(はたらき)」が入る。シテが一畳台の上に駆け戻る前に揚幕の前まで動き、橋掛りを使う演出は、「楽」の間、一畳台を凝視していた観客の目を動かす上で効果的だった。
 だが、この日、一番心に残ったのは、蘆生が夢から覚める時の、右手を顔の前からゆっくりと回す仕種だった。寝覚めの虚しさが視覚化されて強い印象を残した。これは、粟谷明生の「邯鄲」がけっして技巧本位ではなく、曲の真髄を突いたものだったということなのだと思う。もう一つ、囃子方の健闘も耳に残った。中でも実力も実績もある顔ぶれに交じって大鼓を打った白坂信行に注目したい。夢の中で蘆生が急に栄華を手にする場面で演奏される「真ノ来序」での間と掛け声の良さが印象深かった。

狂言「餅酒」
 ストーリーの概略を示そう。越前と加賀の百姓が元旦に年貢の遅延を詫びて祝儀の品を献上すると、領主はちょうど歌会の最中で、奏者を通して百姓たちにも歌を詠むように求める。酒や餅を讃える歌を詠んだ2人の百姓は、万雑公事(まんぞうくじ、雑役などの租税)を免除されてめでたしめでたしと謡い、舞いながら退出する。
 前半、百姓たちが連れ立って都に上る場面は「佐渡狐」と似た雰囲気。後半の歌を詠み始めてからが、この曲独特の味わい。個人的なことだが、年末に仮名草子『一休ばなし』巻1の5(一休の狂歌で薪の百姓たちが年貢を減免される話)を中学生の授業で使う指導案を書いたところだったので、「狂歌で年貢その他の租税を免除される」というストーリーの骨組みの一致に興味を持った。
 当時、実際にこういう話があったかどうかはわからない。太っ腹な領主の中には、こうした例もあったのかもしれないが、それよりは、庶民の願望がストーリーに結実したものと考える方がよいだろう。ちょうど、誰もが宝くじに当たることを夢見て、落語の富くじに関する話では必ず大当たりが出るのと同じようなものとして、おおらかに楽しめるのが、こうしたストーリーの面白さではないだろうか。
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天覧の「木六駄」〜国立能楽堂狂言の会

1月22日(金) 18時30分 国立能楽堂

 狂言(和泉流)「木六駄」
  シテ(太郎冠者):野村万作
  アド(主):石田幸雄
  小アド(茶屋):野村萬斎
  小アド(伯父):野村万之介
 狂言(大蔵流)「狸腹鼓」
  シテ(狸):茂山七五三
  アド(喜惣太):茂山正邦
  笛:杉市和
  小鼓:吉阪一郎
  大鼓:亀井広忠
  太鼓:三島元太郎

 大学の授業を終えて能楽堂に向かう途中に、友人からメール。国立能楽堂は警官で厳戒態勢だと言う。それもそのはず、2曲目の「木六駄」から天皇・皇后両陛下が御観覧とのこと。能楽堂はコンサートホールや劇場よりも小さいので、警備がことさらに目についてしまうようだ。
 観客の立場としても、入魂の舞台が見られるのは幸運というものだ。これまでコンサートやオペラなどで天覧の舞台に居合わせたことは何度かあるが、両陛下の前に居並ぶ観客たちが笑っているという光景には初めて接したような気がする。これもまた、喜ばしいことに思われた。「木六駄」は、笑いの中にも格調ある太郎冠者物狂言の傑作。「狸腹鼓」は、さして傑作とは思わないが、伝承過程に井伊直弼が関わる作品で、宮中の新年行事が一段落した後という日程とまずは天覧にふさわしい番組ということでこの公演が選ばれたのであろうか。

 まずは「木六駄」から。奥丹波に住む主が太郎冠者を呼び寄せて「都の伯父への歳暮として、木(=薪)六駄と炭六駄を運んでくれ」と命じる。太郎冠者は1人で12頭の牛を追うのは無理だと断るが、主は「太郎冠者以外に使用人がいないから1人で行ってくれ。その代わり、今年は特に寒いので、綿をたっぷり入れた布子と新しい足袋を褒美にやろう」と言うと、引き受けてしまう。このやり取りは、使用人の身につける衣服が主人からの「仕着せ」だった時代の庶民の感覚がにじみ出ていて、味わい深い。主は、さらに太郎冠者に酒一樽と手紙を持って行かせる。また、昨年還暦を迎えた石田幸雄が主を演じ、作為を感じさせない台詞と演技で、けっしてわがままではない主人の人物像を描いていたのも好ましかった。
 第2場は老ノ坂の峠。京都市と亀岡市の間にあるこの峠は、現在の国道9号線だとトンネルで抜けてしまうので、それほど大変な峠には思われないが、一度車を降りて散策してみたい所だ。私は、先月、丹波を訪ねた時に近くを通った(あの時は老ノ坂トンネルを通らずに京都丹波道路を通行した)記憶と重ねながら舞台を楽しんだ。茶屋の亭主は野村萬斎。
 第3場は峠道。蓑笠に雪をかぶった太郎冠者が1人で牛を追う。この狂言の一番の見せどころ。久しぶりに「木六駄」を見て、この場面の成否、つまり太郎冠者の一人芝居で観客の牛に対する想像力をかき立てることが出来るかどうかは、橋掛りに太郎冠者が姿を現した直後の仕種で決まると感じた。万作の太郎冠者には、それだけの描写力があると感じられた。牛の世話を焼く太郎冠者には、難儀な仕事をしながらも牛という農民にとって大切な動物を慈しむ情が感じられる。雪道を登る際に牛に履かせる藁沓を踏み破った牛の後ろに回って、沓を掛け替えてやる太郎冠者を牛が蹴る。「そういう根性だから牛に生まれるのだはやい」と言う太郎冠者の言葉には思わず笑った。
 峠の茶屋での亭主との酒のやり取りは、本当に心温まる場面だ。狂言で酒を飲む場合、主人の酒を盗み飲むとか、一杯だけのつもりでやめられなくなって飲み干してしまうとかいうのはお定まりだが、「木六駄」の場合に格別の味わいがあるのは、ただ酒が好きでやめられないのではなく、屋外での労働で冷えて疲れた体と心を酒が温めていやしてくれる場面だからだ。「木六駄」の作者は、そうした酒の格別な味をわかっている人だった。観客も、「たとえ主人の酒でも、雪道の疲れでは仕方あるまい」と思い、太郎冠者に一段と共感を寄せて見てしまう。
 太郎冠者が茶屋で酒を所望するが、亭主は「あいにく大雪で酒を切らしている。ところでお前が持っているのは酒樽ではないか」と答える。「少しだけ飲んで、水を足しておけばよい」と飲み始めたものの、残り少なくなったことに気づき、「これでは、水を足しても酒の香りのする水にしかならない。どうせなら…」と全部飲み干してしまう。取ったりやったりの間に鶉舞の余興。この酒盛りの場面は、別に萬斎が悪かったわけではないが、もう少し年配の演者だと、味わいも増すというものだ。野村萬(当時万之丞)と万作の兄弟でこの場面を演じていた時代が懐かしく思われた。
 酒に酔った太郎冠者は、薪六駄のうち一駄の薪を亭主にやり、他の五駄を適当に売りさばいてくれるように頼んで、茶屋を後にする。最終場、都の伯父の家に着いてのやり取りは、この日は少し印象が薄かった。手紙を読んだ伯父に「手紙には『木六駄に炭六駄を遣わす』と書かれているのに、なぜ炭六駄しか見当たらないのか」と問われて太郎冠者が「木六駄」と名を変えましたと答える場面では、あまり笑いがこみあげてこなかった。それは、野村万之介の伯父が枯れ過ぎていて追及が弱かったために、太郎冠者が追い詰められている感じが薄かったからではないかと思っている。

 続けて「狸腹鼓」。人間に狸を狩るのをやめさせるために狸が化けて殺生の罪を説くという設定は「釣狐」と同工異曲だが、後半、狸と見顕されてから、狸が腹鼓を打つという大らかさに味わいのある曲だ。茂山七五三がシテの狸を演じ、一人で面を外し、装束を脱いで狸の着ぐるみになるなどの演技で楽しませてくれたが、アドの茂山正邦の大声にはやや閉口。「やるまいぞやるまいぞ」の幕切れに一の松で右手をちょこんと折った狸の仕種は、何とも愛嬌がある。

 終演後、気の合う仲間と酌み交わす酒の味も、この晩は格別だった。

 なお、最初に狂言(大蔵流)「三本柱(さんぼんのはしら)」(シテ:善竹十郎)が上演されたが、大学の授業時間の関係で間に合わなかった。
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2009年12月31日

歴代観世大夫の墓所

RIMG0319.JPG12月31日(木) その2

 訪問して初めて知ったことだったが、酬恩庵には、能楽の観世流の家元、観世大夫の墓もあった。3世音阿弥(1398〜1467)、15世観世左近元章(1722〜74)、19世観世織部清興(1761〜1815)の墓所だ。一休宗純(1394〜1481)によって酬恩庵が開かれた(兵火で衰退した寺が中興された)のは1456年のことと言うが、ここでは金春禅竹(1405〜71)によって能が演じられたという伝承もあり、能楽には縁が深い。
 ぜひ一度ならず訪ねたい寺である。次回は多少の混雑を覚悟してでも紅葉の季節にしたい。
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2009年10月17日

能「江口」甲之掛

 ここのところ、大きな締め切りがあって、更新が滞っている。時系列に沿って記事を載せようとすると、ますます溜まってしまうので、手近なものから掲載して行くことにする。昨晩の国立能楽堂定例公演は、帰りと今朝の出勤時の電車で座れたので、書ききってしまうことが出来た。

10月16日(金) 18時30分開演 国立能楽堂

 狂言一番、能一番という番組だが、大学の講義が17時50分までなので、能だけ観る。

能「江口」甲之掛(かんのかかり)
シテ:観世清和
ツレ:坂口貴信・武田宗典
ワキ:森常好
ワキツレ:森常太郎・則久英志
アイ:野村萬
地頭:野村四郎
地謡:岡久広・山階弥右衛門・藤波重彦・藤波重孝・野村昌司・武田友志・角幸二郎
笛:一噌仙幸
小鼓:大倉源次郎
大鼓:亀井忠雄

 近年、序之舞のある能がとみに好きになって来た。「江口」もその一つで、一昨年の銕仙会で「平調返」(ひょうじょうがえし)の小書で観て、ますます好きになった一曲である。今回は、久しぶりに観る観世宗家の演能で、「甲之掛」の小書が付いての上演だった。
 「甲之掛」は、序ノ舞の序の後、舞に入る前に独特の高い調子の笛の節が挿入されるもの。だが、それだけではなく、序も踏む数が多くなる。シテが身体のバランスに細心の注意を払わねばならない序が長く、そして高いテンションで一気に舞に突入するという演じ方は、舞うシテにとっては加減の難しいものであろう。序ノ舞の後にも、「実相無漏の大海に」という仏の有り難さを謡う有名な一節に続いて「波の立ち居も何故ぞ」の後に、短い「イロエ」が入る。
 また、後シテの出も船の作り物を出すタイミングが早くなり、後シテが出る間の囃子の手が複雑になる「沓冠之出」も取り入れられていた。「川舟を泊めて逢瀬の波枕」という出の謡は地謡ではなく後シテとツレが謡い、「よしや吉野の」をシテが独吟する。そして地謡の「よしや吉野の花も雪も波もあはれ、世に逢はばや」の後に、笛に低音での独特のアシライが入る。後で序ノ舞に入る「甲之掛」の高音と対をなすという発想なのであろうか。
 いずれにしても、一噌仙幸の笛は、低音から高音まで冴えた音を聴かせてくれた。「平調返」にしても「甲之掛」にしても囃子方が揃っていないと成り立たない演出だとつくづく実感する。

 小書(=特殊演出)の話が長くなったが、小書が付いたから面白いのではなく、もともと「江口」は味わい深い作品だ。前シテのワキ僧とのやり取りの興趣。後シテの遊女の身に生まれたつらさを嘆く〈サシ〉「前の世の報いまで思ひやるこそ悲しけれ」でシオリをしてから世の無常や愛執に迷う心について説く〈クセ〉へ。クセの冒頭「紅花(こうか)の春の(あした)、紅錦繍(こうきんしゅう)の山粧ひをなすと見えしも」は、七五調から外れていることで、音楽的に変化のある節付けで味がある。序ノ舞を経て、シテの内面世界は迷いの世界から悟りの世界へと変容する。仏の慈悲の広さを謡う「実相無漏の大海に」の一節を経て、舟に乗っていた江口の遊女の霊が白象に乗った普賢菩薩へと転じ、白雲に乗って去って行く。後半の流れの良さは、三番目物の中でも随一だろう。

 当夜の演能は、全体に充実したものだったと思うが、シテの観世清和には、さらさらと流れ過ぎてしまう平坦な部分と気の入った謡や舞に目を見張る部分とが入り混じっていた点に、いくらかの物足りなさを覚えた。具体的には、ワキとやり取りをする前シテの謡(ある意味で、森常好の謡の充実が光っていた)や、中正面からワキまでを見渡す動きが平板に流れていなかっただろうか。後シテの出の謡は深く充実したものだった。続く舞クセの動きは、楷書体でしっかりしているが、私は、一つ一つの挙措、とりわけ扇を扱う手の動きに、もっと丁寧なものを求めたい。序ノ舞以降は再び充実の時間。
 シテの面は増(ぞう)。作者はわからないが上品な一品だった。後シテが、実に豪華な金をたっぷりと使った扇面文様の唐織に、かなり退色して醸し出される古さが味わいを感じる緋と言うよりは柿色に近い大口(おおくち)という装束で、見所があった。後場では、2人のツレのうち後の1人を紅の少ない装束にして、若い遊女とある程度の年功を積んだ遊女を連れて登場した風情だった点も面白かった。
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2009年09月14日

能「蝉丸」を見る

9月12日(土) 13時 国立能楽堂普及公演
能(観世流)「蝉丸」
 シテ(逆髪):山本順之 ツレ(蝉丸):浅見真州
 ワキ(清貫):福王茂十郎 ワキツレ(従者):永留浩史、喜多雅人
 アイ(博雅の三位):野村万之介
 地頭:梅若玄祥
 地謡:会田昇、山崎正道、小田切康陽、松山隆之、川口晃平、角当直隆・内藤幸雄
 笛:杉市和 小鼓:住駒幸英 大鼓:亀井忠雄

 普及公演で、最初に解説(馬場あき子)と狂言「昆布売」(シテ:石田幸雄)があったのだが、私が到着した14時20分過ぎには、既に能「蝉丸」が始まって、ワキが舞台に登場していた。それにしても、コンサートなら昼公演でも14時開演、オペラも土曜の昼は14時か15時開演なのに、国立能楽堂の13時開演というのは何とかならないものか。だいたい、16時なんかに終わっても、居酒屋は開いていなくて、まだビールも飲めない半端な時間ではないか。出演した能楽師(その多くはビールを「主食」としているだろう)だってちっとも有りがたくないに違いない。それぐらいだったら14時開演・17時終演にすればいいのに…。土曜日に授業のある私立学校の教員にとっては、13時開演に間に合うのは無理に等しい。中央線快速の「休日運転」という抵抗勢力とも戦って、中野駅で東西線直通電車から始発の総武線各駅停車に全力で突撃しながら(私に言わせれば接続の悪過ぎるダイヤに問題がある!)、やっと国立能楽堂にたどり着いた。

 閑話休題。そこまでしても見たい顔ぶれの揃った「蝉丸」だった。シテの山本順之とツレの浅見真州のコンビは、このコンビで既に4、5回「蝉丸」を演じているという。ツレの蝉丸は、冒頭で逢坂の関に連れて来られて捨てられる場面でも、後半、シテの逆髪が琵琶の音色をよすがに訪ねて来て姉弟の再会を果たす場面でも、受身に回る。受けでいながら、シテに負けない存在感がほしいし、シテの演技の邪魔にはなってほしくない。だからこそ、力量と気心の合ったコンビで見たい能である。
 この能は、シテが出て来るまでが長い。ツレが逢坂の関に捨てられ、アイの博雅の三位(野村万之介)とのやり取りがあって、ようやくシテが舞台に登場し、髪が逆立つという我が身の不幸を嘆く。その時、蝉丸は藁屋の中で琵琶を弾き、「世の中はとにもかくにもありぬべし宮も藁屋も果しなければ」と歌(『新古今和歌集』雑歌下1851、ただし二句・三句は「とてもかくてもおなじこと」)を詠じる。
 この日は、この「世の中は」のツレの謡での笛のアシライが聴き物だった。杉市和の笛は、一調子高く浮いたような音に特色があるが、ここでは、演者も観客も含めて、笛の音を聴く者を遠く隔たった時空へと誘うような趣があった。蝉丸というのは、琵琶の名手とは言われるが、伝説的で、いつ、どこで何をしたのか、という具体的なイメージを伴わない人物だ。能「蝉丸」では醍醐天皇の第4皇子という設定だから、在原業平や小野小町などよりは後の時代の人物なのに、イメージが定まらないために、かえって遠い時代の人物に感じられる。そうした蝉丸への想像力の橋渡しをしてくれる笛だった。蝉丸と言えば、『小倉百人一首』にも採られた「これやこの行くも帰るも分かれつつ知るも知らぬも逢坂の関」が有名だが、能「蝉丸」の構想では、先にも引用した『新古今集』の歌がカギとなっている。その意味では、この部分は一曲の眼目と言ってもよい箇所なのである。
 クリ・サシ・クセに入る前の姉弟再開の場面「(シテ)√弟の宮か(ツレ)√姉宮かと(地謡)√共に御名を木綿附の。鳥も音を鳴く逢坂の。堰きあへぬ御涙。互いに袖や萎るらん」は、とりわけ「逢坂の。堰きあへぬ御涙。」のあたりで、亀井忠雄の大鼓が冴えていた。切れのある音と心地よい間で全体をリードしていたと思う。動きの少ないツレの浅見真州は、別れの前の「時々月はもりながら」で、盲目ながら月の光を感じて見上げる仕種に味わいがあった。
 山本順之のシテは、梅若家所蔵のこの曲専用の面「逆髪」を使用。白い独特の面立ちには、十寸髪など、他の狂女面にはない上品さと妖しさがあった。カケリなどもシテのしどころだが、それ以上に、弟宮との再会の劇的な高まりが謡や演技からよく伝わって来た点が良かったように思う。全体にバランスのよいシテだった。ツレの面は「弱法師」。また、琵琶を弾じる有様を表現する際に広げた扇が、黒を基調に気品のある一品だった。梅若玄祥の地頭には不満はないが、地謡前列には、もっと積極的に謡ってもらいたいと感じる箇所が多々あった。
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2009年09月12日

銕仙会9月例会 「業平餅」&「定家」

9月11日(金) 18時 宝生能楽堂 銕仙会9月例会
狂言(大蔵流)「業平餅」
 シテ(在原業平):山本東次郎 アド(三位):山本則孝 アド(稚児):水木武郎
 アド(随身):山本則重・山本則秀 アド(沓持):山本泰太郎
アド(長柄持):若松隆 アド(餅屋):餅屋:山本則俊 アド(娘):遠藤博義
    休憩
能「定家」
 シテ(式子内親王):観世銕之丞 ワキ(僧):森常好 ワキツレ(僧):
 笛:杉市和、小鼓:幸清次郎、大鼓:柿原崇志
 地頭:浅井文義
 地謡:小早川修、柴田稔、馬野正基、北浪貴裕、長山桂三、浅見慈一、谷本健吾

 能では、酒を飲む仕種はあっても「食べる」という仕草は見せないが、狂言には「食べる」場面がある。思い起こせば、『源氏物語』で「食べる」場面を描かれている人物が恋愛の対象外であるなど、古典の世界では「食べる」場面には、何かと限定が多い。
 色好みの貴公子在原業平の世間知らずぶりを描く狂言「業平餅」では、業平が餅を食べる場面を見せる。狂言の「餅」はフワフワ(中には何が入っているのであろうか?かつてなら綿だろうが、最近の小道具の餅は、綿以上に小さくなる素材のように思われる)に出来ていて、食べる仕種と同時に、演者の手の中で「餅」を握ることで小さくなって行く(最後は口の中ではなく袂に入れてなくなる)。業平は、餅を盗み食いして喉に詰まらせた挙句、餅屋から宮仕えをさせてほしいとさし出された娘が醜女(しこめ)だと知ると、慌てて逃げ出す始末。
その滑稽さ、卑近さを描く前に、貴公子としての業平の人物像を示すために、業平は能「井筒」の後シテを思い起こさせる装束を付けるし、冒頭は随身や太刀持ちなど、大勢の供が出て謡う。山本家の「業平餅」は、この冒頭の場面の上品さが持ち味なのではないか。前半の、囃子が入って謡う場面の余韻がしっかりと残っていた。
 
 能「定家」は、式子内親王(1149〜1201)が、賀茂の齋院を務めていた頃(1159〜1169)に、実は密かに藤原定家(1162〜1241)と男女関係にあり、その後も定家の邪淫の妄執が式子内親王の墓に蔓となって絡み付いていたという巷説に基づいた金春禅竹の名作。年代を考えれば、少なくとも賀茂の斎院を務めていた頃に、2人が禁を犯して男女関係にあったことは有り得ない。定家は、式子が斎院を退下した年に数えで8歳だから、いくらなんでも…。時雨が舞台に登場する晩秋の作品だから、お彼岸前だとちょっと早い気もするが、暦の上では秋ももうすぐ半ばだから、まあ良しとせねばなるまい。
 さて、「定家」の舞台で一番印象に残っているのは、もう何年前か忘れたが、銕仙会で見た先代銕之丞(8世静雪、1931〜2000)の舞台だ。目に見えない何かに呪縛されている式子の姿がリアリティーを持って伝わって来て、業(ごう)の深さとはどんなものかを感じさせるシテだった。当代銕之丞はどんな「定家」を見せてくれるかが昨晩の焦点。
 上演時間は2時間10分ほど。とは言え、「遅い」という印象はなかった。地謡が若手主体だったせいか、前場のクセなどは「重い」と感じることもなかった。前シテは、面が作者不詳の節木増。装束は黒地に金で秋草文様をあしらった紅入唐織。蒔絵のように豪華なものだったが、高貴さよりは艶めかしさが漂った。上歌(あげうた)の「庭のもそれとなく」で脇を見込んでから後ろに下がる風情や、クセの2度目の打切で合掌する姿などが印象深かった。
 後シテが定家葛の作り物の中で謡う「昔は松風羅月に言葉を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ」という言葉の生々しさには、はっとさせられる。「班女」のように遊女をシテにした能ならともかく、式子内親王に男女同衾を連想させる「翠帳紅閨」は、室町時代にはかなり衝撃的だっただろう。高貴で、しかも賀茂の斎院だった式子内親王の霊が墓の中から発した言葉としては、僧の供養に対して吐露した真情とは言え、聴いてハッとする言葉だと思う。能と言うのは、演者が上手いか、十分に演じているかだけでなく、見る者がそのような言葉に反応する感性を持っているかどうかに大きく左右される演劇だ。そういう意味では、昨晩の「定家」は私にとって面白い観能だった。
 後シテが姿を顕した後、「一味の御法の雨のしただり」で地謡が高いテンションを聴かせて、「定家葛もかかる涙もほろほろと解け」で着地するようにトーンを落とす部分は、若手中心の地謡が浅井文義の地頭を中心によくまとまっていたと思う。自然な表現にたどり着くまでにはもう少し時間は必要だろうけれど。序之舞は、足の運びの丁寧さが印象に残った。舞い納めた後、「シテ√もとよりこの身は 地謡√月の顔ばせも シテ√曇りがちに」というシテと地謡との音楽的なやり取りの場面、「月の顔ばせも」で遠くを見やる銕之丞の身体に、ちょっと伸び上がり過ぎた無防備さを感じた。こうした隙は、これから埋まって行けばよいのだと思う。今回の後シテの面は泥眼(近江作)だったが、いずれ痩女の面での再演を見たいものだ。
 見ながらつくづく思ったのは、「定家」は演じるシテにとってやりにくい能だということ。後シテは作り物の中で床机に腰掛けていて「足弱車の火宅を出でたるありがたさ」で作り物を出たら、すぐに序之舞を舞わなければならない。そして、舞い納めたら、間もなく作り物の中に戻る。観世流の型で言えば、作り物の外の世界での動きは、舞と、作り物に収まる際に8の字の形に作り物を出入りするところに集約されていると言ってもいいだろう。妙な喩えかもしれないが、文楽や歌舞伎の「桜丸切腹」(『菅原伝授手習鑑』三段目)で、桜丸が暖簾口から出たら3歩前に出て腹を切る以外に何も動かないのと同じように、動きが少ない分、シテは集中力が要求される。同時に、そこに曲の面白さを見出すことも出来るのだろう。
posted by 英楽館主 at 23:42| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

素謡「檜垣」を聴く

8月27日(木) 国立能楽堂企画公演「素の魅力」
 8月27日、授業を終えた後で千駄ヶ谷に向かい、宝生流では25年ぶりという「檜垣」を素謡で聴いた。プログラムは計5曲だが、「檜垣」に絞って書こう。謡についての知識を十分に持ち合わせていないので、拙い感想の域を出ないが、それでも書き記しておくことにしたい。

 素謡「檜垣」(宝生流) シテ(檜垣の女):近藤乾之助、ワキ(僧):宝生閑
    地謡:今井泰男・佐野萌・高橋章・亀井保雄・當山孝道

 近藤乾之助は、数年前に自らの主宰する「近藤乾之助試演会」で、番囃子(素謡に囃子が加わった上演形態)で「関寺小町」を取り上げ、また、一昨年の秋の宝生会別会では「姥捨」を舞った。老女物の上演頻度が低い宝生流にあっては、稀曲に積極的に挑んで来た第一人者である。今回は、ワキを宝生閑が謡ったことで、シテとワキの対話の多い作品の味わいが大いに深まっていたと思う。
 乾之助の謡には、今日、日本語が音楽と結びついたあらゆる芸能の中で最高峰と呼び得る深さがある。まず何よりも、本を見ていなくても耳で聴いただけで言葉がしっかりと伝わる。謡の原点として大切だが、容易には到達できない境地。霧の中から声だけが聴こえるような前シテの出も、僧の前に姿を現して地獄での苦しみを表現する後シテも、感情や苦しみを十分に飲み込んだ上で、生々しいものとしてではなく、一語ずつ発せられて行く。謡曲と言うのは、修辞法が散りばめられていて、例えば現代語に訳すのは容易ではないが、部分としての一つ一つの語と物語という全体とが不思議と目の前に伝わって来た。
posted by 英楽館主 at 16:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月09日

狂言と落語 そして野村又三郎三回忌追善

狂言と落語
 杉並の女子高の生徒から、「今度(=今日、8月9日)狂言の会(第25回やるまい会東京公演〜十二世野村又三郎信廣三回忌追善〜)を見に行くのですが、演目のうち「六人僧」と「柑子俵」のあらすじがわかりません。」という質問をもらいました。
 早速、手元の『能・狂言辞典』(平凡社刊)や岩波(旧)日本古典文学大系『狂言集・上下』などを見てみましたが、確かに「六人僧」も「柑子俵」も載っていません。私も、この2つは見たことがないように思います。
 グーグルで「狂言 六人僧」「狂言 柑子俵」などのキーワードを入れてみると、あらすじの解説は入手できました。生徒の皆さんも、同じように入手できると思います。それを見ながらふと思ったのは、「六人僧」と「柑子俵」は、落語にも似たような趣向のものがある狂言だということです。「六人僧」「柑子俵」それぞれの歴史は、今、手元の資料だけでは調べられませんが、気付いたことを少し書いておきたいと思います。

「六人僧」
(あらすじ)
 ある男が、同行者2人とともに、諸国参詣の旅に出て、道々、「けっして腹を立てまい」という誓いを立てました。同行者2人は、ある晩、いたずらでその男の頭を剃ってしまいます。腹を立てた男は、先に帰って同行の2人が水死したと嘘をつき、その妻たちを剃髪して尼にしてしまいます。後から帰って来た2人は驚きますが…。
(ひとこと)
 落語で同じような話と言えば、「大山詣り(おおやままいり)」があります。江戸の町人の間で盛んだった大山(神奈川県)詣りの帰りに酒を呑んで暴れた熊五郎。同行者たちは酔いつぶれた熊五郎の頭を丸坊主に剃って宿に残し、出発してしまいます。目覚めた熊五郎は早駕籠で先回りして江戸へ帰り、講中一同の女房たちを集めて、船が転覆して自分以外は皆水死したと嘘をつき、残らず剃髪して尼にしてしまいます。後から帰って来た一同は…。単純にあらすじを比較するのではなく、表現の特徴を比較してみると、興味深い考察ができるかもしれません。

「柑子俵」
(あらすじ)
 柑子売りが宿に柑子俵を置いて遊びに出かけてしまいます。宿の亭主は、俵の中の柑子みかんをこっそり食べていると、子どもに見つかってしまい、結局2人で全部食べてしまいます。狂言で「盗み食い」をする趣向のものは「附子(ぶす)」や「栗焼(くりやき)」など、たくさんありますが、一口味見をするだけで止められたという話は一つもありません。いずれも食べつくしてしまいます。食べてしまった後で、言い訳を考えるというのが狂言の常ですが、この狂言ではどのような一計を案じるのでしょうか。
(ひとこと)
 段ボール箱やビニール袋のなかった昔、藁で編んだ俵は、さまざまなものの保存や運搬に使われました。米俵のように食品を入れるだけでなく、炭俵などもありました。米俵の場合、1俵は60キログラムでした。江戸や室町の昔はどういう単位だったのか、私も機会を見つけて調べてみたいと思いますが、60キロのお米が入る俵なら、今よりも小柄だった昔の日本人は、中に入ることが出来ただろうと思われます。
古典落語には「芋俵」というちょっと尾籠な一席があります。盗賊が芋俵に仲間を入れて羽振りのよい大店の中に置いて帰り、夜中に俵の中から抜け出して鍵を店の中から開けて一味で店の中の金目の物を盗み出そうという計画でしたが、俵を逆さに置かれてしまったので中の男は大変な目にあった挙句に…。
柑子みかんを詰めた「柑子俵」は、中身の特徴(米と違って、果物ですから重みで潰れる危険がある)から考えると、米俵ほどの重さ・大きさではなかったのかもしれません。だから狂言「柑子俵」では子どもを俵の中に入れようとするのでしょう。

 野村又三郎さんが亡くなられてから、もう1年半以上経ったのですね。私は、今日の狂言会には参りませんが、又三郎さんの、力みのない飄々とした舞台を思い出してみようと思います。「英楽館」2007年12月30日の項に、又三郎さんを偲んで記した拙稿も併せて御覧いただけたら幸いです。
posted by 英楽館主 at 10:29| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

一噌仙幸氏が人間国宝に

 能楽(一噌流笛方)の一噌仙幸氏が、重要無形文化財の各個指定(いわゆる人間国宝)に指定されることになった。現在の笛方の中では一際優れた演奏を長年続けて来られた方だから、当然のことであり、また喜ばしく思う。指定を受けると出演依頼がこれまで以上に殺到することだろうけれど、お体を大事になさって、曲の趣を表現する的確な芸をいつまでも聴かせていただきたいものだ。
 この5月から7月にかけても何度か聴く機会があった。まだブログに書いていないものでは、5月23日(土)の「檜垣」(シテ:浅井文義)と6月7日(日)横浜能楽堂での「清経」(シテ:山本順之)が印象に残る。特に老女物の「檜垣」では、現在、一噌仙幸氏の右に出るものはないだろう。
 同じ「序ノ舞」でも曲によって趣が変わる能の囃子の世界は、素人には把握し切れない深い世界だ。しかも、「序ノ舞」を舞うようなシテの役柄は、喜怒哀楽を直接的に表現するような役ではないから、具体的な描写を離れたイメージを表現しなければならない。「檜垣」は、浅井文義氏の進境もあって、銕仙会の能にしばしば見られる写実的な色合いの濃さが影を潜めた好演だったと思う。そこには、一歩退いたようでいて存在感のある笛の音が欠かせなかった。
 能楽でも笛方の人間国宝は、一噌仙幸氏が史上2人目だ。それは、先人藤田大五郎の存在の大きさを物語るものでもある。一噌仙幸氏には、笛方諸流の中でも一番地味な一噌流の魅力を十分に伝えて行ってもらいたい。
posted by 英楽館主 at 23:57| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

能「千手」の魅力

 能の話を書こうとすると、クラシック音楽や文楽に比べると知識不足だということもあり、どうも書くのが遅くなりがちです。1か月前の舞台の話を今更という感じですが、幾つかまとめて能の話題を書いておきます。

5月21日(木) 18時30分 国立能楽堂企画公演
 能「千手」郢曲
 シテ(千手の前):大槻文蔵
 ツレ(平重衡):観世銕之丞
 ワキ(狩野介宗茂):森常好
 笛:一噌隆之
 小鼓:鵜澤洋太郎
 大鼓:守家由訓
 地頭:山本順之
地謡:若松健史・阿部信之・北浪昭雄・武富康之・長山桂三・泉雅一郎・谷本健吾
後見:赤松禎英・清水寛二

 能「千手」を見たのは、初めてではないがかなり久しぶりだ。おそらく15年以上見ていなかったと思う。シテとツレが扇を手に見つめあう型や、後朝の別れで2人がすれ違う型など、舞よりも後の「型の連続」の面白さはわかっていたつもりだが、時間をおいて再見して、この曲の面白さに開眼したような気がした。
 蝋燭能で、脇正面の席から見たのも一因かもしれない。舞台中央にシテが立ち、ワキ柱のそばで床机に腰掛けたツレに向かい合うと、ちょうどシテの背中越しに見るような形になるので、正面から見る場合に比べると、シテの心情に添って作品を鑑賞するという性格が強くなるからだ。
 私が、この日、つくづく魅力的な曲だと感じたのは、クセの部分である。「今は梓弓」以下、平重衡が一ノ谷の合戦で生け捕られてから都、の経緯が語られるのだが、気づいてみれば、このクセはシテ(千手の前)の「語り」なのである。「語り」というものは、普通は、自分自身の直接体験を語ることが多いものだが、ここでは、護送されて下って来た重衡と鎌倉で初めて出会い、逢瀬を重ねた千手の前が、自分が出会う前の重衡の人生を語っていたことに、前回までは気づいていなかった。「語る」というのは、その内容を自分の中にしっかりと取り込まないと出来ない行為である。他人の、それも共有した時間ではなく、出会う以前の人生について「語る」ということは、終わった男女関係を「語る」こととは全く違う。千手の前が、重衡の体験を幾度も聴き、それも厭々聞かされるのではなく、よほどの共感を抱きながら繰り返し聴いていたとしても、誰にでも出来ることではない。こう書いている私には出来ないことだと思うし、英楽館の読者の方の多くもそうだろう。単なる重衡への愛情や共感だけでなく、他の男性から聞かされた戦物語の経験、あるいは自身で東海道を往復した経験などがなければ、とても想像力が及ばないに違いない。千手の前が多感で聡明な女性であることも必要条件だ。また、三河の国の「八橋」の地名は、千手の前が重衡を在原業平に重ねていることを表していて、恋の情緒につながる巧みな表現だ。
 大槻文蔵のシテは、この人の他の舞台と同様に容姿が美しい半面で謡が弱いが、「千手」は舞クセで、長所が活きた舞台だった。また、この能では、シテとツレの相性も大事だと思うが、観世銕之丞とはよく呼吸が合っていると感じられた。山本順之や若松健史らの地謡もしっかりとしていて、囃子方が若い顔ぶれだが全体によくまとまった舞台だったと思う。「郢曲」の小書が付いたので、舞は中之舞だった。
posted by 英楽館主 at 18:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 能楽雑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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