2013年03月31日

最近の舞台から(2)〜ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場の『ルル』

2月27日(水) 19時
3月2日(土)  14時
東京芸術劇場プレイハウス内特設舞台

ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場公演 『ルル』

フランク・ヴェデキント作(『地霊』『パンドラの箱』)
脚色・演出:シルヴィウ・プルカレーテ
ルル:オフェリア・ポピ 他
(ルーマニア語上演)

 かねがね、ドイツの劇場のSpielplanなどで演劇としての『ルル』の上演を見かける度に、オペラ以外の『ルル』を観てみたいと思っていた。東京芸術劇場のリニューアル記念公演の中に『ルル』を見つけた時から、この舞台を本当に楽しみにしていた。そして、ベルクのオペラ『ルル』について考える上でも、得るものが非常に多い舞台だった。オペラの世界は、基本的には音楽をカットしたり途中で止めたり出来ないという制約の厳しい世界で、演劇とは違う構造を持っていることには留意しなければならないけれど、オペラ『ルル』の演出にも相通ずる様々なアイデアが盛り込まれていた。

 冒頭、猛獣使いが紹介する猛獣の一つとして、シゴルヒに担がれてルルが登場する。真っ赤な口紅、黒のブラジャーとパンティーだけという姿のオフェリア・ポピがビニール袋に包まれて観客の前に姿を現すシーンは、とても刺激的で、かつ印象深いものだった。エロティックなことはもちろんだが、ルルが、男性にとって魅惑的な肉体を持つ存在だからこそ、シェーン博士にも愛され、最後は切り裂きジャックに襲われるという作品全体を貫くテーマがわずかな時間で端的に示されていたという点で、興味深い。(この場面自体は、オペラでもルル役の歌手が体当たりで演じてくれるなら可能。)

 演出の詳細については、もし書くとすれば非常に長くなるので項目を改めたいが、前半は『地霊』に相当する部分で、ルルがシェーン博士を撃ち殺すまで。休憩を挟んで後半は『パンドラの箱』で、パリのサロンとロンドンの屋根裏部屋の場面。後半の脚色は、オペラに比べると簡潔で、かつルルがどういう存在なのかが的確に示されていると感じた。端的に述べれば、前半の『地霊』は「ルル 対 男性」という構図の中でルルの自我が成長もしくは拡大して行き、男性がそれを制御できなくなって行く過程を描いたものであるのに対して、後半の『パンドラの箱』から脚色された部分は「ルル 対 社会」という構図が基本で、一旦、セクシャルな「もの」として男性社会に組み込まれてしまったルルは、そこから脱出出来ずに転落し、最も「セクシャルなもの」である女性の局部を切り取るという猟奇的な殺人者切り裂きジャックに殺されて死んで行く。前半の解釈については、私も今回の舞台を見る以前から、オペラの舞台を通じて見通しを持って観ていたが、後半について明確なコンセプトの舞台を見ることが出来たのは、大きな収穫だったと感じている。

 私はここで「ルル 対 男性」「ルル 対 社会」と書いたが、ここで描かれた「社会」は男性中心社会だから大差ないとも言えるかもしれない。だが、前半はシェーン博士や画家(今回の舞台では写真家)など、個としての男性が描かれているのに対して、後半では、不特定の客を相手に売春するルルの背後に(=舞台の外に)、不特定多数の男性社会の存在が感じられる演出になっていた。それは、ベルクも理解していたところなのだろうが、オペラ化当時の台本の中では十分に表現されていたとは言い難い。しかし、プルカレーテの脚色では、例えば「ルルが脱獄する過程」の煩雑な説明や、「ユングフラウ株の暴落」と言った胡散臭い経済の話は完全にカットされていて、売春婦としてのルルに台本の焦点が定まっていた。また、オペラでは台詞の意味が曖昧な存在の「少女」が、母親に売られて、ルルと同じように性的な「商品」にされて行く過程がしっかりと描かれて、ルルの悲劇が今なお世界中で繰り返されていることを告発するメッセージ性を発揮していたことは特に重要だった。母親が少女を置き去りにして去ったことが観客に知らされた後、彼女は別室に連れて行かれ、しばらくして悲壮な表情で再び舞台に出て来る。彼女が初めて性的な「商品」として扱われ、苦痛を伴う「儀式」を強いられたことは観客にもすぐに伝わる。そして、再登場してからの少女は、バスタブの中にいるルルとしばらく向き合う。台本構成の自由さは、オペラには真似の出来ないところだが、未完の2幕版とツェルハ補筆の3幕版がある歌劇『ルル』の場合、演出家にしっかりとしたコンセプトがあって、2幕とアダージョの間に演技が挿入できるならば、2幕版にも「3幕版とは異なる可能性」があるということになるのではなかろうか。
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最近の舞台から(1)〜彩の国さいたま芸術劇場の『オイディプス王』

2月17日(日) 14時 彩の国さいたま芸術劇場

さいたまネクストシアター公演『オイディプス王』(蜷川幸雄演出)

 昨年から、結構演劇を観ている。オペラももっと観たいのだが、第一に普通の高校教師の給料ではそうたくさんはチケットを買えないし、最近はチケット発売時の最安席の争奪戦にもほとんど参加できない(教員は土日が休みとは限らないし…)から、なかなか本数を増やせない。でも、オペラを観なくても、オペラの舞台について考える機会はたくさんある。その1つとして、この『オイディプス王』のことを少し書いておきたい。

 松本のサイトウ記念フェスティバルでストラヴィンスキーの『オイディプス王』を観たのは、もう15年以上前のことだ。あの曲は、演奏会形式やCDも含めていろいろ楽しんで来たけれど、演劇では観ていないなあと言うのが、最初にこの公演に興味を持ったきっかけ。そして、彩の国さいたま芸術劇場の広報誌の記事などで、この公演をさらに楽しみにするきっかけとなったのは、今回の公演がソフォクレスの原作から直接に舞台化するのではなく、ホフマンスタールが翻案した台本の日本語訳に基づくものだと知ったことだった。オペラ好きなら、ホフマンスタールとR.シュトラウスの共作第1作がギリシャ劇『エレクトラ』だということは誰でも御存知のはず。

 劇場に足を運んでみると、演出の蜷川幸雄は入院中ということで助演出の演出家が実際の稽古を取り仕切ったようだが、演出プラン自体は、基本的に蜷川幸雄が立案してあったもののようだ。オーディションを通過した若手俳優たちで構成されるさいたまネクストシアターのメンバーたちは、皆、若くて、そのエネルギーが三味線を持って動き回るコロス役として力強く発散されていた。劇場の舞台上に設けられた特設舞台での上演は、客席と舞台とが身近で、臨場感に溢れていた。額縁舞台の枠を取り払うという試みは、オペラではオーケストラ・ピットの配置の問題も絡むから困難が伴うが、演劇の世界はその点では自由だ。

 蜷川幸雄は、広報誌のインタビューでは、ホフマンスタールの翻案した台本はソフォクレスの原作に比べると一つ一つの台詞が短く、的確にまとめられている点に持ち味があるという趣旨の発言をしていたが、実際に観て、聴いてみると、それでも相当な長台詞がたくさんある。ホフマンスタール翻案台本の日本語訳は小塩節が訳者の1人に入っているので、最近のものではなさそうだ。今、入手できるか等、細かいことは機会を探して調べてみたい。

 それにしても『オイディプス王』という芝居は、ほとんど男性ばかりの舞台で、女性はオイディプスの母にして妻というイオカステだけだ。言わば、男の声のアンサンブルになる。楽劇『エレクトラ』との関係で言えば、ホフマンスタールは『オイディプス王』の翻案台本をいつ書いたのだろうか?(R.シュトラウスが『エレクトラ』を作曲する前なのか、後なのか?)私は、ホフマンスタール翻案の『オイディプス王』は一度耳で聴いただけなわけだけれど、もし『エレクトラ』と比較するならば、『オイディプス王』の方が台本としての完成度は高いように思われた。もし、楽劇『エレクトラ』以前に『オイディプス王』の台本が出来ていたとしたら、R.シュトラウスは、自分のオーケストレーションに女声、特にドラマティック・ソプラノの声を載せることを前提として題材を選定していたということになるのだろうか?

 その後、学年末の繁忙期に突入して、あの時に感じた問題点はまだ何も手付かずのままなのだが、ここでは備忘録程度に記しておく。でも、オペラばかり観ていてもオペラを知ることにはならないと言うのは、強がりでもあろうが、真実でもある。

 ネクストシアターの役者さんたちの中で、一際存在感があったのは、イオカステを演じた土井睦月子。まだ20代前半だが、長身で品のあるたたずまいと台詞の力とを両立させていた点で、今後注目してみたい女優だと感じ、記憶にとどめた。
posted by 英楽館主 at 06:54| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ雑談集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

義仲寺を訪ねて(4)〜番外編 今井四郎兼平の墓

P1000741a.JPG「木曾の最期」は、木曾殿とその乳母子今井四郎兼平との再会に始まり、木曾殿の御首を取られてしまった後、兼平の「太刀の先を口に含み、馬より飛び落ちて貫かつてぞ失せにける。」という壮絶な自害に終わる。つまり、主題は「武将とその乳母子との絆」であると言っても良いだろう。従って、主役は、兼平は木曾殿と並ぶもう1人の主役なのだが、その兼平の墓は、義仲寺から数キロ離れた所にあり、今も地元の人に日々お供えを供えられている。
ラベル:今井四郎兼平
posted by 英楽館主 at 23:30| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

義仲寺を訪ねて(2)〜巴塚

P1000734a.JPG義仲寺にある巴塚。

巴は、「木曾の最期」によれば、義仲の軍勢の最後の5騎の中に残っていたとされる女武者。こうした「側近」が最後までいたところに、義仲の勢力が最後まで組織化されていなかった(京を武力で支配していたにも関わらず、全国支配のための組織を築くことが出来なかった)ことが読み取れる。

『平家物語』を教えるに当たっては、物語の語り手の視点に常に共感を持つ授業の進め方を心がけたいが、とは言え、自分自身は平氏政権や木曾義仲の「軍事政権」に対する冷静な歴史的視点を持ち続けたいと思っている。
ラベル:義仲寺
posted by 英楽館主 at 22:58| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

義仲寺を訪ねて(1)〜木曾殿の墓

P1000733a.JPG最近、更新が滞りがちで恐縮です。昨年4月に職場が変わって以来、仕事に追われがちなこと、職場が都心からかなり離れてしまったので、コンサートを最初から聴けないことが増えて、最後の1曲だけで批判をするのはどうか等、ためらわれることも多く、音楽評論関係の記事が特に減っています。

さて、小春日和だった今年の元日、大津市の義仲寺を訪ねました。冬休みの講習で高1の生徒たちに『平家物語』巻第九「木曾の最期」を講じたのがきっかけです。以前から、この場面を教える場合には教科書を暗誦して授業に取り組み、生徒たちに語り物の臨場感を疑似体験してもらう努めて来ましたが、今回、学校が変わったことで使用する教科書が変わり、「木曾左馬頭その日の装束には…」からではなく、『平家物語』巻第九「木曾の最期」の全文が掲載されているので、、私も冒頭部分を新たに暗誦して授業に臨んだ。正直に言えば、従来から暗誦していた部分と今回50歳近くになって新たに暗誦した部分とでは授業の完成度に差があったが、それでも、(自己満足かもしれないが)現場の高校教師としては、やるべきことはやったと思っている。

さて、その義仲寺、まずは寺名の由来にもなっている源義仲の墓の写真である。
posted by 英楽館主 at 20:38| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月10日

古義堂を訪ねて

古義堂b.jpg 今年度は国語総合の授業を4クラス担当した。その1年間の授業の最後に『論語』と『孟子』を取り上げた。
 昨年春から教えている高校は、授業数が多い上に生徒の理解のレベルも高いので、教科書もたくさん消化できる。これまで『論語』は取り上げずに終わってしまうことが多かったが、今回は教科書(東京書籍『国語総合』古典編)の『おくの細道』以外のすべての単元に触れることが出来た。
 さて、問題は授業の中身だ。『論語』は、句形などは大したものは含まれないし、教科書に他の単元以上に注が付されているので、注をつなぎ合わせると、生徒自身でだいたいの訳を作ることが出来る。だから、教える教師に中身がないと、授業が成り立たない。もとより私は、哲学的なことを講釈できるような聖人君子からは程遠い人物だから、『論語』のような教材を前にすると、ほとほと困り果ててしまう(中身がないのに困らない教師よりはマシだけれど…)。
 そういうわけで、朱子の『論語集註』なども参照してみたが、これでは訓古注釈の色合いが強すぎて面白い授業になりそうにない。荻生徂徠も参照したが、高校生の授業で親しみ易く取り組めそうだという観点から、伊藤仁斎の『論語古義』を使うことに決めた。中央公論社の『日本の名著・伊藤仁斎』に貝塚茂樹の口語訳があるので、これの助けを借りつつ、いつもの通りエクセルで白文と授業用の返り点・送り仮名を付したものと2種類のプリントを作成。現在の教科書の訓読法に沿った活字本がない(古いものはあるが、読み方が多少異なる)ため、読み方の決定にかなり苦心した。
 
 さて、授業も半ばまで進んだ2月下旬の日曜日に、京都、堀河下立売にある伊藤仁斎の古義堂跡を訪ねてみた。今でも仁斎の御子孫が住んでおられるようだ。一般公開はされていない。仁斎の時代からの書庫が残っているとのことで、ぜひ拝見したいが、それは、もっともっと自分が勉強してからがよいのではないかと思い、写真だけを撮って帰って来た。
 翌日の授業で、「昨日、仁斎先生のお宅に行って来た」と話し始めたら、ある生意気な男子生徒は私のことを「このオヤジ、馬鹿じゃないの?」って顔で見ていたけれど、古義堂の由来などの話を聞いて納得した様子。こういうやり取りも、授業の楽しみの一つだ。
posted by 英楽館主 at 11:18| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 国語教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月31日

ダン・タイ・ソン ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲チクルス 2日目

 前回の記事の後、また長いブランクになってしまいました。例年なら1年の回顧を書いている大晦日ですが、取り急ぎ11月中に書いてあった前回の記事の続きをアップしておきます。
 皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
                                     英楽館主

11月8日(木) 19時 すみだトリフォニーホール

ピアノ独奏:ダン・タイ・ソン
指揮:クラウディオ・クルス
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 作品58
同:第5番変ホ長調 作品73

 前夜に引き続き、ダン・タイ・ソンのベートーヴェン協奏曲チクルス後半を聴く。ダン・タイ・ソンは、第1日も、第1番・第2番と第3番では同じピアノでも違う鳴らし方をしているなど、5曲全体に対する見通しを持っているという印象を受けたが、後半の2曲でどういう深まりを見せてくれるのか、期待しながらすみだトリフォニーに足を運んだ。
 新日本フィルの関係者の話では、ダン・タイ・ソンは、今回は初日のリハーサルで5曲全部弾きたいと言い、楽団側もその実現のために相当な努力を払ったようだ。普通、プロ・オケのリハーサルは2時間1コマで、昼食休憩をはさんで午前・午後の計4時間で行われるが、11月5日(月)はダン・タイ・ソンの希望で1曲1時間ずつのリハーサルを行ったとのこと。楽団員や組合も協力し合って、2晩の全曲演奏会が作り上げられたということになる。私が感じたダン・タイ・ソンの真摯さや全体に対する見通しと、制作の過程とが一致していたということにもなるだろう。
 もう1点、聴き手の自分についての情報を付け加えておこう。すみだトリフォニーホールでは、これまでゲルハルト・オピッツやブルーノ・レオナルド・ゲルバー、エデルマンなど、何人ものピアニストでピアノ協奏曲全曲チクルスを行って来たが、2夜連続で聴けたのは今回が初めてだ。私は、ベートーヴェンは好きで、交響曲の全曲チクルスや弦楽四重奏曲の全曲チクルスはこれまで聴いて来たけれど、実はピアノのチクルスを聴いたことがなかった。ピアノ・ソナタの場合、回数が多過ぎて全てのスケジュールを合わせるのが難しいからだが、ピアノ協奏曲のチクルスも初めてだったというのは、我ながらピアノを聴く経験は多いとは言えないことを改めて実感する。

 さて、前半は第4番。この曲はピアノ独奏から始まることで知られているが、ダン・タイ・ソンの弾く冒頭のソロを聴いて、私はふと、「ベートーヴェンは、どんなタッチで弾いたのだろう」という想像をしてしまった。それほど美しいタッチだったし、この作品の中での冒頭のソロの大切さを十分に意識した演奏だった。
 それにしてもこの冒頭のソロは、二度や三度のあまり跳躍のない音程を組み合わせた穏やかなメロディーと1オクターヴの上昇音階から成り立っている。3小節目までの動きが抑制されている分、4小節目での右手単音のオクターヴは鮮やかに聴こえるように作曲してあると言っても言い過ぎではないだろう。その後のオーケストラ・パートは、ピアノと同じメロディーのようでいて、実は音階を避けて動いて行く。オーケストラのパートに音階が出て来るのは50小節も後のことである。こうした作曲をしているのは、ベートーヴェン自身がソリストとして通用するピアノの腕前を持っていて、独奏者のタッチの美しさをどこでどう見せるのが効果的かを第1番の頃よりも深く考えていたということなのだろう。これまで何度もこの曲を聴いていたけれど、こんな当たり前のことに今さら気付かされた。チクルスで第4番に至るまでに時間をかけていること、演奏が磨き込まれて優れたものであることが、聴く側の音楽を味わう力を高めてくれていると実感した瞬間だった。
 こうしたことを意識しながら聴くと、第4番は、冒頭に限らず全体的にピアノ独奏が曲を引っ張って行く場面が多い曲だと改めて思う。調性感という面でも、第2楽章の冒頭を除けば、オーケストラよりもピアノ独奏の方が鮮明になるように書かれている箇所が多いのではないか。特に短調に転じる箇所でそれを感じる。「ああ、これが第5番の冒頭になると、オーケストラが和音で変ホ長調の調性感を明確に打ち出しておいて、ピアノ独奏は、さらにその先の扉を華麗に開いて行くという新境地に至るのだな」などと、頭の中にいろいろな理解の仕方が浮かんで来る。第5番の冒頭のソロは、装飾と言えばそれまでかもしれないが、別な物の見方もあるものだと気付く。
 第5番は、それまでの4曲にない豪快さ、豪華さがよく出ていた。ダン・タイ・ソンのピアノは、前週に聴いた小菅優ほどは鳴らないと思っていたが、この曲では、同じピアノから第4番までには聴けなかった音量も引き出しつつ、バランスは常に失わないという鳴らし方。ベートーヴェンの円熟の段階に合わせたピアノの鳴らし方が十分に考え抜かれ、かつ実現されていたように思う。
全曲を通して聴くと、クラウディオ・クルスの指揮もなかなか充実していた。すみだトリフォニーのピアノ協奏曲シリーズは、制作経費を抑えるために指揮者の人選に物足りなさを感じることが多々あったけれど、この人にはまた来ていいサポートをしてもらいたいと思った。
 今回は、演奏の細部の批評ではなく、聴き手の自分の作品感の話題が中心になった点は御容赦いただきたい。
posted by 英楽館主 at 21:13| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

ダン・タイ・ソン ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲演奏 第1日

11月7日(水) 19時 すみだトリフォニーホール

ピアノ独奏:ダン・タイ・ソン
指揮:クラウディオ・クルス
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15
同:第2番変ロ長調 作品19
同:第3番ハ短調 作品37

 アジア人最初のショパン・コンクールの覇者ダン・タイ・ソンも50台に入って円熟期にさしかかっている。その彼が2日にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を弾いた。プログラムの解説を担当された寺西基之さんの文章によれば、5曲をチクルスで弾くのはダン・タイ・ソン自身初めてだったというが、5曲の全体像を十分に見通した上で1曲1曲に真摯に取り組んで、極めて充実したピアノ協奏曲チクルスとなった。

 初日は第1番から第3番の3曲。演奏は番号順で第1番ハ長調から。第1楽章から丁寧な演奏だったけれど、指揮のクラウディオ・クルスがこの曲に不慣れなのだろうか、4つ振りで振る場面が多過ぎて、音楽の流れが良くなかった。しかし、オーケストラの提示部を終えて独奏が入ると、最初の2つのフレーズを聴いて、ダン・タイ・ソンのピアノの素晴らしさには心を惹きつけられた。と言うのは、タッチの美しさだけでなく、フレーズを最後の音までしっかりと弾くことで、丁寧に音楽作りをする姿勢が伝わって来たからである。第2楽章ではダン・タイ・ソンが情に溺れず、しかしたっぷりと歌うと、それにぴったりと付いてきて、しっくりと行くようになった。リズム感が大事なポイントとなる第3楽章のロンドは、ソロから始まることもあって、完全に独奏者のペースになった。

 この文章を書いている今、まだ耳にはダン・タイ・ソンのベートーヴェンだけでなく、小菅優のモーツァルトの響きも残っているのだが、ダン・タイ・ソンは、硬質で透明感の高い、第1番や第2番の曲風に合う響きを引き出していた。主催のホール側の話では、すみだトリフォニーには2台のスタンウェイがあって、小菅とダン・タイ・ソンそれぞれに弾いて好きな方を選んでもらったところ、2人の好みが違っていて、それぞれ別のピアノでチクルス演奏に取り組んでいるとのこと。ピアニストそれぞれの持つ音だけでなく、楽器1台1台の音の違いも作用しているようだ。

 さて、第2番変ロ長調は、第1番よりもオーケストラのメンバーが少なくなる。「英雄」交響曲以前のベートーヴェンは、まだハ長調とニ長調以外ではトランペットやティンパニーを入れないというモーツァルトやハイドンの頃のオーケストラの扱い方を踏襲していたためだが、トランペットとクラリネット、ティンパニーの5人が抜けるだけで、ちょっと小ぶりになり、その分、全体に占めるピアノ独奏の割合が高くなって、客席の聴衆は第1番以上にピアニストと向き合う形になる。この第2番の第1楽章後半のカデンツァは、この日の3曲の中でも私にとって最も強く印象に残った場面だった。楽器の音量はそれほど大きくはなく、よくコントロールされた響きの中で、鍛えられた指で粒立ちのよい音が奏でられて行くのを聴くのは実に心地よかった。同時に、これはカデンツァに限らないことだが、古典的な様式感の枠組みを活かして演奏できて、技巧を十分に披露しても、誇示することがないのも、ダン・タイ・ソンの持ち味の一つであろう。第2楽章、第3楽章も集中力と抒情性の両立した好演。ただ、個人的に残念に思うのは、番号順で第1番を先に弾いてしまうと、第2楽章、第3楽章ともに第1番の方が面白みのある曲に書き上げられているので、曲が平板に感じられてしまう点だ。特に第3楽章のロンドは、第2番は8分の6拍子の普通のアクセントで変化に富んでいるわけではないので、そうした印象が強い。作曲年代順に第2番、第1番の順序で聴きたかった気もする。

 休憩後の第3番からはオーケストラのサイズが12型になって、一回り大きくなった。そして、クラウディオ・クルスの指揮も、精力的な指示が曲やオーケストラと噛み合っていて、実に良いサポートとなった。また、ダン・タイ・ソンのピアノも、作曲の深まりに応じて改めて音量も増し、説得力の豊かな演奏に仕上がっていた。第3番という曲の充実度やハ短調という調性も相まって醸し出されるベートーヴェンらしさを実感。新日本フィルも好演。数日前のカメラータ・ザルツブルクの後で聴くと、その安定感にホッとさせられた。
posted by 英楽館主 at 10:59| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月08日

11月2日(土) 小菅優のモーツァルト後期協奏曲チクルス 第1回

11月2日(金) 19時 すみだトリフォニーホール

小菅優 モーツァルト後期ピアノ協奏曲チクルス 第1回
ピアノ独奏:小菅優
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
管弦楽:カメラータ・ザルツブルク

モーツァルト:歌劇『イドメネオ』序曲
同:ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
同:ピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488
同:交響曲第41番ハ長調 K.551

 小菅優がモーツァルトの後期ピアノ協奏曲(第20番〜第27番)を2回の週末で弾くという企画の初回を聴いた。小菅優は、これまでベートーヴェンの協奏曲やメンデルスゾーンのト短調の協奏曲などを聴いて、さらにじっくりと聴きたい恵まれた資質の持ち主だと期待していたが、今回のモーツァルトも、そうした彼女への期待を裏切らない充実した演奏だった。
 まず第21番ハ長調。第1楽章では、オーケストラの提示部の後の最初のソロに確かなテンポ感と音の芳醇さがあって、聴く者を小菅の世界に強く惹きつけてくれる。日本人の女性のピアニストがモーツァルト後期を一気に弾くと言えば、私はついサントリーホールがオープンした際の内田光子のシリーズを思い出してしまう(あの時も全曲を聴けたわけではない。聴けたのは2回だけだったが、今回の小菅の第21番を聴きながら、あの時も第21番は聴いたことを沸々と思い出した)が、ホールやピアノが違うとは言え、小菅優の魅力は当時の内田光子に勝るとも劣らないと感じた。第1主題がしっかりしている分、印象深いト長調の第2主題との対比もはっきりする。第2主題で特別な表情やテンポの揺れはなかったけれど、正攻法だった。かつて映画音楽で有名になったほど感傷的な第2楽章も、たっぷりとした表情だが、オーケストラのサポートも得て、ここでもアンダンテのテンポ感が常にあって、感情過多には陥らないバランス感覚に魅力を感じた。アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイの第3楽章も、音量の変化や16分音符の音階などに瞬発力のある演奏で、実に楽しく聴かせてもらった。
 改めて、小菅優のピアノは、左手がよく鳴っていて、その響きのしっかり感が、音色の豊かさに結び付いているとつくづく思った。響きの豊かさという点では、モーツァルトではなく、19世紀後半以降の作品を聴きたいピアニストという印象があるのだが、一方で古典を弾いても様式感と自分の音の魅力とを両立させていることを評価しておくべきだろう。
 後半の第23番でも、最初のソロに感心した。今度は、2分音符をたっぷりと鳴らして、実際に遅いわけではないけれど、ゆっくりに聴こえるような余裕のある開始だったからである。実際にはテンポがもたれたりしたわけではないのだが、1曲1曲が手の内に入っていること、そして、どの曲もいつでも同じアプローチで弾くというわけではなく、その日のプログラムの中でそれぞれの曲をどう演奏しようかと言う選択や判断があるように感じられる開始の仕方だった。第2楽章は、この日の2曲の中では最も短調の響きが続く楽章。透明感のあるピアノの響きと短調ならではの緊密な音楽を作り出そうとする小菅の集中力(これがないと、感情過多に聴こえがち!)が印象に残った。第3楽章では、私は第21番よりもピアノが「お喋り」な感じを楽しんだ。

 シェレンベルガーの指揮は、協奏曲2曲では、ソロに対してテンポを寄り添わせる感覚などは、問題点を感じさせない行き届いたものだった。ただ、残念だったのは、久しぶりに聴いたカメラータ・ザルツブルクに、かつてシャーンドル・ヴェーグを中心にまとまっていた頃のアンサンブルの良さがなくなっていたこと。特に木管楽器前列の水準に問題があり、フルートの音階でフォルテに入る箇所の多い「ジュピター」交響曲は、常にフルートが走って流れを乱してしまうので、どうしても楽しめなかった。「ジュピター」交響曲の後にオーケストラのアンコールで『フィガロの結婚』序曲が演奏された。

 このシリーズ、後半は10日(土)に第22番変ホ長調と第24番ハ短調、11日(日)に第26番「戴冠式」と第27番変ロ長調が続く。私自身は日生劇場のライマンの歌劇『メデア』の批評を担当する関係で後半を聴くことが出来ないが、演奏の成果は大いに期待できそうだ。

posted by 英楽館主 at 18:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサートつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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