2015年11月23日

旧稿「読響アンサンブルの問題点について」の削除について

2009年9月30日に掲載し、その後、何度か改稿を重ねていた「読響アンサンブルの問題点について」は、以下の理由により、削除いたしました。コメントをお寄せくださった皆さまには恐縮ですが、どうぞ御了承ください。

[削除理由]
@ 既に掲載以来6年以上の歳月を経ており、批評の対象となった公演を実際にお聴きになった方の記憶も薄れて行く中で、小生が指摘する問題点を共有できる方が少なくなっていると思われること。
A 削除した記事は、当該公演において他の奏者と著しく異なる演奏をしていた特定の第1ヴァイオリン奏者を名指しで批判するものであったが、その奏者が第1ヴァイオリン内で弾く場所(席順)は既に変更されており、それによって、読響の第1ヴァイオリンのアンサンブルの問題点はある程度解消されていると感じられること。
B 記事を掲載し続けることは、名指しで批判された御本人にとっては不名誉であり、第1ヴァイオリンの席順が変更になった現在も掲載を続けることは、御本人の「忘れられる権利」という観点も含めて不適切であると考えること。

削除の結果、いただいたコメントも同時に削除されましたが、御了承ください。なお、ネット上でのコメントは、個人名を掲げたことに対する批判が多く、一部、私の意見に同感で日頃から何とかならないかと思っていたという御意見をいただきました。また、口頭で直接私に御意見をお伝えくださった方の傾向は全く逆で、「同感だ」「よくぞ書いてくれた」という意見が多く、一部、「私に名指しされた奏者はレッスンの生徒が集まらなくなる」等の音楽を商売とする立場の方からの御批判をいただきました。

今後とも、以下の2点を考慮しながら、発信をして行きたいと考えています。

@ 批評としての適切さ

 今回削除した記事で問題になったのは、単に演奏者を名指ししたことではなく、オーケストラの中でコンサートマスターや首席奏者になっていない奏者を名指ししたことだと私は認識しております。指揮者やソリスト、コンサートマスターや首席奏者はソロを担当する以上、実名での批評対象となるのは当然です。
 さて、オーケストラ以外の批評の場合はどうでしょうか?例えば劇評の場合、演劇の舞台は、チラシに名前や写真が載る主要な役柄の役者と、その他大勢の役者から成り立っていますが、特定の役者が舞台を壊してしまうような演技を敢えてした場合には、名指しで批評されても当然だと考えます。
 一方、音楽であれ、演劇であれ、何であれ、舞台芸術にはアクシデントが付き物です。故意ではないアクシデントで舞台が壊れてしまった場合については、名指しで一方的に批判するのは気の毒であり、差し控えるべきだと考えています。
 オーケストラのヴァイオリン奏者の場合、例えば、演奏中に弦が切れるというのはアクシデントですが、特定の奏者ばかりが弦を切るとしたら、それはその奏者の心がけが悪いからで、名指しで批判されても止むを得ないと考えます。弦楽器の弦は、張り替えた直後は音程が不安定になりがちですから、本番前に切れそうな弦をあえて張り替えずに使用する場合もあるでしょう。また、予想外に突然切れてしまう場合もあります。ただ、前者のような場合には、毎日の弦の状況を見ながら、不安のない状態で本番に臨むのがプロと言うものです。
 演奏中の飛び出しや、その他、ボウイングや音程の目に余るズレなど、アンサンブルを壊す行為についても同様だと考えており、今後とも、指摘すべきだと考えた場合には、あえて指摘を続けるつもりです。近年の演奏のトレンドでは、指揮者とオーケストラ全体がノン・ヴィヴラートで演奏している際に、1人だけがヴィヴラートをかけ続けるような行為等は、こうした指摘の対象にすべきだと考えています。

A ネット上の発信の難しさ
 ネット上での発信は、批評の対象となった舞台を共有していない方もどなたでも見られるものです。活字での発信以上に、部分的な切り取りや転載が自由に行えるので、発言の趣旨が曲解されることも少なくありません。私の発信に対してそれを読んだ方がどう感じるかについては、慎重な配慮が必要だと認識しています。ただし、良かったことは書くが良くなかったことは書かないという姿勢では批評は成り立たないと私は考えていますので、今後もズバズバ書くことは止めないつもりです。
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2015年05月18日

スダーン&東京交響楽団 モーツァルトとフランク

2015年5月14日(木) 19時 サントリーホール
東京交響楽団第630回定期演奏会
[プログラム]
モーツァルト:交響曲第31番ニ長調K.297「パリ」
同:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
フランク:交響曲ニ短調 作品48
ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団
フルート:高木綾子
ハープ:吉野直子

 久しぶりにコンサート評を書こう。3年前に今の学校に移ってから、めっきり更新が減ってしまっている。加えてPC環境の劣化(Windows Vistaのノートの老朽化)が更新への意欲を失わせる。今朝も、通勤時に30分以上座れるから書き始めたが、PCの立ち上げに20分近く。書く時間は残りの10分というひどい状態を何とかしないといけない。

 東京交響楽団は、音楽監督がノットに代わって2シーズン目に入った。前音楽監督のスダーンを迎えての定期演奏会は、パリで初演された作品を集めたプログラム。1曲目の「パリ交響曲」は、ピリオド奏法で、特にトランペットはナチュラル・トランペットを使うが、対向配置は採用しないという選択。1778年当時のパリのオーケストラの配置について詳しく知らないが、資料に基づいた選択なのだろうか。弦は当時のパリのオーケストラのような大編成ではなく10‐8‐6‐6‐4の編成。パリでの初演よりも人数は少ないけれど、ピリオド奏法で各パートの動きは埋没せず活き活きと聞こえて飽きない。トランペットの楽器の違いは、全体の響きを実に大きく変える効果がある。こうしたスタイルを取るオーケストラが日本でも増えてほしいものだと思う。
2曲目のフルートとハープのための協奏曲、ソリストは日本の女性を代表する2人。高木綾子は、小柄だがしっかりと息のあるフルートを聴かせてくれる。ハープの吉野の安定感は抜群でハープの守備範囲を知り尽くしてしっかりと押さえている。この曲は、特に第3楽章のオケに音のない場面でハープのためにオーケストラの音量をコントロールするのが難しく、冗長に感じられる場合もある曲だと思うが、ハープの守備範囲をしっかりと押さえて演奏している。
 後半のフランクもスダーンらしい演奏。好みが分かれるところだろうが、私は好きだ。具体的な特徴を2つあげておくと、棒無しで指揮するスダーンの呼吸感がよく出ていることと、各パートの音色がよくブレンドされた響きになっていることだろう。
 棒を持たずに4つ振りで進められて行く冒頭の循環主題には、1小節ずつの息遣いがしっかりと感じられる。主題の1小節目と2小節目は4拍目が休符になっているわけだが、この休符を、息を詰める時間ではなく次のフレーズに向けて呼吸する時間にしているのがスダーンのフレージングの特色だ。もっと張り詰めた間合いの取り方もあるだろうが、フランクの他の作品との共通性という点では、自然なやり方だと感じた。また、どこか特定のパートを強調すると言った操作を好まず、弦のバランスを作る際に第1ヴァイオリンをあまり強く弾かせないために、各パートの音色がよくブレンドされている半面で、対旋律も含めて、注意深く聴いていないと混沌と聞こえるのもスダーンの特質だと思う。CD等でもっと輪郭のはっきりした演奏に親しんでいる方には、「何が言いたいのかもどかしい」という感じ方もあるだろう。私は、第2ヴァイオリンやヴィオラが、特に指示された時だけ強く弾くというスタイルよりも、常に各パートが自然に弾いた結果として弦の響きが出来あがるような演奏が好きだから、この点でも楽しんだ。
 概ね楽しんだ演奏だが、いくつかの心残りも記しておけば、第2楽章冒頭のピツィカートは、より表情豊かなやり方もあったのではなかろうか。また、第3楽章で第2楽章の主題が回帰する瞬間は、管のブレスをもっと合わせて明確に主題を響かせても良かったのではなかろうか。
それにしても、スダーンにはまた時々登場してもらいたいものだと感じた。
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2014年12月31日

2014年回顧

2014年回顧
[印象深かったコンサート]
◎ ベルリオーズ:交響曲『イタリアのハロロド』
シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 ヴィオラ:鈴木康史 (1月)
◎ シューベルト:交響曲第4番ハ短調「悲劇的」
ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ヴォルフ・ディーター=ハウシルト指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 (1月)
◎ シューベルト:交響曲第2番変ロ長調
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」
ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団 ピアノ:ゲルハルト・オピッツ (3月)
◎ B.A.ツィンマーマン作品とベートーヴェンのチクルス
インゴ・メッツマッハー指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団(7月〜10月)
◎ ブルックナー:交響曲第3番二短調(ノヴァーク版第1稿)
  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 (12月)
◎ チェ・ムンス&上岡敏之 デュオ・リサイタル (12月)
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2014年11月08日

酷過ぎるぞ!読響チケットセンター(チケットぴあ)

まず最初に私の意見を書いておく。公益財団法人読売日本交響楽団は1日でも早く株式会社チケットぴあとの提携を解消し、自前の顧客管理をやり直すべきである。

秋、日本の、年度単位で会員募集を行っている楽団の会員継続の季節である。各楽団、様々な営業努力に明け暮れる時期だが、今年も読売日本交響楽団のチケット業務を請け負うチケットぴあの仕事ぶりが相変わらず劣悪である。
昨年度も会員番号に会員履歴を十分に反映しなかったことについては批判したが、その後もひどい対応だらけだった。(これについては項目を改めて別記するつもりである。)オーケストラが最も大切にすべき長年の定期会員に対する常識外れの対応は今年も続いている。

まず事実関係を列記しておこう。

10月9日
 定期演奏会の会場で、継続案内の発送について問い合わせる。10月23日(木)発送予定と聞く。

10月下旬
 何も連絡が来ない。(11月上旬発送予定と聞いていた他のオケの継続案内が先に届く)

11月1日(土)
 夜、帰宅すると読響チケットセンターからの継続案内が届いていた。開封して唖然とする。期限
は「11月7日(金)23時59分」。継続の案内が届いてから期限まで1週間もないなんて暴挙ではないかと憤慨する。特に11月1日(土)は連休初日。私は在宅していたが、旅行などに出ていた人も多いはず。そういう人は3日(祝)以降に案内を受け取ることになったはずだ。年間会員券のS席は1席でも¥45,000を越える。読響チケットセンター(チケットぴあ)には、そうした高額とは言わないまでも一定以上の金額の「商品」を売る上での常識というものが全く欠如している。

11月2日(日)
 新日本フィルのサントリー定期会場で読響の事務局の然るべきポストの方に前日の継続案内の件について苦情を言う。

11月4日(火)
 日中、読響事務局から私の携帯に計5回着信がある。(着信回数の多さは、読響側が非を認めたものと解釈してよいだろう。)授業を終えて着信に気付き、私から連絡する。幸い事務局とはまだ電話がつながった。前々日の苦情を受けて、事務局からチケットぴあに問い合わせたところ、チケットぴあ側から以下のような報告を受けたという苦情への回答であった。
「席数が少ない会員には予定通りに継続案内を発送したが、席数の多い会員には発送手続きが遅れて、発送が10月30日または31日になってしまった。」
私は以下の3点を指摘した。
@ そもそも席数の多い会員から発送手続きを行うべきで、順序が逆である。(私の場合も、自分だけではなく、誘った友人もいるので、継続を決める前に連絡を取り合う必要があるから。席数の少ない会員よりも日数を必要とする。)
A 読響事務局側から問い合わせないと失態を報告して来ないチケットぴあの仕事ぶりの劣悪さ。読響事務局には毎度のことながら、「1日でも早いチケットぴあとの業務提携終了をお勧めする」と申し添えた。
B 発送の遅れみ見合った継続手続きの期限延長。

事務局側は、@については「山之内さんのおっしゃることがもっともです。」との回答。Bについては「山之内さんのお座席については私どもが責任を持って対応させていただきます。」という口頭での回答。Aについては無回答(そりゃあ、サラリーマンとしては下手なことは言えないでしょうね)。

11月7日(金)
@ 新日本フィルのトリフォニー定期で知人に尋ねると、読響の継続は「とっくに来ている」とのこと。事務局からの11月4日(火)の回答内容と一致。連絡が遅れた「一部の会員」としては怒りを新たにする。
A 帰宅したが、今までのところ、メール、書面いずれの方法でも読響事務局からの公式な謝罪はない。
B 一応、自分で手続きをしたいので、読響のホームページを開いて手続きを始めるが、会員番号入力に手間取っているうちに期限を過ぎて以下のような画面になる。そもそも、他のサイトと同様にユーザー名とパスワードなら簡単に手続きは進むのだが、なぜ読響チケットセンターは「会員番号」の入力を強要するのだろうか?ぴあと提携している、例えば新国立劇場やジャパン・アーツなども会員番号ではなく会員本人にとって覚えやすいユーザー名でログイン出来ることを考えると、納得がいかない。

2014年 11月 7日(金)23:59 までにご回答ください。
「気楽にクラシック会員(2014年度限り)」の方で新シリーズを含め他のシリーズの申し込みをご希望の方は、[シリーズを変更する方]フォームから、いずれのシリーズも購入しない方は[継続しない方]フォームからお手続きください。
お申込期間は終了しました
締切:2014/11/07 23:59:00

この問題については、読響チケットセンター(チケットぴあ)の対応が不十分である限り、今後も追及して行くつもりだ。
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2014年08月16日

酬恩庵再訪

P1010336a.jpg今朝の京都新聞を読んで、薪の一休寺で江戸時代の画家原在中(はらざいちゅう、1750〜1837)の「観音三十三身図」という掛け軸があり、今日まで公開されていると知ったので、あいにくの雨の中だったが、早速足を運んでみた。数年前の大晦日にもこの寺を訪れており、その際の様子も英楽館に書いた。今回は再訪である。
原在中の「観音三十三身図」は様々な姿態の白衣観音を描いたもの。それも見応えがあったけれど、絵だけでなく寺の建物などについても、観音図の公開に合わせて壇家の方の御奉仕による解説があったのが有り難かった。
前回訪ねた時も酬恩庵の庭園の写真を撮って英楽館に載せたのだけれど、庵を一周すると裏手にも枯山水の庭園があることを今回の解説で初めて知った。前回は大晦日という日程もあって、他に誰も拝観するお客さんがいない状態で、奥まで見ないで帰って来てしまったのである。まさしく「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」と実感。私は『徒然草』52段の仁和寺の法師のことを笑えなくなってしまった。
写真は庵の裏手の枯山水の庭園。
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2014年08月05日

ジャン・エシュノーズ『ラヴェル』

P1010324a.jpgジャン・エシュノーズ著(関口涼子訳)『ラヴェル』
2007年10月19日 みすず書房刊

 毎日の仕事に追われているうちに暦は8月。立秋ももう目の前だ。よく「学校の先生はいいよなあ。夏休みが長いから!」などと言われるが、これは誤解も甚だしい。私の勤務校では夏期講習の真っ最中。私も、7月22日から8月7日までと8月18日以降、日曜日を除いて毎日、授業がある。しかも、国語教育の学会は「夏休み」がシーズンだから、このところ、日曜日ごとに自分が発表をしたり、司会をしたり、勤務校の仕事ではないけれど、十分に仕事。つまり週休2日でもなく休みなしに仕事をしなければならないのが「夏休み」なのだ。
 それでも、会議やら生活指導の当番やらの雑用から解放される分、少し気持ちに余裕が出る。目の前の課題に追われながらの調べ物ではない読書のための時間を少し見つけることのできる季節なのだ。
 この春から気になっていて、ようやくじっくりと読めたのがこの1冊。伝記・評伝ではなく、小説だが、作曲家モーリス・ラヴェルの晩年10年間を描いているから、登場人物にはピアニストのマルグリット・ロンやパウル・ヴィットゲンシュタイン、指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニなどが出て来る。トスカニーニなど、巨匠としてではなく、ラヴェルの作品を作曲者の好みと違うテンポで指揮してラヴェルをイライラさせた指揮者という脇役で登場するのが面白い。そしてラヴェルが晩年の10年間に描いた作品が当然話題になる。音楽好きには楽しい小説だ。
 作家のエシュノーズ(1947〜)の脚色を楽しみながら、せっかくだから、今年の夏はラヴェルの伝記も読んでみようかと思った。
posted by 英楽館主 at 07:31| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

メッツマッハーのベートーヴェンが凄い!

メッツマッハーのベートーヴェンが凄い!

7月18日(金) 19時15分 すみだトリフォニーホール
ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』Op.43序曲
B.A.ツィンマーマン:わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た(1970)※
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調Op.67
※=日本初演
バス:ローマン・トレーケル、語り:松原友、多田羅迪夫

 先週末から10月初めにかけての新日本フィルの定期演奏会は、夏休みを挟んで4回連続でメッツマッハー指揮でベートーヴェンとベルント・アロイス・ツィンマーマンの組み合わせ。ベートーヴェンはともかく、これほどまとめてツィンマーマンに取り組む企画は珍しい。初回の13日(日)サントリーホールの公演は、勤務校の野球部の生徒たちの応援で球場に足を運んだ関係で後半のベートーヴェンの「英雄」しか聴けなかったが、新日本フィルから、とても引き締まった音色が引き出されていて印象深い好演だった。学期末の繁忙期を乗り越えて、昨日は、ようやくプログラムの最初から、ベートーヴェンとツィンマーマンのプログラムを最初から楽しむことが出来た。また、昨晩は、偶然だが、今週の公演リハーサルでメッツマッハーの通訳を務めたKさんと隣の席だったので、リハーサルの様子をいろいろとうかがうことが出来たのも楽しかった。
 結論から言えば、どの曲も新鮮で、特に第5交響曲は、これまで何百回と聴いて来た中でも長く記憶に残るに違いないすばらしい演奏だった。

 1曲目は『プロメテウスの創造物』序曲。5分ほどの小品だが、よく書けていて聴き飽きない曲だと思う。メッツマッハーからはリハーサルで、「この曲が作曲された頃のウィーンはロッシーニが大流行していた時代だったので、ベートーヴェンはロッシーニよりももっとロッシーニ風の作品を書こうと意識して作曲した」のだという趣旨の説明があったそうだ。なるほど、コーダの長いクレッシェンドはロッシーニ・クレッシェンドへの対抗意識を持ちながら書かれたというのは興味深い話だ。
 序奏の3〜4小節の力強さとオーボエのソロの品格のある音色、力感みなぎるアレグロ。その展開を打ち切ってコーダのクレッシェンドに持ち込む8小節の剛直な推移部も、ベートーヴェンらしさが横溢。こういう瞬間は、ロッシーニとベートーヴェンでは頭に思い描いている音楽が根本的に違うと感じる。体操の宙返りに譬えるなら、ロッシーニは身を屈めてクルクル回るイメージだが、ベートーヴェンは体の済みまでピンと張りつめた伸身の宙返りと言ったところだろうか。最後のフォルティッシモの音を短めに切る終わり方も鮮烈だった。

 2曲目のツィンマーマンの遺作は、社会的な問題意識の高さと精緻な作曲から、1960年代後半という時代の雰囲気をも振り返ることの出来る傑作。Kさんが通訳のお仕事上持ち歩いておられたピアノ・スコアを見せてくださったのだけれど、例えばライマンのオペラなどとは全然違って、声楽のソロは音程が取れないような難解な楽譜ではない。1分の1拍子が多用されている点にも特色がある。1拍子というのは、拍の流れよりも呼吸感が深く感じられる拍子で、それが、ドイツ語のテクストが鮮明に聴き取れる作曲とも密接に絡んでいると思われる。語り手2人とバス歌手が担当するテクストはツィンマーマン自身が聖書とドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』からまとめたものだ。
さて、実際の演奏を聴くと、オーケストラの楽譜はとてもきめ細かく書かれている。打楽器は、何かを叩く音だけでなく、新聞紙などの紙を破るという「特殊奏法」も要求されていて、その乾いた響きが、社会への絶望に満ちたテクストの雰囲気を聴衆に伝える上で大きな効果を発揮している。ソロや語りの言葉の間にちょっとずつ挿入される間奏も、テクストの性格を端的に表していて、思わず引き込まれてしまう。後半、聖書からのテクストを語り続けていた第1の語り手もドストエフスキーを語り出すという(意図された)混乱が生じて来る場面で、語り手には、自身が床を踏み鳴らすなどの身体運動が要求されているが、これもまた、追いつめられて行く感覚の表現としては絶妙。自分の身体を「楽器」にして声を響かせることに馴れている歌手たちが、自身の進退を言わば撥にして床を叩く役目を求められる。この語り手は、精神的に相当にキツイ役だと実感。40分近い長さだが、全曲を聴いても長いとは感じなかった。むしろ、ツィンマーマンを才能豊かな作曲家だと発見する幸せを感じたと言っていいだろう。

 後半の交響曲第5番も、最初から最後まで極めて充実した演奏。誰もが聴き馴れた曲を、よくぞここまで見直しをした上で再構築してくれたと感服する。オーケストラからアクティヴな反応を引き出そうとするメッツマッハーの指揮はとても精力的。50代の今だからこそ出来る演奏でもある。隅々まで指揮者とオケの意志がみなぎっていた第1楽章。ここでもまた、再現部のオーボエのソロ(古部賢一)の品のある音色が味わい深かった。第2楽章は、弦の柔らかい響きと各自がアンサンブルの中での役割を明確に意識した木管のメリハリのある響きが印象に残る。特にファゴット(河村幹子)が好演。第4楽章は第1主題とノン・ヴィヴラートを採り入れた第2主題の性格の描き分けがこんなに鮮やかに出来るのかと感服。聴きながら、次回の第7番イ長調の第1楽章などで、どこで解放弦を使って鮮烈な響きを作り出してくれるかなど、これから先のメッツマッハーのベートーヴェンを聴くことが心から楽しみになった。
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2014年06月28日

モルゴーア・クァルテット 第40回定期演奏会

モルゴーア・クァルテット 第40回定期演奏会

2014年6月26日(木) 19時 浜離宮朝日ホール
リゲティ:弦楽四重奏曲第2番(1968)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番変ロ長調Op.138
*     *     *
ピンク・フロイド:原子心母(1970)
キング・クリムゾン:レッド(1974)
イエス:危機(1972)
(アンコール曲)
キース・エマーソン:ザ・ランド・オブ・ライジング・サン

 モルゴーアのメンバー4人は、それぞれが所属する楽団で重責を担いながら、年に2回の定期演奏会を20年にわたって続けて来た。そのお祝いでのモルゴーアのオーラを前面に出したコンサート。ロックの編曲が話題を呼んだ場合に備えて、初めての昼夜2回公演。彼らの精力的な活動ぶりにまず敬意を表したい。

 ところで、作曲家の中には、CDで聴くだけでは作品の真価が伝わらないという人がいる。もちろん、誰の作品でも生演奏で聴くことは大切なのだが、リゲティほど生演奏に接する意義を感じる作曲家は、そう多くは見当たらない。今回、私は弦楽四重奏曲第2番を聴いて、改めてリゲティの資質・才能に感服した。
 弦楽四重奏曲第2番は5楽章構成。特に最終楽章で細密な音の動きがリゲティならではの独特の世界で、まるで音そのものだけではなく音が響く空間、空気まで聴いているような錯覚を聴く者に与える。その感覚は『アトモスフェール』や『ロンターノ』と言った管弦楽曲の代表作と軌を一にするが、それらの単一楽章の作品と違って、5楽章構成で、聴く者の音感・リズム感が様々に刺激されて作曲家の意図した世界に巧妙に導かれて行く感覚を味わえるのが、この弦楽四重奏曲第2番の独特の面白さなのだろう。
 そう考えると、第1楽章冒頭のフェルマータ付きの休符から、聴衆は耳をそばだてて音を聴こうとする神経のスイッチを入れさせるように仕向けられ、第2楽章では微分恩の微細な音程の感覚に、第3楽章はピチカートで醸し出されるリズムの可能性に、第4楽章は強弱や音の高低の幅の広さに対して耳を適応させて行くという点で、それぞれの楽章が第5楽章への伏線になっていると解釈することが可能である。
 演奏もモルゴーアらしい精密かつ作品に誠実なものだった。そして弾いた彼らだけでなく、「やっぱりリゲティは凄い!」と感じたことが大収穫。

 ショスタコーヴィチの第13番は、緩急緩の単一楽章形式。プログラムの曲目解説で池辺晋一郎氏が指摘している通り、「曲頭と曲尾のアダージョが、スケルツォ的な中央部分のいわば額縁にもなっている構造」なのだが、18〜19世紀の音楽のダ・カーポでのシンメトリーな構成と違って、一旦は踏み出したスケルツォの世界に、どこか恐る恐る、探りながら後退して行くような曲尾のアダージョへの推移に、この第13番ならではの味わいがあるのではないだろうか。私は、この曲を生では初めて聴いたかもしれない。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を数多く初演したベートーヴェン四重奏団のヴィオラ奏者ボリソフスキーの70歳を記念して彼に献呈された曲なので、単にヴィオラが活躍するだけでなく、ヴィオラに高音域が多用されているのが特色。弟子ドルジーニンの弟子であるバシュメットが美しい高音を奏でることを思い起こせば、ボリソフスキーの音を聴いたことのない方でも作曲家の念頭にあったイメージが少し共有出来るのではないだろうか。
そんな曲を弾かねばならないヴィオラ奏者は大変だが、モルゴーアでは小野富士が力演。

 後半は同じ1970年前後イギリスのロックから第1ヴァイオリンの荒井英治が編曲した3曲。忙しい演奏活動の合間を縫っての荒井の編曲への熱意には毎回の事ながら頭が下がる。この時代のロックが単なる商業主義に堕していなかったことは私なりに理解出来たし、元のアルバムも聴いてみたいと思わないわけではない。ただ、浄瑠璃を聴くという私のもう一つの専門を考えると、ロックに手を出すのは守備範囲の広げ過ぎにならないかという危惧もある。アンコールは2011年3月11日の震災の被災地に捧げられたピアノ曲の荒井英治編曲による弦楽四重奏版。
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2014年06月22日

住大夫引退公演(大阪千秋楽)

国立文楽劇場開場30周年記念公演『菅原伝授手習鑑』
(第1部)
二段目 杖折檻の段    豊竹呂勢大夫・鶴澤清介
    東天紅の段    豊竹咲圃大夫・竹澤宗助
    丞相名残の段 切 豊竹咲大夫・鶴澤燕三
(第2部)
三段目 車曳の段     大夫掛け合い・鶴澤清治
    茶筅酒の段    竹本千歳大夫・竹澤団七
    喧嘩の段     豊竹咲甫大夫・野澤喜一朗
    訴訟の段     竹本文字久大夫・鶴澤藤蔵
    桜丸切腹の段 切 竹本住大夫・野澤錦糸
四段目 天拝山の段    豊竹英大夫・鶴澤清友

 4月の国立文楽劇場の文楽公演は、開場30周年を記念して『菅原伝授手習鑑』の通し。その千秋楽の昼夜(2段目から4段目「天拝山」まで)を聴いた。この日が4月・5月公演で現役を引退する7代目竹本住大夫の大阪での最後の舞台ということで、特に夜の部は超満員だった。
 4世竹本越路大夫が引退したのが平成元年の国立文楽劇場開場5周年記念公演『菅原伝授手習鑑』だった。越路引退後の文楽を四半世紀にわたって牽引して来た住大夫も、奇しくも同じ『菅原』三段目の「桜丸切腹」が引退披露狂言となった。ただ、今回は急な引退発表で引退の口上がないのが寂しいところだ。文楽の口上は前後に休憩を入れないと実施出来ない(人形を遣う舞台の床面は下げているので「舟底」と呼ばれる。これを上げて、毛繊や金屏風を立てて行うため。)ので、既に天拝山の段を含む狂言立てが発表されていたから口上が入れられなかったのである。
 そういう事情もあって、千秋楽は、床を降りた住大夫が舞台前方に姿を現し、観客に直接挨拶をした。そして分裂時代の三和会以来、舞台で苦楽を共にして来た吉田蓑助が桜丸の人形で花束贈呈を行った。越路大夫の引退時にも東京の千秋楽で文楽としては異例の「カーテンコール」があったが、あの時以上に感動的な光景で、私もぐっと来た。
 越路大夫が76歳で引退した時、一回り年下だった住大夫がここまで頑張ってくれるとは思わなかった。80歳を過ぎても舞台で語った大夫は、豊竹姓の元祖豊竹越前少掾や昭和では豊竹山城少掾、10代目豊竹若大夫などの例があるが、85歳を過ぎて語り続けた例はない。住大夫は本当によくぞここまで頑張ってくれたと思う。病後のリハビリに取り組みながら語る今回の「桜丸切腹」は、巧拙を論じるべき舞台ではない。場内にはすすり泣く観客もいたが、住大夫の語るこの段を毎回聴いて来た者としては、浄瑠璃そのものからは涙は出て来なかったが、自分と闘いながら死力を尽くして語る住大夫の姿は、私の記憶にいつまでもとどまることだろう。

 さて、今回の公演の収穫としてまず指摘しておくべきは、咲大夫の「丞相名残の段」に品格があったことだと思う。平成元年の通し上演の際に、大阪では住大夫・團六(現:寛治)、東京で織大夫(現:源大夫)・團六(現:寛治)が語って以来、前回の玉男一周忌追善興行まで、「丞相名残」は豊竹十九大夫が語り続けていた。本来の芸風や芸歴から言えば、源大夫が綱大夫時代にもっと語って然るべきだったのだが、清二郎(現:藤蔵)と組んでいたために十九大夫・清治、十九大夫・富助などの組み合わせが続いていて、玉男の人形は良くても肝心の床がいただけないことが多かった。咲大夫には「讒者のために罪せられ」など、もう少し丁寧な声の遣い方を望みたい箇所もあるにはあったが、同じ山城少掾系でも締まりのない語り口だった十九大夫とは異なり、品位ある菅丞相が語りによって造形されていたと思う。鶴澤燕三の三味線も、ゆったりとした足取りをよく醸し出していた。
 もう一人、熟年になってから進境著しいと感じたのが吉田玉也の白太夫である。前回は土師兵衛を遣っていても、小悪人ぶりが十分には出せていないもどかしさ、東天紅などで土師兵衛が中心になって進行する場面で「舞台は広い」と感じさせてしまう芸の隙間が残っていたのだが、今回の白太夫は、玉也が、玉男亡き後、人形と同化せずに自分の表情を抑えて人形を活かす術をよく獲得していることがうかがえる「桜丸切腹」だった。
posted by 英楽館主 at 08:09| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文楽よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月30日

新刊のお知らせ 『アップデートされる芸術 映画、オペラ、文学』

P1010303a.jpg新刊のお知らせです。

2014年3月20日付けで中央大学出版部から刊行された研究叢書58『アップデートされる芸術 映画、オペラ、文学』に拙稿を掲載していただきました。

まず目次を紹介しておきます。

第一章 百科事典に見る、二つの「啓蒙」――ツェドラー百科事典とフランス百科全書―― 織田晶子
第二章 マウロ・ジュリアーニ 須磨一彦
第三章 台本および最近の上演に見るベルリオーズ《トロイ人》の現代性 森岡実穂
第四章 メトロポリタン・オペラの《パルジファル》 松本道介
第五章 リヒャルト・シュトラウス《影のない女》初演からの百年史――音楽と最新演出を中心に―― 広瀬大介
第六章 大都市・機械・女――映画『メトロポリス』の〈男〉たち 岩本剛
第七章 『イタリア旅行』――ロベルト・ロッセリーニと眼差し 伊藤洋司
第八章 日本オペラにおける台本研究の必要性――團伊玖麿《素戔鳴》を例として―― 山之内英明

拙稿は、巨額の予算を投じて制作された團伊玖麿晩年のオペラ《素戔鳴》や《建 TAKERU》が再演されない原因の一つは作曲家による台本の抱える問題点にあるのではないかということを指摘したものです。
今回のテーマについては、さらに掘り下げて、今後とも、『古事記』や『日本書紀』などの日本の神話を題材としてオペラのあり方について、分析や提言をして行きたいと考えています。

各執筆者がそれぞれの研究テーマで書いた論文を集めた論文集なので、様々なテーマの論稿を含んでいます。御興味のある方は書店でお手に取っていただいたり、お近くの図書館等にリクエストなどをしていただければ幸いです。
posted by 英楽館主 at 09:28| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ雑談集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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