2016年01月01日

ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサート 2016

 今年もテレビでウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを楽しんだ。マリス・ヤンソンス指揮の今年は、とりわけ面白かったように思う。

1.マリス・ヤンソンスの魅力
 ヤンソンスの指揮の巧みさを存分に味わうことが出来た。「ニューイヤー・コンサートは誰が振っても大差ない」と感じる年もあるが、今年はそうではなかった。じっくりと歌わせながら、ワルツ特有のリズムは印象深く聴かせるヤンソンスの指揮の巧みさが光っていた。それだけではない。ニューイヤー・コンサートでは初めてという曲を半分近く取り上げるというのも、単に「同じ曲の繰り返しではつまらない」というだけではなく、ウィーン・フィルのメンバーをリハーサルから本気にさせるための仕掛けでもあったと思う。
 ニューイヤー・コンサートのプログラムは、ワルツの他、ポルカやギャロップなど様々な曲種で組み立てられているわけだが、ワルツに限定して発言するならば、たっぷりと歌わせるところは歌わせていて、フォルテになって(例えばトロンボーンが入って来て)もじっくりと演奏し続けているところが、余人にはなかなか真似の出来ないところだと思う。また、後半の「皇帝円舞曲」や「美しく青きドナウ」などの「タタタンタンタン」というお決まりのリズムが綺麗に決まっているところなどにも感心した。
 ラデツキー行進曲の後、聴衆が総立ちになっている光景も印象深かった。

2.NHKの中継番組の面白さ
 過去のニューイヤー・コンサートについてのライナー・キュッヘル(元ウィーン・フィルのコンサートマスター)へのインタビューが短いけれども面白かった。共演して印象に残る指揮者を聴かれたキュッヘル氏は、「マゼールのポルカ・マズルカのテンポが絶妙だった」という趣旨の発言をしていた。これは私には予想もつかなかったものだ。(正直に告白すれば、私は「カルロス・クライバーは面白かった」といった発言を期待しながら見ていた。そういう方は少なくなかったに違いない。)拙文を読んでくださっている皆さんの中でも、「ポルカ・マズルカ」のテンポはかくあるべしと持論を展開できる方は少ないに違いない。「ポルカ・マズルカ」というジャンルについて勉強してみたいと思わせる発言だった。

3.ヤンソンスも歳を取った!
 失礼ながらマリス・ヤンソンスも歳をとったものだと感じた。父のアルヴィッド・ヤンソンスの最後の来日を聴いている私は、マリスが、アルヴィッドが亡くなった年齢を既に越えていることに妙な感慨を覚えた。持病を抱えているマリスだが、元気で少しでも長く指揮を続けてくれたらと願う。
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2015年05月18日

スダーン&東京交響楽団 モーツァルトとフランク

2015年5月14日(木) 19時 サントリーホール
東京交響楽団第630回定期演奏会
[プログラム]
モーツァルト:交響曲第31番ニ長調K.297「パリ」
同:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
フランク:交響曲ニ短調 作品48
ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団
フルート:高木綾子
ハープ:吉野直子

 久しぶりにコンサート評を書こう。3年前に今の学校に移ってから、めっきり更新が減ってしまっている。加えてPC環境の劣化(Windows Vistaのノートの老朽化)が更新への意欲を失わせる。今朝も、通勤時に30分以上座れるから書き始めたが、PCの立ち上げに20分近く。書く時間は残りの10分というひどい状態を何とかしないといけない。

 東京交響楽団は、音楽監督がノットに代わって2シーズン目に入った。前音楽監督のスダーンを迎えての定期演奏会は、パリで初演された作品を集めたプログラム。1曲目の「パリ交響曲」は、ピリオド奏法で、特にトランペットはナチュラル・トランペットを使うが、対向配置は採用しないという選択。1778年当時のパリのオーケストラの配置について詳しく知らないが、資料に基づいた選択なのだろうか。弦は当時のパリのオーケストラのような大編成ではなく10‐8‐6‐6‐4の編成。パリでの初演よりも人数は少ないけれど、ピリオド奏法で各パートの動きは埋没せず活き活きと聞こえて飽きない。トランペットの楽器の違いは、全体の響きを実に大きく変える効果がある。こうしたスタイルを取るオーケストラが日本でも増えてほしいものだと思う。
2曲目のフルートとハープのための協奏曲、ソリストは日本の女性を代表する2人。高木綾子は、小柄だがしっかりと息のあるフルートを聴かせてくれる。ハープの吉野の安定感は抜群でハープの守備範囲を知り尽くしてしっかりと押さえている。この曲は、特に第3楽章のオケに音のない場面でハープのためにオーケストラの音量をコントロールするのが難しく、冗長に感じられる場合もある曲だと思うが、ハープの守備範囲をしっかりと押さえて演奏している。
 後半のフランクもスダーンらしい演奏。好みが分かれるところだろうが、私は好きだ。具体的な特徴を2つあげておくと、棒無しで指揮するスダーンの呼吸感がよく出ていることと、各パートの音色がよくブレンドされた響きになっていることだろう。
 棒を持たずに4つ振りで進められて行く冒頭の循環主題には、1小節ずつの息遣いがしっかりと感じられる。主題の1小節目と2小節目は4拍目が休符になっているわけだが、この休符を、息を詰める時間ではなく次のフレーズに向けて呼吸する時間にしているのがスダーンのフレージングの特色だ。もっと張り詰めた間合いの取り方もあるだろうが、フランクの他の作品との共通性という点では、自然なやり方だと感じた。また、どこか特定のパートを強調すると言った操作を好まず、弦のバランスを作る際に第1ヴァイオリンをあまり強く弾かせないために、各パートの音色がよくブレンドされている半面で、対旋律も含めて、注意深く聴いていないと混沌と聞こえるのもスダーンの特質だと思う。CD等でもっと輪郭のはっきりした演奏に親しんでいる方には、「何が言いたいのかもどかしい」という感じ方もあるだろう。私は、第2ヴァイオリンやヴィオラが、特に指示された時だけ強く弾くというスタイルよりも、常に各パートが自然に弾いた結果として弦の響きが出来あがるような演奏が好きだから、この点でも楽しんだ。
 概ね楽しんだ演奏だが、いくつかの心残りも記しておけば、第2楽章冒頭のピツィカートは、より表情豊かなやり方もあったのではなかろうか。また、第3楽章で第2楽章の主題が回帰する瞬間は、管のブレスをもっと合わせて明確に主題を響かせても良かったのではなかろうか。
それにしても、スダーンにはまた時々登場してもらいたいものだと感じた。
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2014年07月21日

メッツマッハーのベートーヴェンが凄い!

メッツマッハーのベートーヴェンが凄い!

7月18日(金) 19時15分 すみだトリフォニーホール
ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』Op.43序曲
B.A.ツィンマーマン:わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た(1970)※
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調Op.67
※=日本初演
バス:ローマン・トレーケル、語り:松原友、多田羅迪夫

 先週末から10月初めにかけての新日本フィルの定期演奏会は、夏休みを挟んで4回連続でメッツマッハー指揮でベートーヴェンとベルント・アロイス・ツィンマーマンの組み合わせ。ベートーヴェンはともかく、これほどまとめてツィンマーマンに取り組む企画は珍しい。初回の13日(日)サントリーホールの公演は、勤務校の野球部の生徒たちの応援で球場に足を運んだ関係で後半のベートーヴェンの「英雄」しか聴けなかったが、新日本フィルから、とても引き締まった音色が引き出されていて印象深い好演だった。学期末の繁忙期を乗り越えて、昨日は、ようやくプログラムの最初から、ベートーヴェンとツィンマーマンのプログラムを最初から楽しむことが出来た。また、昨晩は、偶然だが、今週の公演リハーサルでメッツマッハーの通訳を務めたKさんと隣の席だったので、リハーサルの様子をいろいろとうかがうことが出来たのも楽しかった。
 結論から言えば、どの曲も新鮮で、特に第5交響曲は、これまで何百回と聴いて来た中でも長く記憶に残るに違いないすばらしい演奏だった。

 1曲目は『プロメテウスの創造物』序曲。5分ほどの小品だが、よく書けていて聴き飽きない曲だと思う。メッツマッハーからはリハーサルで、「この曲が作曲された頃のウィーンはロッシーニが大流行していた時代だったので、ベートーヴェンはロッシーニよりももっとロッシーニ風の作品を書こうと意識して作曲した」のだという趣旨の説明があったそうだ。なるほど、コーダの長いクレッシェンドはロッシーニ・クレッシェンドへの対抗意識を持ちながら書かれたというのは興味深い話だ。
 序奏の3〜4小節の力強さとオーボエのソロの品格のある音色、力感みなぎるアレグロ。その展開を打ち切ってコーダのクレッシェンドに持ち込む8小節の剛直な推移部も、ベートーヴェンらしさが横溢。こういう瞬間は、ロッシーニとベートーヴェンでは頭に思い描いている音楽が根本的に違うと感じる。体操の宙返りに譬えるなら、ロッシーニは身を屈めてクルクル回るイメージだが、ベートーヴェンは体の済みまでピンと張りつめた伸身の宙返りと言ったところだろうか。最後のフォルティッシモの音を短めに切る終わり方も鮮烈だった。

 2曲目のツィンマーマンの遺作は、社会的な問題意識の高さと精緻な作曲から、1960年代後半という時代の雰囲気をも振り返ることの出来る傑作。Kさんが通訳のお仕事上持ち歩いておられたピアノ・スコアを見せてくださったのだけれど、例えばライマンのオペラなどとは全然違って、声楽のソロは音程が取れないような難解な楽譜ではない。1分の1拍子が多用されている点にも特色がある。1拍子というのは、拍の流れよりも呼吸感が深く感じられる拍子で、それが、ドイツ語のテクストが鮮明に聴き取れる作曲とも密接に絡んでいると思われる。語り手2人とバス歌手が担当するテクストはツィンマーマン自身が聖書とドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』からまとめたものだ。
さて、実際の演奏を聴くと、オーケストラの楽譜はとてもきめ細かく書かれている。打楽器は、何かを叩く音だけでなく、新聞紙などの紙を破るという「特殊奏法」も要求されていて、その乾いた響きが、社会への絶望に満ちたテクストの雰囲気を聴衆に伝える上で大きな効果を発揮している。ソロや語りの言葉の間にちょっとずつ挿入される間奏も、テクストの性格を端的に表していて、思わず引き込まれてしまう。後半、聖書からのテクストを語り続けていた第1の語り手もドストエフスキーを語り出すという(意図された)混乱が生じて来る場面で、語り手には、自身が床を踏み鳴らすなどの身体運動が要求されているが、これもまた、追いつめられて行く感覚の表現としては絶妙。自分の身体を「楽器」にして声を響かせることに馴れている歌手たちが、自身の進退を言わば撥にして床を叩く役目を求められる。この語り手は、精神的に相当にキツイ役だと実感。40分近い長さだが、全曲を聴いても長いとは感じなかった。むしろ、ツィンマーマンを才能豊かな作曲家だと発見する幸せを感じたと言っていいだろう。

 後半の交響曲第5番も、最初から最後まで極めて充実した演奏。誰もが聴き馴れた曲を、よくぞここまで見直しをした上で再構築してくれたと感服する。オーケストラからアクティヴな反応を引き出そうとするメッツマッハーの指揮はとても精力的。50代の今だからこそ出来る演奏でもある。隅々まで指揮者とオケの意志がみなぎっていた第1楽章。ここでもまた、再現部のオーボエのソロ(古部賢一)の品のある音色が味わい深かった。第2楽章は、弦の柔らかい響きと各自がアンサンブルの中での役割を明確に意識した木管のメリハリのある響きが印象に残る。特にファゴット(河村幹子)が好演。第4楽章は第1主題とノン・ヴィヴラートを採り入れた第2主題の性格の描き分けがこんなに鮮やかに出来るのかと感服。聴きながら、次回の第7番イ長調の第1楽章などで、どこで解放弦を使って鮮烈な響きを作り出してくれるかなど、これから先のメッツマッハーのベートーヴェンを聴くことが心から楽しみになった。
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2014年06月28日

モルゴーア・クァルテット 第40回定期演奏会

モルゴーア・クァルテット 第40回定期演奏会

2014年6月26日(木) 19時 浜離宮朝日ホール
リゲティ:弦楽四重奏曲第2番(1968)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番変ロ長調Op.138
*     *     *
ピンク・フロイド:原子心母(1970)
キング・クリムゾン:レッド(1974)
イエス:危機(1972)
(アンコール曲)
キース・エマーソン:ザ・ランド・オブ・ライジング・サン

 モルゴーアのメンバー4人は、それぞれが所属する楽団で重責を担いながら、年に2回の定期演奏会を20年にわたって続けて来た。そのお祝いでのモルゴーアのオーラを前面に出したコンサート。ロックの編曲が話題を呼んだ場合に備えて、初めての昼夜2回公演。彼らの精力的な活動ぶりにまず敬意を表したい。

 ところで、作曲家の中には、CDで聴くだけでは作品の真価が伝わらないという人がいる。もちろん、誰の作品でも生演奏で聴くことは大切なのだが、リゲティほど生演奏に接する意義を感じる作曲家は、そう多くは見当たらない。今回、私は弦楽四重奏曲第2番を聴いて、改めてリゲティの資質・才能に感服した。
 弦楽四重奏曲第2番は5楽章構成。特に最終楽章で細密な音の動きがリゲティならではの独特の世界で、まるで音そのものだけではなく音が響く空間、空気まで聴いているような錯覚を聴く者に与える。その感覚は『アトモスフェール』や『ロンターノ』と言った管弦楽曲の代表作と軌を一にするが、それらの単一楽章の作品と違って、5楽章構成で、聴く者の音感・リズム感が様々に刺激されて作曲家の意図した世界に巧妙に導かれて行く感覚を味わえるのが、この弦楽四重奏曲第2番の独特の面白さなのだろう。
 そう考えると、第1楽章冒頭のフェルマータ付きの休符から、聴衆は耳をそばだてて音を聴こうとする神経のスイッチを入れさせるように仕向けられ、第2楽章では微分恩の微細な音程の感覚に、第3楽章はピチカートで醸し出されるリズムの可能性に、第4楽章は強弱や音の高低の幅の広さに対して耳を適応させて行くという点で、それぞれの楽章が第5楽章への伏線になっていると解釈することが可能である。
 演奏もモルゴーアらしい精密かつ作品に誠実なものだった。そして弾いた彼らだけでなく、「やっぱりリゲティは凄い!」と感じたことが大収穫。

 ショスタコーヴィチの第13番は、緩急緩の単一楽章形式。プログラムの曲目解説で池辺晋一郎氏が指摘している通り、「曲頭と曲尾のアダージョが、スケルツォ的な中央部分のいわば額縁にもなっている構造」なのだが、18〜19世紀の音楽のダ・カーポでのシンメトリーな構成と違って、一旦は踏み出したスケルツォの世界に、どこか恐る恐る、探りながら後退して行くような曲尾のアダージョへの推移に、この第13番ならではの味わいがあるのではないだろうか。私は、この曲を生では初めて聴いたかもしれない。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を数多く初演したベートーヴェン四重奏団のヴィオラ奏者ボリソフスキーの70歳を記念して彼に献呈された曲なので、単にヴィオラが活躍するだけでなく、ヴィオラに高音域が多用されているのが特色。弟子ドルジーニンの弟子であるバシュメットが美しい高音を奏でることを思い起こせば、ボリソフスキーの音を聴いたことのない方でも作曲家の念頭にあったイメージが少し共有出来るのではないだろうか。
そんな曲を弾かねばならないヴィオラ奏者は大変だが、モルゴーアでは小野富士が力演。

 後半は同じ1970年前後イギリスのロックから第1ヴァイオリンの荒井英治が編曲した3曲。忙しい演奏活動の合間を縫っての荒井の編曲への熱意には毎回の事ながら頭が下がる。この時代のロックが単なる商業主義に堕していなかったことは私なりに理解出来たし、元のアルバムも聴いてみたいと思わないわけではない。ただ、浄瑠璃を聴くという私のもう一つの専門を考えると、ロックに手を出すのは守備範囲の広げ過ぎにならないかという危惧もある。アンコールは2011年3月11日の震災の被災地に捧げられたピアノ曲の荒井英治編曲による弦楽四重奏版。
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2013年12月31日

2013 私の音楽ベスト10

2013年 私の音楽ベスト10
@ エサ・ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管、レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)(2月7日)
A びわ湖ホール ヴェルディ『椿姫』(3月9日)
B ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)、ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ、ショパン:ピアノ協奏曲第1番、第2番(4月5日)
C 東京二期会 ヴェルディ『マクベス』(5月)
D ユベール・スダーン指揮東京交響楽団、東響コーラス他、モーツァルト:『戴冠ミサ』&『レクイエム』(バイヤー版)(4月)
E アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル レスピーギ三部作(5月31日)
F 日生劇場 ライマン『リア』(11月10日)
G ヤクブ・フルシャ指揮都響 スーク:交響曲第二番「アスラエル」(11月19日)
H チョン・ミョンフン指揮東京フィル『トリスタンとイゾルデ』(11月23日)
I ポール・メイエ(クラリネット)、アルティ弦楽四重奏団(豊島泰嗣・矢部達哉・川本嘉子・上村昇)(12月11日)
※ 複数回聴いたもの、観たものは月のみの表示。
[短評]
@とDは、現代楽器のオケにピリオド奏法を採り入れた演奏として秀逸だった。またDはアマチュアの合唱団がモーツァルト2曲を1ステージで歌い、かつ高水準の歌唱を聴かせた点でも出色だった。
Aは安藤赴美子のヴィオレッタと歌手としての経験を活かしたアルフォンソ・アントニオッツィの演出を楽しんだ。沼尻竜典のオペラ歌手としての進境も実感。
Bは、ピアノをろくに弾けない筆者にとって、ショパンの協奏曲の評価を根底から覆してくれる素晴らしい演奏だった。アヴデーエワはショパン・コンクール優勝直後に来日してN響に登場した時とは全く別人の印象。
Cは、人間とはいかに量り難い存在かを思索したコンヴィチュニー演出が今回も鮮烈。特に、魔女の釜に放射性廃棄物のドラム缶を放り込む場面が印象に残った。コンヴィチュニーの演出の根源にはソフォクレス『アンティゴネー』の「人間とは不思議な存在だ」(別訳「人間とは不気味な存在だ」)という言葉があるように感じられた。
Eは、バッティストーニの今後の可能性に瞠目。東京フィルとの今後の共演に期待したい。
Fは、下野竜也指揮読売日響の好演と二期会の歌手陣の総力を挙げた力演でこれからも記憶に残って語り継がれるであろう貴重な舞台となった。
Gは、筆者にとって生では未知だった曲との出会いを楽しむと同時に、フルシャと都響の演奏の一体感が見事だった。
Hは、歌手はまずまずだったが、それ以上にチョン・ミョンフンと東京フィルが醸し出した深い音色が忘れ難い。かつて定期的に東京フィルを指揮していた時代には得られなかった音楽的な成果が10年余りの歳月を経て熟成されて来た。
Iは、メイエとアルティ弦楽四重奏団、双方の柔らかな音色が響き合って、稀有の水準の演奏(特に矢部達哉が第1ヴァイオリンを担当したブラームスの5重奏曲)。
[音楽時評]
 本業の都合で、筆者が「評論家」として執筆をするようになった1998年以来、最も実演に接する機会の取れなかった1年だった。特に、行けなくなる危険性の高い外来のアーティストの公演チケットを買うことを避けたため、国内の演奏家に偏った嫌いはあるが、批評家で国内のオーケストラを丁寧に聴いている人が少ない現状を考慮すれば、私の「ベスト10」を公表することにも意味があるだろう。
 ところで、中学生時代から日本(主として在京)のオーケストラを聴いて育って来た筆者にとって気になったのは、オーケストラの定期会員券の販売や継続がネットで行われる動きが出て来たことである。時代の趨勢として当然のこととは思うが、楽団員の音楽的な精進とは別次元で、事務局の努力の差が、チケット販売力の差につながってしまうのではないかという危惧を抱いている。在京オケでこの秋の、新年度に向けての継続にネットでの席替えを実施したのは、都響と読響。(東響、東フィル、シティ・フィルはまだネットでの継続は実施していない。)両者を比べると、少なくとも定期会員への配慮という点ではほぼ全ての面において読響が劣る。その原因は、
@ 読響事務局がチケット販売部門をチケットぴあに丸投げしていること
A 読響事務局側が、チケットぴあのシステムへの検証を怠っていること
に主たる原因があるようだ。この件については、継続の手続きが完全に終わってから論評をする予定である。
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2013年11月17日

読響チケットセンター(ちけっとぴあ)は酷過ぎるのではないか?(1)

コンサートの批評は、今どきは、批評家のものに限らず、ネット上でもいくらでもある。従って、オーケストラの演奏力については、日夜批評にさらされている。だが、オーケストラ事務局の事務能力については、あまり問題にされない。4月からの年度で会員券の継続をするオーケストラの2014年度への継続手続きが進みつつある今の時期、2013年4月からチケットセンターの業務をちけっとぴあに「業務委託」した読売日本交響楽団の不手際があまりにも目立つので、敢えて指摘することにしたい。

[時代の流れ?]
読響だけでなく、都響も今回の継続からネットでの手続きを行うようになった。事務局の合理化を図っていく上では、今後、このような流れは広まることが予想される。

[ネット手続き以前の問題@〜会員番号]
ネット手続きを行うためには、「会員番号」が必要になる。
これまで、チケット購入などの際に会員番号が明記されていたオーケストラはN響だけだったが、この秋から、読響、都響もネット手続きに伴って会員番号が各会員に通知された。
ちなみに、私の場合、N響はかつては「いつでも入れる」という意識で入ったりやめたりしていたが、B定期のサントリーホールへの移行(1998年9月)が明らかになった1996年からはずっと続けているため、現在の会員番号は「96」から始まる数字になっている。また、1977年1月から定期会員を続けている都響の場合、3桁の数字が送られて来た。担当者によれば、現在、大多数の会員は5桁の番号を持っているそうだ。当時は、現在のプロムナードコンサート(当時はファミリーコンサートという名で、東京文化会館以外の都内の会場も回っていた)などは会員制度(連続券)の対象外だっったから、おそらく、都響創立以来の会員に事務局が振ってきた番号がそのまま使用されたものと思われる。
これに対して、読響チケットセンター(ちけっとぴあ)は、会員に対して、「5340…」という10桁の番号を送ってきた。問い合せたところ、この最初の4桁は、ぴあのシステムの中で「読響」を意味する番号なのだそうだ。ぴあのシステムは、既に新国立劇場やジャパンアーツなど様々な劇場やマネージメント会社の業務も請け負って来ているから、これは理解できる。問題は、10桁のうちの残り6桁の意味がよくわからないことである。ちなみに25年来の読響会員の私の場合、5桁目は「1」である。もし5桁目から9桁目が歴代の会員に振られた番号で、最後の桁が誤操作を防ぐために割り振られた乱数であると解釈すれば、納得できない数字ではないのだが、だとすると、都響と同様に5桁の番号を持つ人がたくさんいるなら、システムの安定的な運用のためには、実質的な会員番号の部分を6桁に設定しなかった意味がわからない。

読響チケットセンターが割り振って来た会員番号がどのような意味を持つのかについては、今後、問い合わせをして、その結果を公表して行こうと思っているが、もし十分な考えなく、現在の会員に適当に割り振ったとしたら、大変な問題だ。

オーケストラの場合、1回限りの公演のチケットを売るマネージメント会社やホールとは顧客との関係が全然違う。ウィーン・フィルの定期会員券が親から子へと引き継がれて行くように、日本のオーケストラの演奏の質が高くなればなるほど、「親の代から」「祖父母の代から」引き継がれた会員券というものが出て来るかもしれない。長年、オーケストラの会員として聴いていると(私の場合、現在の最長は中学1年生で入った都響で、現在37年目である)、時々、ホール替えを経験することになる。現在持っている会員券も、途中で継続が途切れているもの(東響や日本フィルは上野で会員だった時とサントリーで会員だった時はつながっていない。現在は日本フィルは会員ではない。)もあるが、

都響 @AB両シリーズの開始に伴う席替え 
   ABシリーズのサントリー移行に伴う席替え
読響 定期演奏会のサントリー移行に伴う席替え
新日本フィル 東京文化会館からオーチャード移行とサントリー移行
       東京文化会館からすみだトリフォニー移行
N響 B定期のNHKホールからサントリー移行

を経験して来た。
例えば、こうしたホール移行の際などは、事務局が新しいホールでの座席を適切に提案しないと、席替えが収まらないだろう。その場合には、当然、優先順位が存在すると考えられる。例として、東京文化のようなホールから他のホールに移行する場合、1階の通路際座席が足りなくなることが考えられる。その場合の優先順位は、
@ 体に障害があるなど、社会的配慮が必要な方
A 長年の会員
の順であるのが当然だろう。例えば、30年間通路際に座っている会員と1年間通路際に座っている会員では、事務局が頭を下げてでも、後から入った方に通路際以外の席に移っていただくしかないのだと考える。

そもそも、事務局の業務委託をしてしまった場合、ホール替えのような事態に対応できないのではないかという危惧がある。
読響から今回割り振られた会員番号を見て、私がまず思ったのは、こうした事態に場当たり的な対応で望まれては困るということである。

[ネット手続き以前の問題点A〜担当者の経験不足]
新しいシステムを導入する場合、多少の不具合は人的対応でカバーするしかない。だが、問題は、担当者の経験不足で、顧客の側が何を気にするのか、十分に理解されていないことが問題だ。今回、都響の担当者とも読響(=ちけっとぴあ)の担当者とも電話で直接話をしているので、「あなたはオーケストラの定期会員券を買ったことがありますか?」という質問をしているが、答えは揃って「NO」である。

例えば、スーパーのレジのシステム変更を担当するSEなり会社側の担当者がスーパーで買い物をしたことがないという事態はまずあり得ないだろう。航空券の発券システムや鉄道の発券システムの担当者が飛行機や鉄道の切符を買ったことがないという事態も考えにくい。だが、オーケストラの定期会員券(連続券)は、誰もが買ったことがあるわけではない。経験のない担当者が、コンピューターの常識や、1回限りの興行のチケット販売の常識でシステムを設計しているから、やたらと問題が発生するのである。

今回はここまでにしよう。読響チケットセンターの問題点については、以後、続けて書くことにしたい。
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2013年05月04日

スダーン&東響、東響コーラスのモーツァルト

4月20日(土) 18時 サントリーホール
4月21日(日) 14時 ミューザ川崎

モーツァルト:ミサ曲ハ長調 K.317「戴冠ミサ」
同:レクイエム ニ短調 K.626(バイヤー版)
アンコール モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618

指揮:ユベール・スダーン
ソプラノ:サビーナ・フォン・ヴァルター
メゾ・ソプラノ:ステファニー・イラーニ
テノール:福井敬
バス:パトリック・シンパー
合唱:東響コーラス(合唱指揮:安藤常光)
管弦楽:東京交響楽団

 4月の東京交響楽団は、音楽監督ユベール・スダーンが登場。オーケストラ以上に驚異的なスケジュールをこなしているのは、東響コーラスである。3月下旬にマーラーの『嘆きの歌』、4月7日(日)にミューザ川崎の再オープンのコンサートでブルックナーの『テ・デウム』を歌って、その2週間後に、今度はモーツァルトを2曲いっぺんに歌うプログラム。全メンバーが全ての公演に出演しているわけではないとしても、アマチュア・コーラスとしてはよくぞここまでやってくれると快哉を叫びたい。「戴冠ミサ」は、美しい旋律に溢れる曲だけれど、演奏会の後半の言わば「メイン」としては短いために、日本のオーケストラの演奏会では、そう頻繁に聴けるわけではない。4月の公演プログラム中の船木篤也氏との対談の中でスダーン自身も「震災後、サントリーホールを満席にするということはとても困難なことですから。」と語っている通り、「戴冠ミサ」だけでは大勢の聴衆を集めることが難しいだろう。東響コーラスに、既に何度も歌っているとは言え、人気曲『レクイエム』と一緒に歌いこなしてしまう安定した実力(メンバーは2曲とも暗譜で歌う)とスダーンとの信頼関係があってこそ、「戴冠ミサ」で優れたソリストを招いて充実した公演が出来るのだと感じる。
 
 さて、その「戴冠ミサ」。キリエもグローリアもハ音から始まる明るさが耳に心地よい。今回の合唱は総勢90名(女声が約25名ずつ、男声が約20名ずつ)という編成だが、実によく音程やディクションが揃っていて、ミサの典礼文の意味がしっかりと伝わって来る。オーケストラは、トランペットがナチュラル、ティンパニーが革でペダルのない古風なスタイルの楽器を使用して演奏していた。現代楽器のオーケストラでも、トランペットだけ変えると、本当に大きく響きが変わる。2月に来日したフィルハーモニア管もエサ・ペッカ・サロネンとのベートーヴェンでこの方法を選択して大きな効果をあげていたけれど、宗教曲の場合、ハ長調やニ長調というトランペットの入る調性を曲の冒頭ではっきりと示すし、調性に安定感のある曲想が続くのが常だから、交響曲以上に効果的だ。
 第3章クレドは、聖体拝領の場面で合唱から独唱陣のアンサンブルに切り替わる瞬間の間合いが良く、モーツァルトが意図した宗教曲の様式の中での劇的な音楽作りが十分に実現されていた。第4章サンクトゥスと第5章ベネディクトゥスは、合唱による「いと高きところにホザンナ」という共通の結びによって一体感が生み出され、この作品全体の印象をも強固なものにしてくれている。第6章アニュス・デイは、何よりもソプラノのサビーナ・フォン・ヴァルターの声が素晴らしい。「miserere nobis」というテクストを無垢な祈りとして絶妙に客席に届けてくれた。そして合唱の「dona nobis pacem」も、明るくすがすがしかった。
 後半の『レクイエム』(バイヤー版)は、冒頭の「入祭唱」から早めのテンポだったが、『戴冠ミサ』にはなかった息の長いフレーズ感がしっかりと表現されていた。『戴冠ミサ』が1779年、『レクイエム』は死の年の1791年で、両者には12年の開きがあるが、それが実感として味わえるのも、同じモーツァルトを2曲まとめて演奏してくれたからだ。セクエンツィアの第3章「Rex Tremendae」で、スダーンは、冒頭の「Rex」を母音を延ばさず一飲みで歯切れ良く歌わせていた。この章の結び近くの「Salva me」の部分は弱音で合唱の音程が顕わになる箇所だが、東響コーラスは各パートの音程のまとまりが良く(特に3回目の女声)、繊細で「我を救い給え」というテクストの意味もしっかりと伝わる歌唱に仕上がっていて感心した。後半も、ジュスマイヤー版だと補筆されたオーケストレーションにいつも違和感を抱くのだが、今回の演奏はそうしたぎこちなさをほとんど感じなかった。例えば「サンクトゥス」。弦のアーティキュレーションが異なるためか、速めのテンポでフレーズが途切れない感じがよく表現されていた。全曲を通して密度の濃い『レクイエム』を堪能。なお、『レクイエム』ではバセット・ホルンを使用していた。
 翌日の21日も、再開後のミューザ川崎に初めて足を運んだ。あいにく東海道線の工事運休があり、遅刻して『戴冠ミサ』前半を聴き損なったが、前日にも楽しんだ演奏内容のみならず、例えばバセット・ホルンの音色がサントリーホールで聴いた前日よりも際立って聞こえるなど、ホールの響きの良さも楽しむことが出来た。
 スダーンが音楽監督の任期中に東響コーラスと共演するのはこれが最後だ。次期音楽監督のノットは古典よりは近現代に力点を置いたレパートリーの持ち主なので、私は、今後もスダーンと東響コーラスとの共演に期待している。
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2012年12月31日

ダン・タイ・ソン ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲チクルス 2日目

 前回の記事の後、また長いブランクになってしまいました。例年なら1年の回顧を書いている大晦日ですが、取り急ぎ11月中に書いてあった前回の記事の続きをアップしておきます。
 皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
                                     英楽館主

11月8日(木) 19時 すみだトリフォニーホール

ピアノ独奏:ダン・タイ・ソン
指揮:クラウディオ・クルス
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 作品58
同:第5番変ホ長調 作品73

 前夜に引き続き、ダン・タイ・ソンのベートーヴェン協奏曲チクルス後半を聴く。ダン・タイ・ソンは、第1日も、第1番・第2番と第3番では同じピアノでも違う鳴らし方をしているなど、5曲全体に対する見通しを持っているという印象を受けたが、後半の2曲でどういう深まりを見せてくれるのか、期待しながらすみだトリフォニーに足を運んだ。
 新日本フィルの関係者の話では、ダン・タイ・ソンは、今回は初日のリハーサルで5曲全部弾きたいと言い、楽団側もその実現のために相当な努力を払ったようだ。普通、プロ・オケのリハーサルは2時間1コマで、昼食休憩をはさんで午前・午後の計4時間で行われるが、11月5日(月)はダン・タイ・ソンの希望で1曲1時間ずつのリハーサルを行ったとのこと。楽団員や組合も協力し合って、2晩の全曲演奏会が作り上げられたということになる。私が感じたダン・タイ・ソンの真摯さや全体に対する見通しと、制作の過程とが一致していたということにもなるだろう。
 もう1点、聴き手の自分についての情報を付け加えておこう。すみだトリフォニーホールでは、これまでゲルハルト・オピッツやブルーノ・レオナルド・ゲルバー、エデルマンなど、何人ものピアニストでピアノ協奏曲全曲チクルスを行って来たが、2夜連続で聴けたのは今回が初めてだ。私は、ベートーヴェンは好きで、交響曲の全曲チクルスや弦楽四重奏曲の全曲チクルスはこれまで聴いて来たけれど、実はピアノのチクルスを聴いたことがなかった。ピアノ・ソナタの場合、回数が多過ぎて全てのスケジュールを合わせるのが難しいからだが、ピアノ協奏曲のチクルスも初めてだったというのは、我ながらピアノを聴く経験は多いとは言えないことを改めて実感する。

 さて、前半は第4番。この曲はピアノ独奏から始まることで知られているが、ダン・タイ・ソンの弾く冒頭のソロを聴いて、私はふと、「ベートーヴェンは、どんなタッチで弾いたのだろう」という想像をしてしまった。それほど美しいタッチだったし、この作品の中での冒頭のソロの大切さを十分に意識した演奏だった。
 それにしてもこの冒頭のソロは、二度や三度のあまり跳躍のない音程を組み合わせた穏やかなメロディーと1オクターヴの上昇音階から成り立っている。3小節目までの動きが抑制されている分、4小節目での右手単音のオクターヴは鮮やかに聴こえるように作曲してあると言っても言い過ぎではないだろう。その後のオーケストラ・パートは、ピアノと同じメロディーのようでいて、実は音階を避けて動いて行く。オーケストラのパートに音階が出て来るのは50小節も後のことである。こうした作曲をしているのは、ベートーヴェン自身がソリストとして通用するピアノの腕前を持っていて、独奏者のタッチの美しさをどこでどう見せるのが効果的かを第1番の頃よりも深く考えていたということなのだろう。これまで何度もこの曲を聴いていたけれど、こんな当たり前のことに今さら気付かされた。チクルスで第4番に至るまでに時間をかけていること、演奏が磨き込まれて優れたものであることが、聴く側の音楽を味わう力を高めてくれていると実感した瞬間だった。
 こうしたことを意識しながら聴くと、第4番は、冒頭に限らず全体的にピアノ独奏が曲を引っ張って行く場面が多い曲だと改めて思う。調性感という面でも、第2楽章の冒頭を除けば、オーケストラよりもピアノ独奏の方が鮮明になるように書かれている箇所が多いのではないか。特に短調に転じる箇所でそれを感じる。「ああ、これが第5番の冒頭になると、オーケストラが和音で変ホ長調の調性感を明確に打ち出しておいて、ピアノ独奏は、さらにその先の扉を華麗に開いて行くという新境地に至るのだな」などと、頭の中にいろいろな理解の仕方が浮かんで来る。第5番の冒頭のソロは、装飾と言えばそれまでかもしれないが、別な物の見方もあるものだと気付く。
 第5番は、それまでの4曲にない豪快さ、豪華さがよく出ていた。ダン・タイ・ソンのピアノは、前週に聴いた小菅優ほどは鳴らないと思っていたが、この曲では、同じピアノから第4番までには聴けなかった音量も引き出しつつ、バランスは常に失わないという鳴らし方。ベートーヴェンの円熟の段階に合わせたピアノの鳴らし方が十分に考え抜かれ、かつ実現されていたように思う。
全曲を通して聴くと、クラウディオ・クルスの指揮もなかなか充実していた。すみだトリフォニーのピアノ協奏曲シリーズは、制作経費を抑えるために指揮者の人選に物足りなさを感じることが多々あったけれど、この人にはまた来ていいサポートをしてもらいたいと思った。
 今回は、演奏の細部の批評ではなく、聴き手の自分の作品感の話題が中心になった点は御容赦いただきたい。
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2012年11月11日

ダン・タイ・ソン ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲演奏 第1日

11月7日(水) 19時 すみだトリフォニーホール

ピアノ独奏:ダン・タイ・ソン
指揮:クラウディオ・クルス
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15
同:第2番変ロ長調 作品19
同:第3番ハ短調 作品37

 アジア人最初のショパン・コンクールの覇者ダン・タイ・ソンも50台に入って円熟期にさしかかっている。その彼が2日にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を弾いた。プログラムの解説を担当された寺西基之さんの文章によれば、5曲をチクルスで弾くのはダン・タイ・ソン自身初めてだったというが、5曲の全体像を十分に見通した上で1曲1曲に真摯に取り組んで、極めて充実したピアノ協奏曲チクルスとなった。

 初日は第1番から第3番の3曲。演奏は番号順で第1番ハ長調から。第1楽章から丁寧な演奏だったけれど、指揮のクラウディオ・クルスがこの曲に不慣れなのだろうか、4つ振りで振る場面が多過ぎて、音楽の流れが良くなかった。しかし、オーケストラの提示部を終えて独奏が入ると、最初の2つのフレーズを聴いて、ダン・タイ・ソンのピアノの素晴らしさには心を惹きつけられた。と言うのは、タッチの美しさだけでなく、フレーズを最後の音までしっかりと弾くことで、丁寧に音楽作りをする姿勢が伝わって来たからである。第2楽章ではダン・タイ・ソンが情に溺れず、しかしたっぷりと歌うと、それにぴったりと付いてきて、しっくりと行くようになった。リズム感が大事なポイントとなる第3楽章のロンドは、ソロから始まることもあって、完全に独奏者のペースになった。

 この文章を書いている今、まだ耳にはダン・タイ・ソンのベートーヴェンだけでなく、小菅優のモーツァルトの響きも残っているのだが、ダン・タイ・ソンは、硬質で透明感の高い、第1番や第2番の曲風に合う響きを引き出していた。主催のホール側の話では、すみだトリフォニーには2台のスタンウェイがあって、小菅とダン・タイ・ソンそれぞれに弾いて好きな方を選んでもらったところ、2人の好みが違っていて、それぞれ別のピアノでチクルス演奏に取り組んでいるとのこと。ピアニストそれぞれの持つ音だけでなく、楽器1台1台の音の違いも作用しているようだ。

 さて、第2番変ロ長調は、第1番よりもオーケストラのメンバーが少なくなる。「英雄」交響曲以前のベートーヴェンは、まだハ長調とニ長調以外ではトランペットやティンパニーを入れないというモーツァルトやハイドンの頃のオーケストラの扱い方を踏襲していたためだが、トランペットとクラリネット、ティンパニーの5人が抜けるだけで、ちょっと小ぶりになり、その分、全体に占めるピアノ独奏の割合が高くなって、客席の聴衆は第1番以上にピアニストと向き合う形になる。この第2番の第1楽章後半のカデンツァは、この日の3曲の中でも私にとって最も強く印象に残った場面だった。楽器の音量はそれほど大きくはなく、よくコントロールされた響きの中で、鍛えられた指で粒立ちのよい音が奏でられて行くのを聴くのは実に心地よかった。同時に、これはカデンツァに限らないことだが、古典的な様式感の枠組みを活かして演奏できて、技巧を十分に披露しても、誇示することがないのも、ダン・タイ・ソンの持ち味の一つであろう。第2楽章、第3楽章も集中力と抒情性の両立した好演。ただ、個人的に残念に思うのは、番号順で第1番を先に弾いてしまうと、第2楽章、第3楽章ともに第1番の方が面白みのある曲に書き上げられているので、曲が平板に感じられてしまう点だ。特に第3楽章のロンドは、第2番は8分の6拍子の普通のアクセントで変化に富んでいるわけではないので、そうした印象が強い。作曲年代順に第2番、第1番の順序で聴きたかった気もする。

 休憩後の第3番からはオーケストラのサイズが12型になって、一回り大きくなった。そして、クラウディオ・クルスの指揮も、精力的な指示が曲やオーケストラと噛み合っていて、実に良いサポートとなった。また、ダン・タイ・ソンのピアノも、作曲の深まりに応じて改めて音量も増し、説得力の豊かな演奏に仕上がっていた。第3番という曲の充実度やハ短調という調性も相まって醸し出されるベートーヴェンらしさを実感。新日本フィルも好演。数日前のカメラータ・ザルツブルクの後で聴くと、その安定感にホッとさせられた。
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2012年11月08日

11月2日(土) 小菅優のモーツァルト後期協奏曲チクルス 第1回

11月2日(金) 19時 すみだトリフォニーホール

小菅優 モーツァルト後期ピアノ協奏曲チクルス 第1回
ピアノ独奏:小菅優
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
管弦楽:カメラータ・ザルツブルク

モーツァルト:歌劇『イドメネオ』序曲
同:ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
同:ピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488
同:交響曲第41番ハ長調 K.551

 小菅優がモーツァルトの後期ピアノ協奏曲(第20番〜第27番)を2回の週末で弾くという企画の初回を聴いた。小菅優は、これまでベートーヴェンの協奏曲やメンデルスゾーンのト短調の協奏曲などを聴いて、さらにじっくりと聴きたい恵まれた資質の持ち主だと期待していたが、今回のモーツァルトも、そうした彼女への期待を裏切らない充実した演奏だった。
 まず第21番ハ長調。第1楽章では、オーケストラの提示部の後の最初のソロに確かなテンポ感と音の芳醇さがあって、聴く者を小菅の世界に強く惹きつけてくれる。日本人の女性のピアニストがモーツァルト後期を一気に弾くと言えば、私はついサントリーホールがオープンした際の内田光子のシリーズを思い出してしまう(あの時も全曲を聴けたわけではない。聴けたのは2回だけだったが、今回の小菅の第21番を聴きながら、あの時も第21番は聴いたことを沸々と思い出した)が、ホールやピアノが違うとは言え、小菅優の魅力は当時の内田光子に勝るとも劣らないと感じた。第1主題がしっかりしている分、印象深いト長調の第2主題との対比もはっきりする。第2主題で特別な表情やテンポの揺れはなかったけれど、正攻法だった。かつて映画音楽で有名になったほど感傷的な第2楽章も、たっぷりとした表情だが、オーケストラのサポートも得て、ここでもアンダンテのテンポ感が常にあって、感情過多には陥らないバランス感覚に魅力を感じた。アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイの第3楽章も、音量の変化や16分音符の音階などに瞬発力のある演奏で、実に楽しく聴かせてもらった。
 改めて、小菅優のピアノは、左手がよく鳴っていて、その響きのしっかり感が、音色の豊かさに結び付いているとつくづく思った。響きの豊かさという点では、モーツァルトではなく、19世紀後半以降の作品を聴きたいピアニストという印象があるのだが、一方で古典を弾いても様式感と自分の音の魅力とを両立させていることを評価しておくべきだろう。
 後半の第23番でも、最初のソロに感心した。今度は、2分音符をたっぷりと鳴らして、実際に遅いわけではないけれど、ゆっくりに聴こえるような余裕のある開始だったからである。実際にはテンポがもたれたりしたわけではないのだが、1曲1曲が手の内に入っていること、そして、どの曲もいつでも同じアプローチで弾くというわけではなく、その日のプログラムの中でそれぞれの曲をどう演奏しようかと言う選択や判断があるように感じられる開始の仕方だった。第2楽章は、この日の2曲の中では最も短調の響きが続く楽章。透明感のあるピアノの響きと短調ならではの緊密な音楽を作り出そうとする小菅の集中力(これがないと、感情過多に聴こえがち!)が印象に残った。第3楽章では、私は第21番よりもピアノが「お喋り」な感じを楽しんだ。

 シェレンベルガーの指揮は、協奏曲2曲では、ソロに対してテンポを寄り添わせる感覚などは、問題点を感じさせない行き届いたものだった。ただ、残念だったのは、久しぶりに聴いたカメラータ・ザルツブルクに、かつてシャーンドル・ヴェーグを中心にまとまっていた頃のアンサンブルの良さがなくなっていたこと。特に木管楽器前列の水準に問題があり、フルートの音階でフォルテに入る箇所の多い「ジュピター」交響曲は、常にフルートが走って流れを乱してしまうので、どうしても楽しめなかった。「ジュピター」交響曲の後にオーケストラのアンコールで『フィガロの結婚』序曲が演奏された。

 このシリーズ、後半は10日(土)に第22番変ホ長調と第24番ハ短調、11日(日)に第26番「戴冠式」と第27番変ロ長調が続く。私自身は日生劇場のライマンの歌劇『メデア』の批評を担当する関係で後半を聴くことが出来ないが、演奏の成果は大いに期待できそうだ。

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2012年10月31日

10月のコンサートから 聴き応えのあったマゼール&N響

しばらく更新を怠っていました。今日、中間試験の採点が終わって、一息ついています。0時を過ぎて明日の朝になりそうですが、マゼールが初客演した10月のN響定期のことから書いていこうと思います。
(以上10月31日 記)

10月20日(土) 15時 NHKホール
 ロリン・マゼール指揮 NHK交響楽団
 ワーグナー(マゼール編):「言葉のない指環」〜ニーベルングの指環 管弦楽曲集

10月24日(水)・25日(木) 19時 NHKホール
 ロリン・マゼール指揮 NHK交響楽団
 クラリネット独奏:ダニエル・オッテンザマー

 モーツァルト:交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
 ウェーバー:クラリネット協奏曲第2番変ホ長調
 ラヴェル:スペイン狂詩曲
 同:ボレロ

 10月のNHK交響楽団は、巨匠ロリン・マゼールと初共演。スクリャービンが演奏されたAプログラムも是非とも聴きたかったのだが、自分自身の公開授業と重なってしまってどうしても足を運べず、CプログラムとBプログラムを聴いた。

 マゼールが日本のオーケストラを振るのを聴くのは3回目だ。昨年の東京交響楽団との演奏会は、震災の影響で会場がミューザ川崎からテアトロ・ジーリオ昭和に変更になって、とりわけデッドな音響の会場でのマーラー『巨人』をメインに据えたプログラムだったので、マゼールが振ったことでオーケストラの音色がどう変わったのかが直に伝わって来ないもどかしさがあったが、いかに無駄のない指揮をしているのかは、日ごろ聴き慣れた日本の楽団との演奏を見て、聴いて実感することが出来た。そしてもう一つ、もう四半世紀前のことになるが、読売日本交響楽団を振ってマーラーの『復活』を演奏した時のことは未だに忘れ難い。男性楽員だけで設立され、当時も男性だけだった時代の末期で、平均年齢が極端に高く、また常任指揮者を置かずに名曲コンサートばかりやっていて、楽団の演奏力がかなり下がっていた時代の読売日響だったが、マゼールが振った時は、過密スケジュールでリハーサル時間も少なかったはずなのに、全てピタッと統率されていて、音色の豊かさこそ不足していたものの、当時の読売日響の日ごろの水準からは信じ難いような見事な演奏だった。そういうわけで、マゼールがN響に登場すると知った時から、練習時間の使い方にシビアな要求を持つ楽員の多いN響との相性はさぞかし良いだろうと期待しいていたが、実際、期待に違わぬ演奏を楽しむことが出来た。

 Cプログラムは、かつてベルリン・フィルとも録音しているマゼール自身の編曲による管弦楽版『ニーベルングの指環』。16型で低弦を補強(16−14−12−12−10)した大編成での演奏。期待通り、日ごろのN響にはない艶のある音色が出て来たこと、マゼール自身の「円熟」の現れなのか、テンポがかつてのベルリン・フィルとの録音とは随分違って遅くなったことに驚きながら楽しんだ。編曲のぜひはさておき(筆者は、『指環』の管弦楽版で満足の行くものを作るのはおそらく無理だと考えているため)、『神々の黄昏』第3幕のジークフリートの葬送行進曲以下の部分は、それにしてもテンポが遅いと感じたのも事実だ。もちろん、歌手の息のことを考えなくて良いからこそ、こうしたテンポ選択がなされたのだろう。とは言え、ゆったりとしたフレーズの中で、N響が普段にはなくよく歌っていたのも事実だ。楽団の力をどれだけ引き出したかという点で、興味深い演奏だった。

 一方、ドイツ系の古典とロマン派の作品とラヴェルの管弦楽曲を組み合わせたBプログラムは、N響の高い潜在力が存分に引き出され、聴衆も大いに沸いていた。今回は『週刊オン・ステージ新聞』で批評を担当した関係で、初日は自分の会員席(Pブロック)ではなく招待席で聴き、2日目は自分の会員席(RAブロック)で間近に聴いた。最後の『ボレロ』は、両日でかなり表情が違って面白かった。
1曲目のモーツァルトの「プラハ」交響曲は、曲の多彩さを十分に示し、対向配置やピリオド奏法と言った近年の流行以外にも、隅々までスコアを見通せばまだまだ解釈の可能性があることを示して秀逸。マゼールは、9月のプレヴィンとは違って、モーツァルトでもかなり細かく振っているが、それが、第1楽章を例にとると、序奏でファゴットを鳴らして陰翳のある響きを作ったり、第1主題で2拍目から始まるフレーズの跳ねるような感じを引き出したりと、良い方向に作用していた。展開部の冒頭の2分音符が主体となる進行など、とても上品な響きを引き出していて快かった。第2楽章では特に木管と弦が重なる場面での豊潤さが魅力的。終楽章も、冒頭のフレーズで言えば最初の小節のヴィオラの1拍目など、アンサンブルの要の音を的確に振って、力づくではなく、テンポ、リズムに緩みのない音楽を築いて行く様が心地よかった。

 ウィーン・フィルの若き首席奏者ダニエル・オッテンザマーを迎えてのウェーバーのクラリネット協奏曲第2番変ホ長調もすばらしい演奏。私は、ウェーバーのクラリネット協奏曲と言うと第1番ヘ短調のイメージが強かったのだが、第2番は、技巧的にも音楽的にも凝った、難しい作品のようだ。オッテンザマーは、タンギングや指遣いなど極めて優れた基礎的技術に裏付けられた独奏で、作品の面白さを十分に伝えてくれた。第1楽章ではオーケストラだけの提示部に続く最初のフレーズでの力強い音と次のフレーズでの柔らかい弱音の2つだけで、既に聴衆を魅了して自分の世界に引き込んだ。それほどにオッテンザマーの音色には極上の質感がある。展開部から再現部へと飛び込む2オクターブの音階も爽快。第2楽章は、ソロの非凡な技巧を楽しんだのももちろんだが、ウェーバーのロマン派的な作風も十分に味わうことが出来た。チェロのピチカートなどがドイツの森のざわめきを連想させる冒頭と最後のメロディー、ソロの合間に二度顔を出すいかにもプロテスタントのコラール風のメロディーなど、ソロ以外のも散りばめられた個性的なフレーズのそれぞれの性格をマゼールがN響から十分に引き出していたからだ。快活な第3楽章もソロの明るい魅力が光った。

 後半はラヴェルの『スペイン狂詩曲』と『ボレロ』。前者は、ゆったりとしたテンポでしっかりとオーケストラを歌わせ、スペインの夜の濃密な空気を感じさせてくれた。私の語彙が貧しいので、ここでもまた「艶のある音色」という言葉くらいしか思い浮かばないが、前週のワーグナーとは違った「艶」を感じた。『ボレロ』は、初日は、無事にスタートした後、木管がソロをバトンタッチして行く前半部分で、「演奏中も指揮を見るんだ」と言わんばかり、マゼールが急に大きなアクションを取りだして、リズムやメロディーの単調に繰り返すのではなく、各楽器の性格に合った表情を引き出したり、メロディーにアクセントをはっきり付けさせたりしていたようだ。(2階席からはマゼールの表情が見えなかったので、この時どんな顔を振っていたのか、放送で確認してみたいと思っている。)後半、小太鼓が2台になり、トランペットにメロディーが回って来る辺りから銅鑼の入る最後までしっかりとクレッシェンドを続けさせる辺りが名伯楽ならではのオーケストラの操り様ではなかろうか。最後はテンポを落として豪快さも加えて圧倒的な演奏。2日目の『ボレロ』は、初日のような前半でのアクションはなく、マゼールのペースにオーケストラがしっかり付いて行った感があった。一夜のプログラムを通じてマゼールの指揮の語法の豊かさに改めて感服。もとより明晰な彼の指揮の魅力が、外来オケの来日公演ではなく、様々な指揮者で毎月聴くN響の10月の変貌ぶりを通じて余すところなく伝わった。ぜひ再共演に期待したい。
(以上 11月11日 更新)
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2012年09月15日

広上淳一と東京シティ・フィルのハイドン

9月12日(水) 19時 東京オペラシティ・コンサートホール

モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲 ハ長調
(フルート独奏:高木綾子、ハープ独奏:吉野直子)
ハイドン:交響曲第102番変ロ長調

 ハイドンの交響曲第102番は、ザロモン・セット第2期の6曲の中でも、最も斬新な響きに到達し得た曲だと言ってもいいだろう。第99番から第104番までの中で唯一クラリネットが使われていない曲なので、オーケストラの規模で「最大」というわけではないのだが、第1楽章の序奏や第2楽章での陰翳のある響きが味わい深い。また、オーケストラ全体が基本的に同じリズムで動いて、言わば「山が動く」ような瞬間的なパワーを発揮する箇所があるのが大きな特徴だ。
 後者に該当するのは、第2楽章の54小節目から56小節目、第4楽章の78小節目からの8小節と234小節目からの8小節である。普通は、交響曲のオーケストレーションというのは、各パートに様々なリズムが振り分けられていて、建築物のように「崩壊しない」構造を持たされているものだ。それは、時には低弦や管楽器のロングトーンだったり、またある時には第2ヴァイオリンやヴィオラの刻みであったり、様々なのだが、オーケストラ全体のリズムは、一つだけにはならないように趣向が凝らされているものである。ハイドンの100曲以上ある交響曲も、基本的にはこうした発想で書かれているが、第102番に至って、本当に一瞬だけれども、「筋交い」や「鎹」のような役割のパートが取り払われて、劇的な効果を発揮するのが上述の箇所なのである。別な言い方をすれば、ハイドンの交響曲の特に両端楽章(序奏を除く)では、普通は、極端なテンポの変更は出来ないように作曲されているのだけれど、先述の箇所は、オーケストラ全体が一斉に「走れば」、急激なテンポ変更も出来なくはない、そういう雰囲気が、ハイドンの数ある交響曲の中でもこの第102番に特有の面白みだと言ってもいいだろう。

 演奏のことではなく、私のハイドン論が長くなって恐縮だけれど、「ハイドンはどの曲を聴いても同じに聞こえる」という方に、1曲1曲それぞれの面白さを伝えることは、演奏家であれ評論家であれ、ハイドンの作品に愛着を持つ者にとっては共通の課題なのではないだろうか。
 広上淳一が10年ぶりに東京シティ・フィルに登場してのハイドンの交響曲第102番は、作品の面白さを味わう上でも、現在の広上が指揮者として到達している高い境地を知る上でも、とても充実した演奏だった。第1楽章の序奏(ラルゴ)と第2楽章は速め、第1楽章の主部はじっくり弾くというテンポ設定で、パート間の掛け合いの妙をしっかりと聴かせてくれた。第2楽章の最後、先述の54小節目からのフォルティッシモの後、56小節目では、ホルンの2分音符だけが響きが残る感触も、音の最後まで行き届いていた。第3楽章の4分音符3つの連続がトランペットやティンパニーに回って来る箇所などは、単純なリズムだけれどはっきり強調して刺激的。スリリングな掛け合いが続くプレストの第4楽章は、休符が多いコーダを大いに楽しんだ。
 東京シティ・フィルのホームページに掲載されている広上淳一のインタビュー
http://www.cityphil.jp/foyer/interview/iv_hirokami20120904.html
が面白い。「ハイドンの交響曲は、簡単に言えば『お遊び』。(中略)交響曲は最後の104番『ロンドン』まで遊びがあります。」と言う広上自身の演奏が即興性という遊び心にあふれているのが、演奏の成功の最大の原動力なのではないだろうか。
 1曲目のモーツァルトの交響曲第31番『パリ』は、私自身の勤務時間の関係で間に合わなかった。2曲目のフルートとハープのための協奏曲は真摯な演奏。高木綾子は、ルックス重視の「Jクラシック」系だけでなく、もっと音楽そのものを問われる場で聴きたいフルーティストだと思う。
posted by 英楽館主 at 19:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月21日

従来とは違う曲の魅力を引き出した清水直子のバルトーク

《7月中旬に書きかけたままになっていた文章を補足して掲載します。》

7月11日(水) 19時 東京オペラシティ・コンサートホール
7月12日(木) 19時 サントリーホール

広上淳一指揮 読売日本交響楽団
ヴィオラ独奏:清水直子

武満徹:『トウィル・バイ・トワイライト』
バルトーク:ヴィオラ協奏曲 Sz.120(ピーター・バルトーク版)
リムスキー=コルサコフ:『シェエラザード』

 期末試験の作成が一段落して、オペラシティへと足を運ぶ。学期末はいろいろな締め切りに追われているので、なかなか記事が書きにくい。「締め切りに遅れておいて、こんなものを書いているのか!」と叱られないタイミングが難しいからである。
それはともなく、この日は、読売日響の創立25周年記念の委嘱作品『トウィル・バイ・トワイライト』の再演から。中学生の頃から武満の初演や日本初演はたくさん聴いて来たが、『トウィル・バイ・トワイライト』は、その中では最悪の初演だった。初演の当時、読売日響はまだ「男性だけ」を売り物にしていた時代錯誤のオーケストラだった。加えて常任指揮者不在で、いわゆる「名曲」ばかり演奏していて、現代の作品に反応する力という点では東京のオーケストラの中で最低の状態にあった。あの頃、武満徹の管弦楽曲を聴く機会は今以上に多かったが、読売日響だけは武満を含めて日本人の作品をほとんど演奏していなかったのである。そして、当時の常任指揮者は旧東ドイツ出身のハインツ・レークナー。彼を全面否定する必要はないが、少なくとも武満の作品に関しては、経験不足、理解不足は明かだった。
 今回は、広上淳一という適材を得て、曲の味わいをしっかりと楽しむことが出来た。

 バルトークのヴィオラ協奏曲は、ピーター・バルトーク版での演奏。久しぶりに聴く清水直子の独奏も冴えていたけれど、その前に、このピーター版と従来のシェルイ版との違いがとても興味深い。これまでシェルイ版で聴き続けて来た印象が、かなり大きく変わるのである。
 個人的な思い出話も書くと、ヴィオラ協奏曲は、中学生の頃、私が初めて生で聴いたバルトークの作品だった。忘れもしない、定期会員になって初めて聴いた都響の定期演奏会。前半が江藤俊哉の独奏でバルトークのヴィオラ協奏曲、後半はブラームスの交響曲第4番だった。個人的な感傷はここまでとして、これまで何度も聴いてきたシェルイ版だと、ヴィオラの主題が始まると、2小節目からコントラバスのピチカート4つが主題を受ける対旋律の役割を果たすが、ピーター・バルトーク版は同じ音型がティンパニーで演奏される。その印象の違いはとても大きく、ティンパニーで聴くと、『管弦楽のための協奏曲』のティンパニー・ソロなどを連想して、「これこそバルトーク!」と言いたくなった。その他にも、シェルイ版の第2楽章の最後にあるファゴット・ソロのフレーズの扱いが全く違う等、オーケストレーションの違いは、まだまだこの作品の補筆にはいろいろな可能性があると知ったことが何よりも面白かった。
 アンコールは、読売日響ヴィオラ首席の鈴木康浩とのデュオでバルトークの「44の二重奏曲」からの1曲。ベルリンで活躍する清水も素晴らしいが、鈴木も少しも負けない。しかも張り合っていないところがとても素敵だ。
 後半はR.コルサコフの『シェエラザード』。広上淳一の指揮を、音楽の中身の多彩さと視覚的な多彩さの双方で堪能。コンサートマスター小森谷巧のソロも健闘していたが、それ以上に、他の楽器に楽しいソロがどれだけ散りばめられているかを改めて実感した。
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2012年08月19日

今年前半のコンサートを振り返って (1)

 今月に入ってから、まだ生の舞台には1つも接していない。この機会に、今年前半のコンサートを振り返っておこうと思う。まずは、批評を書き損なったコンサートの話題から。

 今年に入ってからの公演で、週刊『オン・ステージ新聞』に批評を書いたのは以下の11本である。

2月12日(日) ベルトラン・ド・ビリー指揮N響定期
  ※ ヴァイオリン独奏:イザベル・ファウスト。シューベルト『グレート』ほか。
2月 ヴァンスカ指揮読売日響のアホ作品の連続演奏
※ 特にクラリネット協奏曲は曲も演奏も素晴らしかった。
3月8日(木)・9日(金) 広上淳一指揮東京フィル定期
※ 黛敏郎特集。10年ほど前の岩城宏之指揮での同プログラムを思い出しつつ書いた。
3月16日(金) ラザレフ指揮日本フィル定期 チェロ独奏:横坂源
  ※ エルガーのチェロ協とラフマニノフの第2番。日本フィルの向上を喜んだ。
3月 バーデン州立歌劇場『ダントンの死』ほか&シュトットガルト歌劇場『運命』ほか
  ※ 現代物2本立を2公演併せて1本の記事にした。
5月2日(火)東京フィル100周年記念コンサート
&5月5日(土)新日本フィル40周年記念特別演奏会
※ 連休の休刊があった関係で、2公演で1つの記事とした。
5月25日(金) アルミンク指揮新日本フィル定期
※ エスケシュのヴァイオリン協奏曲の日本初演を中心に書いた。
6月2日(土) ゾルタン・コチシュ指揮東響定期
  ※ 硬質の音が印象深かったモーツァルト弾き振りと精神性を感じたバルトーク
6月8日(金)・9日(土) ヘンシェルSQベートーヴェン全曲チクルス(後半2公演)
  ※ とにかくパワフルで上手かった。
6月19日(火) 大野和士指揮 都響定期 ヴァイオリン独奏:庄司沙矢香
  ※ シマノフスキのヴァイオリン協奏曲ほか。
7月13日(金) 下野竜也指揮 日本フィル定期
※ 日本フィル・シリーズの再演特集

 実は、『オン・ステージ新聞』に紙面が用意されていたのに、書き損なってしまったコンサートが1つある。それは群馬交響楽団の第481回定期演奏会だ。現在首席指揮者・芸術アドヴァイザーを務めている沼尻竜典の指揮、今井信子のヴィオラ独奏で、
三善 晃:祝典序曲
バルトーク:ヴィオラ協奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調
というプログラム。土曜日の夕方の公演で、仕事の後、大宮から新幹線に乗って間に合うはずだった。ところが、実際に大宮駅に着いて、トイレに寄ってからホームに上がると、1本前の新幹線がちょうどホームに着いてドアが開いたところだった。私は、もともと乗る予定の新幹線だと到着がぎりぎりになる予定だったから、「10分早い新幹線に乗れてラッキー」と思い、自由席に座ったが、なんとその「あさま537号」は高崎通過で軽井沢までノン・ストップの列車だったのだ。というわけで前半を聴き逃してしまい、批評を書き損なってしまった。1日に4本しかない高崎通過の列車に当たってしまうとは、と自らの不運を嘆いた。
 このコンサートに注目したのには、いくつかの理由があった。まず、最近あまり取り上げていなかった群馬交響楽団の今について批評を書くなら、現在のシェフである沼尻氏の指揮する定期演奏会を選びたかった。もう一つは、もう20年前になるけれど、ドミトリー・キタエンコ指揮の群響の東京公演で聴いたショスタコーヴィチの第7番が感動的な演奏で、群響はショスタコーヴィチできっと頑張ってくれるのではないかという期待が自分にあったからだ。
 実際、軽井沢から折り返して駆けつけた群馬音楽センターで聴いたショスタコーヴィチの第4番は、なかなかの熱演だった。第1楽章中間の「あの猛烈な」フーガでも、オーケストラ全体でよく喰らい付いて頑張っていた。弦の各パートだけを取り出したら響きの厚みという点ではもう一頑張りしてほしい面もあったけれど、一体感という点では本当に上々の演奏だったし、それ以上に私が感心したのは、かなり年配の方の多い客席が、ショスタコーヴィチの中でもとりわけ難解な交響曲第4番を、それこそ一瞬たりとも聴き逃すまいと必死で喰らい付いている場内の雰囲気だった。東京のお客さんと違うのは、「どっちが上手い」みたいな比較をしようと思わずに純粋に聴いているところなのではないか。第4番は、70分もかかるのに3楽章構成で第1楽章と第3楽章が長いところにも特徴があるが、長くて掴みどころのない第3楽章も、緊張感の途切れない好演だった。
 ショスタコーヴィチというのは、楽譜に書いてあることを音に出すということとは別に、精神的な緊張をどれだけ持続できるかということが演奏の成否を左右する作曲家だと私は思う。交響曲の場合だと、オケが上手いかどうか以上に、指揮者とオケが一緒に音楽を作ろうという意志が途切れずに続くかどうかが他の作曲家の交響曲以上に大切だ。オケが指揮について行かないのも言語道断だが、オケが上手くない時に指揮者がオケを見下してしまっても、こうした緊張は完全に切れてしまう。かつてのキタエンコと群響の熱演も、この2つの要素が噛み合って初めて成り立ったものだったし、今回の第4番は、ステージ上の指揮者とオーケストラを全面的に信頼して聴いている聴衆の力も相まっての演奏だったと思うので、書き損なったことはとりわけ残念だった。
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2012年07月06日

ダニエル・ハーディング 軽井沢大賀ホール芸術監督就任記者会見

ダニエル・ハーディング 軽井沢大賀ホール芸術監督就任記者会見

7月1日(日) 12時 軽井沢大賀ホール ロビー
[登壇者]
ダニエル・ハーディング(軽井沢大賀ホール芸術監督)
藤牧 進(軽井沢町長・軽井沢大賀ホール理事長)
大賀 緑(故大賀典雄氏未亡人)
司会:大西 泰輔(軽井沢大賀ホール常務理事)

 様々な主催者から記者会見の御案内をいただくが、学校で教師をしていると、ほとんどの場合、欠席せざるを得ない。ところが、今回のハーディングの就任披露会見は、6月28日(木)の夕方の東京と7月1日(日)の軽井沢に設定されていたので、日曜日は出席が可能だった。折しも、千曲川の鮎が解禁でこの週末に上田まで鮎を食べに行く計画を立てていたこともあり、楽しみが増えたとばかりに軽井沢に出かけた。
 開場してもう7年になる軽井沢大賀ホールを訪れたのは初めてだ。ガラスを多用してロビーから周囲の緑を楽しめる環境が何とも心地よい。記者会見は、そのロビーでゲネプロの前に行われた。

 ハーディングの軽井沢大賀ホール芸術監督就任は、ファンにとっては朗報だが、世界中から引っ張り凧のハーディングがはたしてどれだけ軽井沢に登場できるのかを危ぶむ方もいるにちがいない。今回の記者会見は、大賀典雄氏を偲ぶ発言が主で、軽井沢での今後の具体的な演奏の計画については、新しいプレス・リリースはなかった。と言うことは、秋から夏までのヨーロッパの音楽シーズンの単位で考える限り、2012年〜13年のシーズンには、特に新しいコンサートの予定はないということだろう。日本の年度単位で行けば、2013年度にも「芸術監督」が登場しないのは寂しいことだから、おそらく2013年秋以降、来年度の後半には何か計画があるのではないかと私は推測している。
 それはともかく、音楽関係者の質問がどれも「空振り」に終わってしまった今回の記者会見で、最も面白い質疑応答があったのは、信濃毎日新聞の子ども記者の小学生たちとハーディングとのやり取りだった。この日、記者会見に参加した子ども記者は4人。いずれも県内の小学校5・6年生である。たとえばこんなやり取りがあった。

 子ども記者:どうして音楽家になったのですか?
 ハーディング:両親が大学に勤めていて(注:ハーディングはオックスフォードの出身)、私がコンピュー       ターゲームばかりやるような少年にならないように音楽を始めさせたのです。最初はピアノと       ヴァイオリンを習いましたが、自分に一番合っていると思った楽器はトランペットでした。

 ハーディングは、最初に大西常務理事の開会の挨拶に触れて、「『あいにくの雨』と言われましたが、私はイギリス人ですから、私にとってこれは普通の天気です。」と発言して場内を和ませていた。特ダネは何もないが、穏やかで紳士的な記者会見だった。

 もう一つ、私にとって興味深かったのは大賀緑氏の発言。彼女と軽井沢の縁は、戦時中に諏訪に疎開していて、諏訪から列車を乗り継いで軽井沢にいたレオ・シロタの許にレッスンに通った思い出のある地だという。私は、レオ・シロタの名前は、高校時代の恩師から教わった。恩師の師匠で、ロシア系のピアノ奏法を日本に伝えた人物。直接音を聴いたことのないレオ・シロタについては、恩師はその東京音楽学校での後輩の園田高広氏(残念ながらお2人とも亡くなられた)の演奏を通じて想像するより他ないのだが、やはり日本のピアノ界にとっては偉大な恩人なのだと思った。
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2012年07月03日

味わい深かったハーディング&新日本フィルの「エルガー2番」

6月29日(金) 19時15分 サントリーホール
ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
ワーグナー:歌劇『タンホイザー』(パリ版)序曲とバッカナール
エルガー:交響曲第2番変ホ長調

 1月の定期、5月の40周年記念演奏会に続いてダニエル・ハーディングが新日本フィルに登場。今回はワーグナーとエルガーの2曲プログラム。
 前半のワーグナーは、拍節感に柔軟性が感じられる点があまりドイツ的ではないのかもしれないが、ややゆっくり目のテンポでも音楽の流れは常に停滞せず、各パートがよく溶け合った響きを創り上げていて、端正な仕上がりの演奏だった。
 序曲では、「ヴェーヌス讃歌」へとクレッシェンドして行く途中で、2小節のレガートが続く箇所を息長く歌わせていたところがハーディングらしい味付けだった。私にとって面白かった点の一つは、序曲からバッカナールに入った直後の音楽の運び。序曲よりも明確な拍節感を伴い、エネルギッシュで、木に竹を接いだような音楽の性格がよく浮かび上がっていたと思う。また、バッカナールの後半で女声合唱(シレーヌ)が歌うメロディーをヴァイオリンが奏でるあたりのけだるさを感じさせる響きも、オペラの場面を彷彿とさせるものがあった。パリ版が好きというわけではないが、接ぎ目を覆い隠さないようなアプローチでこの版を楽しむのも有りなのかなと思いつつ、知的なワーグナーを楽しんだ。
 後半のエルガーは、難曲だが名演。エルガーの交響曲と言えば第1番の方が有名だが、第1番が、部分部分のメロディーを切り取って聴衆として歌ったり、プレイヤーとしてさらったり出来るという点では古風な作りの曲なのに対して、第2番は全体が精妙な織物のように仕込まれていて、冒頭のメロディー以外のメロディーはなかなか反芻しづらい曲である。だが、オケの響きがよく溶け合って、旋律が受け渡されて行く様子が、上質な織り物の手触りのように伝わって来るので、聴き手を飽きさせないし、約65分(実際には63分くらい?)という曲の長さを感じさせない。音楽の変わり目の直前で随所に残る響きの余韻、あるいは第3楽章の最後の弦の和音など、「これぞエルガー」という温もりのある響きの心地よさは、演奏するオーケストラと客席の聴衆双方にとって、この一曲がかけがえのない時間となっていることの証ではなかったろうか。新日本フィルも、メンバーがハーディングの棒に共感を持っていて、自然と響き合っている感じ。そうなると、無理に強奏する必要がなくなるので、金管も外さなくなって来る。相乗効果が生んだ柔らかく上質な響きに浸ることを存分に楽しんだ1時間だった。限られた練習時間でよくぞここまで仕上げたと思うが、打楽器には、さらに面白さを追求する余地も残っていたように思う。
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2012年04月24日

カンブルラン指揮読売日響 フランク 交響曲ニ短調

4月21日(土) 18時 サントリーホール
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団
サクソフォン:須川展也

(メシアン:微笑み)
(イベール:3つの小品 [読売日響メンバーによる木管五重奏])
(同:アルト・サクソフォンと11人の奏者のための室内小協奏曲)
フランク:交響曲ニ短調

 土曜日も授業の私立学校に勤める者として、土曜日だから18時開演と言うのは、実に腹立たしい。この日は保護者会。何とか終わらせて、学校を出て大宮駅に着いたのが18時10分。次の上野行きは18時22分ということで、迷わず18時15分発の新幹線に乗る。¥1,580の出費は結構痛い。新橋からタクシーを飛ばしてサントリーホールに到着したら、イベールはサクソフォンのアンコールがあって、ちょうど休憩に入るところだった。新橋からは地下鉄でも後半に間に合った。

 そこまでして聴くかと言われてしまいそうな行動だが、フランクの交響曲1曲だけでも十分に聴き応えがあった。冒頭の1小節を聴いただけでも、息の長い呼吸感があり、全体に行き届いた演奏を期待して「無理をして良かった」と思ったほどだ。単に暗さだけを強調して聴き手に緊張感だけを強いながら開始するのではなく、聖堂に足を踏み入れた者が荘厳な雰囲気の中で呼吸を整えるかのような、長く深い呼吸が感じられたのである。フランクの交響曲と言えば、曲目解説では「循環形式」が付き物のように指摘されるが、その本質を語るにはカトリシズムの法悦感について考察することが欠かせないのではなかろうか。その点、同じオルガニストとして活躍したブルックナーと共通する何かがこの交響曲の響きには感じられる。
 とりわけ第1楽章のコーダの長いクレッシェンドの頂点から下降音型を繰り返すところでのフォルティッシモの音が天上から降って来るような感触など、カトリックの高い尖塔から降って来る響きが作曲者の念頭にあった箇所ではないかと思うのだ。(こうした感覚は、残響のあるホールの1階席でないと味わいにくい。かつて若い頃は天井桟敷専門でわからなかったが…)ブルックナーの場合、第7番でも第8番でもノヴァーク版でシンバルが入る箇所は上昇音型から成り立っている。ノヴァーク版の当否やシンバル追加の是非は措いて、ブルックナー自身が曲の頂点と考えた箇所が上昇音型から成ることは間違いない。フランクは、第1楽章の最後が曲の演奏時間のちょうど真ん中あたりで、ここを頂点に考えていたとすれば、音型はまったく異なることになる。また、コーダの簡潔さは、ブルックナーとは対照的だ。

 カンブルランのフランクについては、聴く前から第2楽章の中間部で退屈しないような鋭い響きが聴かれるだろう、第3楽章冒頭の和音などは小気味よいものになるだろう、等々の予想をしていた。その予想はほぼ当たっていたが、第1楽章提示部の呼吸感の深さは、私のフランクへの理解を大きく深めてくれるものだったと言っても言い過ぎではない。ドイツ、フランスと言ったお国柄に起因するものとは違った、カトリックという土台を交響曲に見出だせたので、改めてフランクのオルガン曲を聴いてみたいとも思った。
 もう1点、先日ドイツ、カールスルーエでHさんと語り合った際に、「指揮者が音楽を作れている場合とオーケストラが音楽を作っている場合」という話題になり、以来1カ月、自分が生で演奏を聴く場合に自分自身のテーマにして来た。Hさんの言いたかったことは、「指揮者が機能せず、オケが音楽を作って支えている時に、それを理解できない批評家が指揮者を褒めたりすると、演奏している自分たちの士気は下がる。(だから、批評家はそこを見抜けることが大切だ。)」ということだった。私は、下手だったとは言え、アマチュアでオーケストラをやった経験があるから、どちらかと言えばそういう問題には敏感な批評家だと思う。(だから、先日のように、現在のインバルについては極めて否定的に書く。)そして、この日のカンブルランと読売日響のフランクは、まぎれもなく、指揮者がしっかりと機能した演奏だった。第1楽章の冒頭を聴いて、フランクの作品に対する関心が深まっただけでなく、「呼吸感」というのは、いわゆる「縦の線」を合わせること等とは違って、オケのメンバー同士が演奏しながらのコンタクトで創り出して行くのは極めて難しい要素だと改めて気付いた。もともと、歌が好きだから、呼吸感のある演奏が好きだということもあるが、少し違った面からも、演奏の呼吸感について考えて行こうと思っている。

 演奏には満足したが、終演後に大変な失敗に気が付く。この日の保護者会では、
@ せっかく来ていただいた保護者の方全員に一言ずつ発言してもらうこと。
A フランクの交響曲に間に合うように終わらせること
を重視していたのだが、今年度のクラス役員の保護者を決めることをすっかり忘れて散会してしまった。新幹線代よりも高くつきそうな失敗である!!!
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2012年04月15日

上岡敏之指揮ザールランド州立管弦楽団演奏会 2012年3月 ドイツ旅の記 その4

P1000397a.JPG3月26日(月) 20時 ザールブリュッケン コングレス・ハレ
上岡敏之指揮 ザールランド州立管弦楽団演奏会
メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』作品26
同:ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25(独奏:ラグナ・シルマー)
シューマン:交響曲第1番変ロ長調作品38
※ 写真は演奏会場のコングレスハレ内部

 ザールブリュッケンに来たのは、上岡敏之指揮のザールランド州立管を聴くためだ。上岡のもう一つの本拠地ヴッパータールには何度か訪ねて記事を書いているが、ザールブリュッケンにはなかなか訪ねる機会が得られずにいた。

 ドイツ・ロマン派でまとめた選曲は、上岡敏之の特長とよく噛み合ったプログラムだと思う。1曲目の『フィンガルの洞窟』は、冒頭で提示される少しメランコリックな第1主題はレガートで歌い、チェロなど中音域で提示される第2主題はテヌ―トデしっかり歌うというアプローチでの演奏。結果として第1主題はイン・テンポだが、第2主題はややゆっくり目のテンポになっていた。詩的な内容は豊かだが屈折のないメンデルスゾーンの音楽は上岡の個性によく合っている。
 2曲目のピアノ協奏曲第1番ト短調は、シューマンのイ短調と並ぶドイツ・ロマン派のピアノ協奏曲の傑作だが、日本ではあまり演奏されない。旧東ドイツ出身の女性ラグナ・シルマーのピアノは、特別に凄いところもないが、しっかりと弾いていたという印象。ただ、音楽の運びにもう少し流麗さがあってもよいのではないかと感じる箇所があった。私のこの疑問がどうやら的確だったということは、アンコール2曲目のバッハの『ゴールドベルク変奏曲』「アリア」で判明。声部が厚くなったり薄くなったりする関係もあるが、テンポがしっかりと保てない箇所があったからである。
 後半のシューマンの交響曲第1番変ロ長調は、テンポの緩急をつけてたっぷりと旋律を歌わせた演奏で、上岡の音楽的センスの良さを存分に楽しむことの出来る演奏。第2楽章のメロディーの美しさはとりわけ味わい深かったし、もともとテンポの変化に富んだ第4楽章は、上岡の全力投球がダイナミックな表現に結実していた。最近、マネージメント会社の意向なのか、日本では選曲が後期ロマン派に偏りがちだが、こうした曲目をもっと日本でも演奏してほしいものだと思う。蛇足だが、演奏会のプログラムに「春」というタイトルがどこにも記されていないのが日本とは違うところだった。
 さて、お目当てのザールランド州立管だが、数年前にBオケからAオケに昇格した、これからの発展に期待すべきオーケストラなのだろうけれど、現状では、Bオケ時代の低迷ぶりさぞかし大変だったのだろうと拝察する点が少なくない。特に弦のアンサンブルが噛み合っていないのは大きな問題だ。コンサートマスターは牽引力不足。第2ヴァイオリンは、首席奏者がほとんど指揮者とコンタクトを取らずに自分の世界に引きこもりがち。ヴィオラの首席奏者はアンサンブルにはいろいろと神経を遣っているようだが、音が小さい。そして次席奏者が隣の首席奏者に合わせずに勝手に動く傾向にある。アンサンブルが安定しないので、角の崩れた豆腐のような音楽になってしまうのは大変に残念だ。上岡敏之が音楽総監督に就任して3シーズン目になるのだが、まだオーケストラを大きく変えることは出来ないようだ。

 終演後、短時間だが楽屋で上岡さんとお話をする。本当は、10月の新日本フィルとのヴェルディの『レクイエム』や来年春の日本フィルとの『アルプス交響曲』など、日本での今後の演奏についていろいろとお話をうかがいたかったのだが、この日は御多忙で時間が取れなかった。翌日は朝9時からヴッパータールの市議会に出なければならないため、この日の夜のうちにヴッパータールに戻らなければならなかったからである。ドイツの音楽総監督は、演奏面だけでなく、こうした補助金に絡む雑務も多いので本当に激務だと思う。オーケストラについても辛口のことを書いたが、ザールブリュッケンには、また機会を探して訪ねたいものだ。次回は是非、劇場にも足を運びたいと考えている。
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インバル&都響のブルックナー7番に辟易

インバルのブルックナー7番

4月12日(木) サントリーホール 19時開演
エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 ピアノ独奏:児玉桃
(モーツァルト:ピアノ協奏曲第8番ハ長調「リュッツォウ」)
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版) 

 私にとっては、新学期が始まって最初のコンサート。4月から、勤務時間等の関係で、夕方に休暇を取って仕事を早退しない限り、コンサートは常に遅刻ということになってしまった。従って、演奏会の後半だけを対象にした記事が増えることになると思う。その点、あらかじめ御了承いただきたい。
 この日も、前半のモーツァルトのピアノ協奏曲第8番が珍しく、児玉桃の独奏も含めて楽しみにしていたのだが、聴くことが出来なかった。曲目を()で括ったのは、私は聴いていないという意味だ。それにしても、サンクト・フローリアンに詣でるほどブルックナーの好きな私が、「前半のモーツァルトを楽しみにしていた」と書くのは、近年のインバルの指揮の荒っぽさに辟易しているからである。

 かつて、フランクフルト放送響の来日公演(特に、出来た直後のサントリーホールで聴いたマーラーの5番は素晴らしかった!)や都響との初共演で聴いた頃(マーラーだけでなく、ショスタコーヴィチの5番の終楽章で狂おしいばかりにテンポを詰めて行った表現など、今でも記憶に残る)は、インバルを楽しみにしていたものだ。都響とも、一時期は、ヴァーグナーの楽劇『ヴァルキューレ』を1幕ずつ3回に分けて取り上げるなど、レコーディングのレパートリーにない曲目を興味深く聴くことが出来た。しかし、「犬猿の仲」という噂だったベルティーニが音楽監督の時代には一度も登場せず、その後、久しぶりに都響に登場したインバルには、かつての新鮮さがなくなってしまった。マーラーを初めとして、既にレコーディングしている曲目の繰り返しばかり。今年度の「新マーラー・チクルス」の企画も、まだインバルのマーラーを聴いていない方々には朗報かもしれないが、私から見れば、何ら新たな芸術を問うこともない「ひどい企画」にしか見えない。
 ちなみに、私は、都響の首席指揮者に就任した際のマーラーの8番を取り上げて以来、『オン・ステージ新聞』の批評ではインバルを取り上げないようにしている。あの時、デンオンのマーラー交響曲全集のかつての演奏と比較して、どれだけ音楽の造形が雑になってしまっているかを実感したからだ。その結果、インバルの場合には、若い頃の演奏よりも最近の演奏の方がテンポが速いという現象が顕著に見られる。もちろん、マーラーの声楽の入る交響曲の場合には、日本人の歌手や合唱の力量が不足しているために速めのテンポを選択しなければならない場合もあるが、丁寧に聴いた時に、そうした要因だけでは片付けられない問題点が多々あるように思う。

 今回のブルックナーの7番も、テンポ設定からして疑問に思わざるを得ない。特に第2楽章アダージョは、冒頭こそ平均的なテンポだったが、中間あたりからは楽譜の指示からは考えられない早いテンポで唖然とした。もう少し具体的に書こう。第2楽章は「ABABA」というロンド形式で、「A」の部分には常に「非常にゆっくりと」というテンポ指示がドイツ語で書かれている。「B」の部分はモデラートで4分の3拍子。2回目の「A」も3回目の「A」も「最初のテンポで、非常にゆっくりと」と記されている。(書き添えておくならば、第1楽章は、ブルックナーとしてはテンポ指示が細かい楽章で、随所に指示があるが、第2楽章は、「A」「B」それぞれの冒頭以外にはテンポに関する指示が少ないのが特色である。)ところが、今回のインバルの指揮は、特に2回目、3回目の「A」で、最初はある程度遅いテンポに戻るのだが、次第に、あるいはどんどん、テンポが速くなって行ってしまったのだ。ブルックナーは、「A」の部分と「B」の部分では、テンポも拍子も明確に書き分けている。「A」の部分の音楽的な流れの中でテンポに変化があるのは当然許容されることだが、「B」の部分と同じ、あるいはそれ以上に早くなってしまった今回の演奏に疑問を感じたのは、私だけでないだろう。
 もう1点、指摘しておこう。第1楽章の391小節目、練習記号Wの箇所である。楽譜には「非常に荘厳に」と指示されていて、再現部からコーダへの推移の部分に当たる。今回のインバル&都響の演奏は、この部分が、テンポこそ速くなかったものの、間の取り方は早めで、ブルックナー特有の息の長さが全然感じられなかった。 私が思うに、こうした推移部は、ブルックナーを指揮する上で、演奏の良し悪しを左右するカギの部分ではないかと思う。マーラーだったら突然に楽想が変わって一瞬で出来る転換を、ブルックナーは、まるで要領を得ない喋り方で喋り続けるように時間をかけなければやってのけることが出来ないのである。改訂版で振り続けたクナッパーツブッシュ(当然、録音でしか聴いたことはない!)、ノヴァーク版で速めのテンポだったヨッフム、ハース版派だったヴァント、驚異的な息の長さを実現していたチェリビダッケ、独自の楽譜づくりにこだわるスクロヴァチェフスキ、ブルックナーを得意とする指揮者は、スタイルは様々でも、こうした推移部を大事に演奏するというところには共通点がある。ヨーロッパから見れば音楽では「辺境」の日本の一介の指揮者に過ぎなかった朝比奈隆も、こうした点は常に押さえていた。
 全体に、近年のインバルの指揮は、アクセルだけでブレーキが利かない。今回も同様で、従って、フォルテから急にピアノになる箇所は、常にオケ任せでピッタリと決まらない。拍節を明確にするための「アクセル」が踏まれるのは、ほとんどが金管の咆哮の場面で、ピアニッシモは常に繊細さに欠ける。時には「ピアニッシモ」の指示を見落としているのではないかと感じるほどだ。レストランや食堂に喩えるなら、第1楽章は、オリーブ油を使っていないスパゲッティを食べる時のように興醒めだったし、第2楽章に至っては、アイスクリームを温めてサーブされたような、何とも不愉快な気分にならざるを得なかった。しかも、演奏会だから、演奏中に「何だこれは!」と声をあげることも出来ずに、演奏が終わるまでは静かに聴かねばならないのだから、本当に「いい迷惑」である。

 インバルが都響を振り続けることの弊害については、項を改めて書きたいと思う。
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2012年04月04日

嵐の中のベートーヴェン

嵐の中のベートーヴェン

4月3日(火) 19時 すみだトリフォニーホール
セリゲイ・エデルマン ベートーヴェンピアノ協奏曲チクルス(第2夜)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調
        ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」
広上淳一指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団

 トリフォニーホールの「ロシア・ピアニズムの継承者たち」シリーズ。今回のエデルマンも私は初めて聴くピアニストだ。特に第1番に期待して会場に向かうが、折からの春の嵐で、秋葉原までたどり着いたところで総武線がストップ。小岩〜市川間で運転が出来ない(=江戸川が渡れない)とのことだから、各駅停車だけでなく、東京駅を回って快速に乗ろうとしても駄目だと判断して、山手線で御徒町に出て都バスで錦糸町に向かう。道路もかなりの混雑で所要時間40分、バスが駅に着いたのが18時58分。ぎりぎり間に合った。
 さて、聴く機会の少ない第1番は、ソロもオケも丁寧に取り組んでいた。エデルマンは、第2楽章のロマンツァでのタッチの美しさと第1楽章再現部での音の明るさが印象に残った。ロシア風のタッチの特有の美しさはこのシリーズに共通の要素でもあるが、後者の明るさはエデルマン独特の資質だ。第1楽章は、ソロが入る時は穏やかだが、再現部で冒頭の主題が再び現れる時にはハ長調でフォルテだけに、本人の音色の特色がよく表れていたのだろう。第2楽章のテンポがかなりゆっくりで、全曲で40分近い演奏だったが、広上淳一指揮のオーケストラもソリストとの相性が良いようで、長さに辟易することはなかった。
 後半の「皇帝」は残念ながら凡演。ソロはミスタッチが多かったし、第2楽章を中心に弱音で美しい箇所も散見されたけれど、フォルテはバリバリ弾きまくるだけで、音楽の流れに沿って強弱を弾き分ける繊細さがほとんど見られなかった。オケもこちらは集中力を欠いたのか、第1楽章展開部後半で木管の下降音階が崩壊してしまうなど、あってはならないミスがあって、感心できなかった。
 終演してみると、前半の第1番の印象と会場にたどり着く苦労が記憶に残る演奏会。買い物をしたりビールを飲んだりして時間を潰していたら総武線が22時30分頃に動き出したので帰宅。
posted by 英楽館主 at 07:47| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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